The Days of Multi第一部第7章パート1 投稿者:DOM
The Days of Multi
第1部 Days with Hiroyuki
☆第7章 桜舞い散る日 (マルチ1才〜2才) Part 1 of 2



 高校3年生になった浩之。
 あかりはずっと浩之と気まずい関係だったが、この頃ようやく元に戻り、以前のように浩之の家に
顔を出すようになった。

 マルチは、あかりが遠離っていた間に、かつて教えてもらった内容を思い出しながら料理に精進し
ていた。
 努力の甲斐あって、ひさしぶりに顔を見せたあかりが驚くほど上手になっていた。
 また、台所で仲良くおしゃべりしながら料理の研究をしているふたりの姿を見ていると、浩之は本
当に幸せな気がするのであった。



 マルチが上達したのは料理だけでなく、夜の技術も格段に進歩した。
 その理由はおもに浩之にある。
 マルチが心の病から回復して以来、以前にもまして愛おしく思われ、つい、夜が長く激しくなるの
だ。
 学習型のマルチは、そうした情熱的な夜をくり返すうちに、浩之の喜ぶ行動パターンや技術を習得
していったのである。

 さらにある時、家の掃除をしていて、浩之が隠していた雑誌類を偶然見つけてしまった。
 それがどういう内容のものであるか知って、顔を赤らめながら、それでも浩之を喜ばせるために役
立つ情報はないか、一生懸命目を通した。
 おかげで、掃除をすることも忘れ、いつの間にか帰って来た浩之が「マルチー」と玄関先から声を
かけたのに、あやうくブレーカー落ちしそうになったほど驚いたのであった。

 それやこれやもあって、浩之はいろいろな面で充実した日々を、マルチと共に送っていたのである。



 この年、来栖川のメイドロボ、セリオタイプとマルチタイプとが売り出され、爆発的な売れ行きと
なった。
 以前からメイドロボと呼ばれる存在はあったものの、「今年は事実上のメイドロボ元年」と言われ
るようになったほど画期的であった。
 予想されていた通り、生産が需要に追いつかず、予約の順番待ち状態がかなり長く続いたほどの人
気だった。

 セリオタイプはおもに大企業や医療施設に、マルチタイプは福祉施設や一般家庭に浸透していった。
 おかげでメイドロボが買い物をしたり、逆にレジに立っていたりするのが日常の光景となり、マル
チと出歩いても目立たなくなった。
 マルチの「妹」たちは、マルチのように表情豊かではなかったが、それでも、愛らしい容姿でよく
働き、どこでも人気の的だった。
 浩之も「妹」を見かけると、ついねぎらいの言葉のひとつもかけてやりたくなるのだった。



 5月、マルチは一年間の長期運用試験を終えた。
 最後のデータを提出した後、長瀬主任はマルチの所有権を藤田浩之名義にするための手続きをして
くれた。
 浩之は今日から名実共に、マルチの「ご主人様」になったのだ。

 会長の画策を知った後の浩之は、この長期試験も名目だけのものだろうと思っていたのだが、他人
の思惑がどうあれ、主任はしっかりと試験結果を有効利用するつもりであることを、この時教えられ
た。

 マルチは二つの面で極めて有用なデータを提供できたらしい。
 一つは料理。
 家事全般にめざましい成長を見せたマルチだが、あかりに仕込まれ、自らも努力を重ねたおかげで、
今やお料理教室を開いても立派にやっていけそうなぐらいの腕になっていた。
 もう一つは、対人関係だそうである。
 「マルチは、よい友人に恵まれたようだね。」と、主任が穏やかな笑みを見せながら言っていた。
 あかりや芹香、綾香のことであろう。
 「今回のデータは、今後のメイドロボ開発にきっと生かしてみせる。」と主任は張り切っていた。

 帰り際、マルチは主任に向かって、

「お父さん…
 時々遊びに来てもいいですか?」

 と聞いた。

 主任は一瞬絶句した後、

「ああ、いつでもおいで。
 遠慮はいらないよ。」

 と顔を綻ばせた。
 マルチも満面の笑顔でそれに答えた。
 今後は顔を会わせる機会がぐっと少なくなるはずだと覚悟していた主任にとっては、何よりのプレ
ゼントだったのだろう。

