The Days of Multi第一部第5章パート2 投稿者:DOM
The Days of Multi
第1部 Days with Hiroyuki
☆第5章 壊れたマルチ (マルチ生後9ヶ月〜11ヶ月) Part 2 of 2



 俺は今日も学校から帰って来ると、マルチを再起動させた。
 マルチはいつものように、うつろな目で呟き始めた。

「マルチ… 気分はどうだ?
 夕食までまだ時間があるからな。
 ちょっと例の公園まで、散歩に行かないか?」

 俺はできるだけ優しくマルチの体を抱き上げた。
 玄関までゆっくりと進む。
 座らせる。
 靴をはかせる。
 マルチはぶつぶつ言いながら、されるがままになっている。
 俺は軽く腕を引いてマルチを立ち上がらせた。
 ドアを開け、外に出る。
 マルチの背中から肩に手を回し、後ろからそっと押すようにしながら歩き出す。



 マルチが心の病と知ってから、俺は毎日学校から帰るとマルチを起動させ、優しく話しかけること
にした。
 少しでも病気が治るように。
 しかし、さすがに家の中に閉じこもって俺だけが一方的にしゃべっていると(マルチはその間ずっ
とぶつぶつ言っている)気がめいって来る。
 それで、ある日思い切って近くの公園に連れ出したら、これが結構な気分転換になったので、以後
日課にしたというわけだ。

 研究所でチェックしてもらった日、長瀬主任は、何ならマルチを預かろうかと言ってくれたが、俺
は断わった。
 心の病なら、俺が優しく接してやれば少しずつ治るかもしれないと思ったのだ。
 綾香が来たあの日、俺がもっとマルチの心の存在を確信していてやれば、あるいはこんなことにな
らなかったのではないかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだったから。



 ふたりで一緒にゆっくり歩く。
 マルチは相変わらず俯き加減で呟いている。

 マルチは俺の呼びかけには反応しないが、引いたり押したりしてやると、体を動かすのである。
 今日も、俺が後ろからそっと押してやっていると、ゆっくりではあるが、一応自分の足で歩いてい
る。

 ふと視線を感じた。
 俺がそちらを向くと、道ばたに立っていた3人の主婦がさっと視線を背けた。
 俺たちを見ていたのだろう。

 …マルチはもともと誰にでも愛想がいいが、特に小さな子供が好きで、子供たちもマルチを見ると
笑いかける。
 近所中の子供たちになつかれているので、主婦連にも顔が売れていた。
 そのマルチが壊れてから、二ヶ月近くになる。
 この散歩は、一ヶ月以上ほとんど毎日行なっているので、近所で噂になっているようだ。
 だから、奇異の目には慣れている。
 マルチを促して歩き出す。

 公園に着いた。
 ちょっと見回して考える。
 今日はブランコにしよう。

 ゆっくりと、ふたりでブランコの傍までやって来る。
 マルチをブランコに座らせる。
 両手を持って、ブランコの綱を握らせてやる。
 マルチがひとりで綱を掴んでいるのを確認してから、そっと前後に振ってやる。
 大振りはしない。
 マルチの体がほんの少し前後に動く程度だ。

 キコ…キコ…

 俺の目の下に、センサーのついた緑の頭がある。
 ゆっくりと前後している。

 俺は話し始めた。
 階段で、段ボール箱を抱えたマルチとの出会い。
 一緒に廊下を掃除したこと。
 ゲーセンでの勝負。
 バス停で会ったセリオのこと…

 キコ…キコ…

「私には…心がない…
 お父さんが…私を騙した…
 私は…コンピューター仕掛けの…ダッチワイフ…
 私が…いたから…芹香さんが…不幸になった…」

 キコ…キコ…

「な、マルチ。
 早くよくなってくれよ。
 また、ゲーセンでエアホッケーしような。
 そうそう、スーパーで買い物をするのも楽しいよな。
 また一緒に行こーぜ…」

 その時俺は、背中に誰かの視線を感じた。
 奇異の目には慣れている。
 気づかない振りをして、話し続ける。

 キコ…キコ…

「そうだ。マルチ、学校で会った犬のこと覚えてるか?
 うん、おまえがクッキーか何かやってたあの犬。
 こないださ、学校の前でそいつに出くわしたんだよ。
 で、俺が、
 『おい、マルチのこと、覚えてるか!?』
 って、言ってやったら、
 『わん!』
 って思いっきり返事しやがった。
 へへっ、おまえ、犬にも人気あるんだな。
 ちょっぴり焼けるぜ…」