「お父さん。また来ますね。」

 笑顔で振り返りながら帰途につくマルチを、主任は研究所の入り口で手を振りながら見送った。



 翌年の春。
 浩之も高校を卒業し、無事大学進学を果たした。
 あかりも浩之と同じ大学である。
 あかりの実力ならもう一つランクが上でもいけた筈なのだが、浩之に合わせたらしい。
 相変わらず、ちょくちょく家に来ては、マルチと一緒に料理を作る。
 マルチがあかりに匹敵するほどの料理の腕を身につけた頃、「もう教えることがないから…」と寂
しそうにもらしたことがあったが、マルチが「あかりさんとお料理するのが楽しみなんですぅ。」と
言い、浩之も「よかったらこれまで通り顔を出してくれよ。」と勧めたのだった。

 因みに綾香も、芹香と同じ大学へ進んだ。

 3月の末、芹香、綾香、浩之とマルチは、市内の喫茶店で落ち合い、無事に大学進学を果たせたこ
とを喜んだり、一度皆で旅行に行きたいなどと希望を述べたりして、楽しいひとときを過ごした。



 4月。
 桜の季節。

「マルチ。 
 大学の講議が始まるまで、何日かあるけど…
 今のうちに、行っておきたいところはないか?」

 俺がそう言うとマルチは、

「うーん、そうですねぇ…
 そうだ、できれば、お花見に行きたいんですけど…」

「花見? ああ、いいぜ。
 この近くの公園も夜桜がきれいだけど、
 せっかくだから少し足を伸ばすとするか?
 このあたりで桜の名所は…」

「あの、実は…
 学校の桜が見たいんですぅ。」

「学校って…
 俺たちが行ってた高校のことか?」

「はい。」

「あそこって、別に花見するというほど桜はないけど…?」

「でも… 行きたいんですぅ。
 今度、ご主人様も綾香さんも学校を卒業されたでしょう?
 私は… 本当の卒業はできなかったけど、
 最初の運用試験のとき、
 浩之さんが私のために『卒業式』をしてくださいました。
 私、嬉しくて…
 そのことを思い出して、ふと、あの学校の桜が見たくなったんですけど…
 だめですか?」

「そうだったのか。
 …よし、マルチ、これから花見に出かけようぜ!」

「はいっ!」



 俺は三年間通い慣れた高校に、マルチを連れてやって来た。
 春休みで人影はない。
 桜は満開で、そよ風に花びらが舞っている。

「うわー、きれいですぅーっ」

 マルチは歓声を挙げて、桜の木の近くへと駆けて行った。

「マルチ。あんまり慌てると転ぶ…」

 ぽてっ

 言わんこっちゃない。

「あうう…」

「大丈夫か?」

 駆け寄って抱き起こしてやる。

 巡り会った当時は何かと転げ回っていたマルチも、やはり「学習」するのか、
 この頃は、滅多に何もない所で転んだりしなくなったのだが…
 今日は、いつもよりはしゃいでいるようだ。
 また転ばないように、気をつけてやるか。

「えへへ、転んじゃいましたー。」

 照れくさそうに笑いながら、マルチが起き上がる。
 ふたりで桜の木に近寄る。

「ほんとうに、きれいですねー。」

 マルチは後ろ手に、見上げるようにして桜を眺める。
 幸せそうに目を細めて。

 初めて会った頃の事を思い出しているのだろうか?
 それとも「卒業式」の事?

 マルチの髪に桜の花びらが、ひとひら、ふたひら。
 緑の髪に薄桃色の取り合わせが、何とも春めいてきれいだ。

(マルチ… きれいだな。)

 俺はマルチに近づくと、後ろからそっと抱き締めた。

「ご主人様?」

「マルチ…
 そのままで聞いてくれ。」

「はい… 何でしょう?」

「マルチ… 俺と…」

(…俺と結婚してくれ。)

 言いかけてやめる。

「はい?」

「いや。…マルチ、覚えているか?
 おまえ、俺の傍にずっといてくれるって約束したよな?
 覚えているか?」

「もちろんですぅ。
 …決して忘れたりしません。」

「よし、マルチ。
 ずっと俺の傍にいて、俺を幸せにしてくれよな?
 俺もおまえを幸せにできるよう、一生懸命頑張るからよ。」

「ご主人様。
 …マルチは、ご主人様のお傍にいるだけで幸せですぅ。」

「ははは、そうか。
 …じゃ、俺はマルチの傍にいてマルチを幸せにする。
 マルチは俺の傍にいて俺を幸せにする。
 これでいいんだな?」

「はい。結構ですぅ。」

「マルチ…
 いつまでも一緒にいような。」

「はい、ご主人様…」



 ふたりで十分桜を堪能した後、校門を出た。
 坂道を降りて行く。
 俺は、さっき言いかけてやめたことを考えていた。

(マルチ、俺… おまえと一生生きていくことに決めたよ。
 今はまだ早すぎるけど、大学出て職に就いたら、必ずおまえにプロポーズするからな…
 それまで待っててくれ。)

 俺は、少し前を歩くマルチに目をやる。
 相変わらずうきうきした調子だ。

(また転ぶなよ。)

 さりげなく気をつけてやる。

(マルチと結婚するって言ったら、親父は怒るだろうな。
 おふくろはどう言うかな?
 賛成してくれそうなのは、先輩に綾香、長瀬さんくらいかな?
 あかりは…どう思うだろう?)

 ともかくいろいろ大変そうだ。
 世間も奇異の目で見るだろう。

(でも、俺は決めたんだ。
 マルチと一緒に生きるって。
 マルチ… 本当に、いつまでも、ずっとずっと一緒にいような。)

 俺は最愛の少女の後ろ姿を目に止めながら、そう思った。



 もう少しで坂道を降り切るというところで、一匹の犬を見た。
 あれは確か…

「あ、あの時の犬さんですぅ。」

 マルチも気がついて、犬の傍に近づいていった。
 そして、

「犬さん、犬さん、こんにちは…」

 ぷっ

 やっぱりマルチはマルチだな。

「ははは、マルチは相変わらずだなあ。」

 あの時と同じように犬と会話するマルチを見て、俺は苦笑しながらも、
 そんなところがマルチの魅力なんだよな、と考えた。

「そうなんですよー、
 それで、その時の方が今のご主人様で…」

 マルチは犬に向かって、俺とのなれそめを説明しているらしいが…
 わかっているのか、犬?

 その時、犬が何か俺たちには聞こえない音を聞きつけたような感じで、ぱっと後ろを見た。
 そちらへと駆け出す。

「あ、待ってくださいー。
 まだお話は終わっていませんー。」

 マルチもつられて駆け出した。

「おい、マルチ…」

 そんなに急ぐと転ぶぞ、今日はおまえ、はしゃぎ過ぎなんだから…

 俺もマルチの後を追う。
 そしてはっとする。
 犬は駆け続けて、坂の下にある交差点の中に飛び出したのだ。
 マルチもその後を追って…

「マルチ、危ない!」

 俺は全力でマルチを追いかけながら、大声で叫んだ。
 マルチの体が硬直する。
 その右手から、大型トラックが突っ込んで来る。

「マルチィィィィィィィィィィィィ!!」

 俺は必死に、マルチに追いつこうと走った。
 ほんのわずかの距離が、とてつもなく長く感じられる。
 全身に冷や汗が流れる。

 あと…少し…
 もう…少しで…マルチに…

 マルチに向かって、懸命に手を伸ばす。

 頼む… 間に合ってくれ…

 マルチに…手が…届いた!
 次の瞬間、思いきりマルチを突き飛ばす。

 一瞬遅れて、俺の体を激しい衝撃が襲った。
 俺の体は空高く舞い上がり…

(間に合ったのか?)

 多分そうだろう。
 そうであってくれ。

(マルチ… やっぱり今日ははしゃいでるんだな。)

 気をつけないと転ぶぞ。

(マルチ… いつまでも元気で…ずっと俺と一緒に…)

 意識が薄れていく。

(そしていつか…結婚してくれるよな?)

 俺の意識はそこで途切れた。



 ぶうううん…
 
 マルチちゃんが再起動したらしい。
 私は病院の談話室で、マルチちゃんが目覚めるのを待っていた。
 やがて、マルチちゃんは目を開けて、ぱちぱちさせた。

「マルチちゃん… 気がついた?」

 私が声をかけると、マルチちゃんは、頭を振って意識をはっきりさせようとしながら、

「あかりさん… ここはどこですか?」

 と聞いた。

「病院だよ。」

「病院? どうして私が病院に?」

 きょとんとした顔。
 何があったのか覚えていないのかしら?