 キコ…キコ…

「私には…心がない…
 お父さんが…私を騙した…」

 キコ…キコ…

 ? この視線、ずいぶん長いこと俺を見てるような…?
 俺はゆっくり振り向いた。
 そこには…

「あかり?」

「浩之ちゃん…」



「マルチちゃん…
 壊れちゃったの?」

「そんな…大袈裟なもんじゃないんだ。
 ちょっとした…心の病ってやつだけど、すぐに直るから…」

「もう…一ヶ月になるでしょ?」

「…治るってば。」

「浩之ちゃん…」

「マルチが治ったら…また料理を…
 あ、いや… いいや、ごめん、忘れてくれ。」

「ひ、浩之ちゃん、あの…
 今夜、浩之ちゃんち、行っていい?」

「…………」

「よ、よかったら、私…
 泊まって…いっても…」

 キコ…キコ…

「私が…いたから…芹香さんが…不幸になった…
 私が…いたから…あかりさんが…不幸になった…」



「え? マルチちゃん、今何て?」

「何でもねえよ…
 わりーな、あかり。
 今日はもう帰ってくれないか?」

「浩之ちゃん…」

「マルチと…ふたりきりになりたいんだ。」

「浩之ちゃん…」

 キコ…キコ…

「…なあ、マルチ。前に約束したよな。
 ずっといっしょにいようぜ。
 おまえ、俺の傍にいて、俺を幸せにしてくれるって言ったもんな…」

「うっ…うっ…」

 ダッ

 タタタ…

 あかりの足音が遠離る。
 …ごめん。あかり。俺、おまえの気持ちに答えられない…

 キコ…キコ…

 ブランコの軋む音がする。



 あかりは駆けた。
 夢中で走った。

(浩之ちゃん… ひどいよ… ひどいよ…)

 息が切れる。
 胸が苦しい。
 それでも駆ける。

(そんなに… そんなに… マルチちゃんがいいの?
 壊れてしまったマルチちゃんでも…
 私なんかより…いいって言うの?)

 …なあ、マルチ。
 ずっといっしょにいようぜ。

(ひどいよ… ひどいよ…
 壊れたマルチちゃんでもいいから…いっしょにいたいの?
 そんなに… そんなに… マルチちゃんがいいの?
 私じゃ… 私じゃ…だめなの?
 マルチちゃんの…「代わり」にさえ…なれないの?)



 はあ… はあ…

 ようやく立ち止まる。
 あかりの家の前まで来ていた。
 目を上げる。
 三軒先が浩之の家だ。

(?)

 浩之の家の前に、場違いな黒塗りのリムジンが停まっている。
 玄関の前にふたりの少女がたたずんでいる。

「留守みたいね…
 どうする? 姉さん。」

 姉妹のようだ。
 ふたりとも艶やかな長い黒髪の少女。

「…………」

「え? 占いによると、今日お会いするのが最善と出ました?
 でも、いないんじゃ…」

「…………」

「え? 近くにいるらしいから、しばらくお帰りをお待ちしましょう?
 そうね…」

 そう言いながら、少女のひとりがこちらを振り向く。
 あかりと目が会った。

「あら? あなたは確か?」

 こちらへ歩いて来る。
 来栖川…綾香さん、だっけ?

「確か、浩之の幼馴染みの…」

 ずきん

(そうよ。私は幼馴染み。いつまで経っても恋人になれない幼馴染み。)

「ねえ。浩之がどこに行ったのか知らない?
 ちょっと会って、話したいんだけど…」

(「浩之」? 会いたい?)

「知らない?」

「浩之ちゃんなら…
 この先の公園にいましたけど。」

「ほんと? ありがとう!
 …姉さん、浩之、この先の公園だって!」

「…マルチちゃんと…一緒に…」

 びくっ

(綾香さんとマルチちゃん… 何かあったのかしら?)

「それじゃ、私はこれで…」

 あかりは自宅に帰った。



「どうしよう… マルチも一緒だって。
 浩之… あたしのこと怒ってるよね?
 もしも赦してくれなかったら…」

「…………」

「え? 大丈夫、きっとわかってくれます?
 そうだといいけど…」



 キコ…キコ…

「マルチよう…
 なあ… ちょっとでいいからさあ…
 俺のこと…ご主人様でも、浩之さんでもいいから…
 呼んでみてくれないか…?」

「私には…心がない…」

「違うんだよ、マルチ。
 おまえ、やっぱり、心があったんだよ。
 だれよりも優しくて、純粋な心がよ。」

「お父さんが…私を騙した…」

「それも違うんだよ。
 おまえのお父さんは、優しくて偉いひとなんだよ。
 おまえのことを一番に考えてくれてるんだ。
 おまえを騙したりはしないよ。」

「私は…コンピューター仕掛けの…ダッチワイフ…」

「違う! 断じてそうじゃねえ!
 おまえがダッチワイフなもんか!
 そんなこと言うやつは、俺が赦さねえ!」

 浩之は涙ぐんでいた。

 キコ…キコ…



「うっ… うっ…
 ね、姉さん… 私、やっぱり駄目。」

 綾香は涙を流しながら、立ち去ろうとした。 

「…………」

「え? 今、逃げちゃだめです?
 でも、私、あのふたり見てるとすごく辛いの。
 それに…聞いたでしょう?
 マルチをダッチワイフなんて言うやつは赦さないって。
 それ言ったの、私なの。
 だから、きっと赦してくれないわ。」



「私が…いたから…芹香さんが…不幸になった…」

 キコ…キコ…



「…………」

「え? あ、あれ、先輩?
 ! 綾香も…」

「ひ、浩之…
 ごめんなさい!! ごめんなさい!!」

「な、何だよ、泣いてんのか?」

「…………」

「え? 少々お時間をいただきたい?
 えーと、それじゃ俺の家に来る?
 うん、じゃ、そうしよう。
 …さっ、マルチ、そろそろ帰ろうか?」

 浩之はブランコを止めてやった。
 マルチの両手を開かせる。
 マルチがブランコの綱から手を離す。
 優しく立ち上がらせ、促して歩き出させる。

 綾香は、その様子を、涙に濡れた目で、痛ましそうに見ている。
 芹香は、いつもの無表情。

 四人は浩之の家に向かった。


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