「…覚えていないの?」

 私がマルチちゃんの顔をのぞき込むようにして言うと、マルチちゃんが少し引いた。
 私、そんな恐い顔してたのかしら?

「ええと…」

 マルチちゃんは、一生懸命思い出そうとしている様子だ。
 しばらく頭を捻っていたマルチちゃんは、急にはっとすると、

「あかりさん!
 ご、ご主人様は… ご主人様はどこですか!?」

 そう… やっと思い出したのね。何があったのか…

 私はマルチちゃんを見つめた。
 マルチちゃんはまた引いた。
 そんなに私、恐い顔している?
 もっとも、自分が今、泣いているのか笑っているのか、自分でもわからないけど。

「浩之ちゃんに… 会いたい?」

 私がそう言うと、マルチちゃんはものすごい勢いで、

「は、はい! 会いたいです…
 会わせてください!!」

 と頼んだ。

 うふっ

 私はおかしくなった。
 そんなに慌てる必要はないのに…

「そんなに焦らなくてもいいのよ。
 …ついていらっしゃい。」

 私は立ち上がりながら促した。
 マルチちゃんは、何となく不安そうな顔をしながら、急いで私の後について来た。

「あの、あかりさん、ここは…?」

 マルチちゃんは怪訝そうだ。
 普通の病室に連れて行かれると思っていたのかしら?

「集中治療室よ。
 …どうしたの?
 浩之ちゃんに会いたいんでしょ?」

 今、会わせてあげるよ…

 私たちは中へ足を踏み入れた。
 マルチちゃんはきょろきょろ見回すと、

「ご主人様!」

 慌てて駆け寄るマルチちゃん。
 だから慌てなくてもいいんだってば…

 ベッドの傍らでは、浩之ちゃんのご両親が、マルチちゃんを見下ろしていた。
 息子のメイドロボにいろいろ言いたいことがあるはずなのに、ふたりとも黙っている。
 マルチちゃんは、ご両親の目の前もはばからず、浩之ちゃんに抱きついた。
 そう、ご両親と、私が見ている目の前で…

 マルチちゃんは、一生懸命浩之ちゃんに話しかけている。

「ご主人様ぁ!
 うぅっ、心配しましたぁ。
 …あっ、す、すみません、
 私をかばってくださったんですよね?
 私が悪かったんですぅ…
 赦してくださぁい。
 これから気をつけますからぁ…」

 クスッ

 私はつい、また笑いをもらしてしまった。
 この娘は…何を言っているのだろう?

 …私の神経は、どこかおかしくなっていたのだろうか?
 一度笑い始めると、どうしても止めることができず、私はクスクス笑い続けた。
 やがて、マルチちゃんが私の笑い声に気がついたらしたく、びっくりした顔を向けた。

「あかりさん?」

「クスクス… マ、マルチちゃん…」

 私はあんまりおかしくて、ついこの単純なメイドロボをからかってやりたくなった。

「浩之ちゃん… 寝ているでしょ… クスクス…
 起こさないと…いくらお詫びしても… クスクス… 無駄だよ。」

「あ、そ、そうだったんですかー?
 お休みだったんですねー。」

 マルチちゃんは私の言うことを真に受けたらしい。
 浩之ちゃんの体を揺すぶり始めた。

「ご主人様。マルチですぅ。
 起きてくださぁい。」

 クスクス…

 ほんとうに単純な娘。

「ご主人様ぁ。お父さんもお母さんもおいでですよう。
 あかりさんもおいでですから…
 目を覚ましてくださぁい。」

 クスクスクスクス…

 ほんとうに馬鹿なメイドロボ。

「ふええ… 起きてくださらないですぅ…
 どうしましょう?
 ええと… そうだ!
 ご、ご主人様ぁ! 朝ですよう!
 早く起きないと学校に遅れますよう!
 あかりさんも一緒に行こうってお待ちに…」

「クスクス!
 アッ、アハハハハハ!!」

 もう駄目! 我慢できない!

 私はとうとう大声で笑い出した。
 マルチちゃんが驚いている。
 浩之ちゃんのご両親も驚いている。
 それでも止められない。

「恐れ入りますが、病院内ではお静かに…」

 看護婦さんに注意される。

「アハハハ…
 もう駄目。く、苦しい。」

 それでも笑いは止まらない。
 だってマルチちゃんって…

「アハハハ… マ、マルチちゃんって…
 アハ… マルチちゃんって、本当に…
 抜けてるんだね… アハハ、アッハッハ…」

「お静かに願います。」

 看護婦さんは不機嫌そうな顔だ。
 それでも笑いは止まらない。
 だってマルチちゃん…

「マルチちゃん…
 まだ…わからないの… アハハハ…
 あなたのご主人様が、本当に…
 アハハハ… 眠っているのかどうか。」

 マルチちゃんは、きょとんとする。
 私の言っている意味がわからないの?

 それからマルチちゃんは、さては、って顔になった。

「ご主人様?
 もしかして起きていらっしゃるんですか?」

 そう言って、浩之ちゃんの体を揺すっている。
 …マルチちゃん… もしかして…浩之ちゃんが…狸寝入りしているって思ったの!?

「アハハハハハ!!」

 私はさらに大声で笑い出した。
 ほんとうに…何て…馬鹿な…お人形さん!!

 看護婦さんは、いっそう不機嫌な顔になって注意する。

 だめ… だめ… 止められないの…
 だって… この娘は…こんなに…馬鹿で…

「アハハハハ…
 マルチちゃん、浩之ちゃんはね、いくらやっても起きないよ。」

 そして… 浩之ちゃんは…こんな…馬鹿な…娘のために…

 そう考えた時、私の笑いは収まった。

「浩之ちゃんはね… 浩之ちゃんはね…」

 マルチちゃんを見つめる。
 またマルチちゃんが引いた。

「浩之ちゃんはね…」

 教えてあげようか?

「もう目を覚まさないの。二度とね。
 だって浩之ちゃんは…」

 私の好きな浩之ちゃんは…

「死んじゃったんだから!!」

 マルチちゃんがぼんやりとした顔をしている。
 そう、ショックだった? でも、私はもっとショックだったのよ。

「死ん…じゃった?」

 そうよ。

「そうよ。あなたをかばって死んだのよ!
 たかがメイドロボの、あなたなんかのためにね!」

 マルチちゃんは目をぱちくりさせている。
 このお馬鹿さん。私の言うことがわからないの?
 それなら、わかるように話してあげるわ。

「あなたのせいで、浩之ちゃんは死んだのよ!
 あなたが・浩之ちゃんを・殺したのよぉ!!
 この人殺し!!」

 これでわかったでしょう?
 わかったら浩之ちゃんを…

「返せ! 浩之ちゃんを返せ!
 私の大事な浩之ちゃんを返せぇ!!」

 私は自分を抑えられなくなった。
 マルチちゃんの両肩を掴むと、思いっきり揺すぶってやる。
 マルチちゃんは目を白黒させている。

「返せ!! 返せ!!」

 浩之ちゃんを! 私の浩之ちゃんを!

 看護婦さんが私を止めようと腕を掴む。
 私はありったけの力で看護婦さんを振りほどいた。
 そしてマルチちゃんをぶった。
 頭を。肩を。胸を。腕を。
 私は手を振り回し続けた。

「返して… お願いだから返してよう…
 浩之ちゃんを返して…」

 ほかには何もいらないの… 浩之ちゃんさえいてくれたら…
 だから返して… 浩之ちゃんを…

「あかりちゃん、やめなさい!」

 浩之ちゃんのお父さんが、私をかかえるようにして止める。
 お父さんの目に涙が光るのを見た時、私の体から急速に力が抜けていった。
 私の目にも涙があふれてきた。
 もう浩之ちゃんは帰って来ないんだ…

「ひどいよう… こんなのないよう…
 私ずっと待っていたのに…
 いつかは気がついてくれると思っていたのに…
 ひどい、ひどいよう…」

 ひどいよ、浩之ちゃん…
 ひどいよ、マルチちゃん…

 私は泣き出した。泣いて泣いて泣き続けた。
 看護婦さんたちがやって来て、私の右と左から腕を掴み、私を集中治療室から連れ出した。

 ひどいよ… 私、待ってたのに…


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