The Days of Multi第四部第16章パート1 投稿者: DOM
The Days of Multi
第4部 Days with the Kashiwagis
☆第16章 生まれ出づる者、そして去り行く者 (マルチ10才) Part 1 of 2



「そーれ、ひいおじいちゃんだぞー。
 …ははは、笑った笑った。
 こうして見ると、芹香の小さい時にそっくりじゃな。
 きっと母親に似て、美人になるに違いない。
 うむ、そうだとも。わしが保証する。」

 小さな赤ん坊を抱いて相好を崩しているのは、来栖川会長その人である。

「あなた、いい加減に、私にもだっこさせてくださいな。」

「お父様、ちょっとだけで結構ですから、私にも…」

「おじい様、さっきから香織を独り占めにしてずるいわよ。」

 妻や嫁や孫娘の言葉も耳に入らぬ風で、曾孫の顔をのぞき込み、笑ったと言ってはさらに相好を崩
す。

「…やれやれ。年はとりたくないわね。
 そんなに耳が遠くなったなんて、知らなかったわ。」

「…何か言ったか?」

 綾香がぼやくと、なぜか急に耳聡くなる翁。

「やっと聞こえた?
 曾孫がかわいいのは、よっくわかりますけどね、
 少しは私やおばあ様やお母様にも、だっこさせてほしいのよね。」

「あ、私も…」

 綾香の父も、慌てて名のりを上げる。

 祖父がしぶしぶ曾孫を手渡すと、それを受け取った祖母は目を細めて、翁のことが言えないくらい
のかわいがりようだ。もちろん、そう簡単に次へ渡そうとしない。
 やっとのことで母親の番が来ると、だっこしたまま、やはりなかなか手放さない。
 ようやく父親の手に渡ると、危なっかしい手つきながら、これまた容易に放そうとしない。

 …というわけで、綾香が小さな姪を胸に抱くことができるまでには、ずいぶんの時間と…山ほどの
愚痴が必要だった。



 結婚後2年が過ぎた10月、芹香は女児を出産した。
 「香織」と命名。
 年が明けてこの1月、耕一と芹香は香織を連れて来栖川家を訪れる予定にしていたのだが、直前に
なって芹香が風邪を引いてしまい、里帰りは延期せざるを得なくなった。

 ところが、曾孫の顔を見るのを心待ちにしていた翁が、それなら自分が隆山へ行って来ると言い出
した。
 表向きは「先方のご迷惑ですから…」と説得しようとした芹香の祖母や両親も、実は赤ん坊の顔が
見たいのは山々なので、結局は綾香も含む家族全員で柏木家に押しかけることになったのだ。
 もちろん、近くに別荘があるので、宿泊はそちらである。

 そういうわけで、柏木家の一室で、来栖川家の5人と、柏木家の6名(マルチは自分の存在が知ら
れるとまずいと言って部屋にこもっていた)が、両家の血を受け継ぐ新しい命の一挙手一投足を、幸
せそうに見守っていたのである。

 来栖川翁は、特に上機嫌だった。
 芹香が結婚する前後あたりから、あまり体調が思わしくなく、加えて最近の不況である。
 曾孫の誕生は、またとない朗報であった。

 翁は思った。
 自分は、もうさほど長くはないだろう。
 だが、こうして来栖川の血は、新しい生命の中に受け継がれていく。
 家の跡取りとして社長見習いをしている孫の綾香も、このところ経営に興味を持ち始めたらしく、
なかなか意欲的なところを見せているし、その方面の才能もあるようだ。
 自分にもしものことがあっても、来栖川家も、来栖川グループも、次の世代、新しい生命に支えら
れて、きっと安泰であろう。

 翁は、いつになく満ち足りた思いを抱いていた。
 そのせいか、家族にも滅多に見せないような甘い顔を曾孫にして見せ、さらに翁にしては珍しい軽
口をたたいたりして、親馬鹿ならぬ曾祖父馬鹿ぶりをさんざん発揮した後、柏木家を辞去したので
あった。



 明けて2月。
 とある朝、来栖川邸にて、ベッドに入ったまま永眠している会長が見つかった。
 急性心不全と診断された。
 その顔は、あくまでも安らかなものだったという。



 翌3月、来栖川エレクトロニクスの社長(綾香の父親)が、翁に代わって会長職を引き継ぐことに
なった。
 そして、綾香が同社の社長に就任。
 長年にわたり来栖川グループ全体を掌中に収めていた翁の死は、内外にある種の波紋を投げかけた
ものの、後継者について早くから明確にされていたため、大きな問題とはならなかった。



 綾香の父が会長に就任して間もなく、例の調査員の代表が会いに来た。
 前会長同様の愛顧を頼むためである。

 綾香の父は、はっきり言って、この調査員たちにあまり良いイメージを抱いていなかった。
 しかしまた、彼らが来栖川グループのために、ほかの手段ではどうしようもなさそうな微妙な問題
を、いくつも解決してきたことも把握していた。
 要するに必要悪というものだろう。…それが、調査員に対する新会長の評価であった。

 調査員の代表は、新会長の就任に型通りの祝辞を述べ、今後ともいっそう来栖川グループのために
忠勤を励むつもりであることを強調した。
 新会長はそれに対し、前会長の下での彼らの労苦をねぎらい、今後の活躍に期待していると、丁重
な姿勢で答えた。

 新会長のもとを辞去した調査員は、新しい「主人」が自分たちに対して嫌悪感を抱きながらも、そ
れなりの評価をしていることに気づいていた。
 しばらくは、あまりうろちょろして新会長の神経を逆なでするような真似は、避けた方がいいだろ
う。
 ここ一番というときに、目覚ましい働きをしてみせれば、前会長同様の信任を得られるに違いない。
 そんなことを考えていた。



 トゥルルルルル…

(長瀬さんかしら?)

 携帯電話が鳴り出したとき、綾香はとっさにそう思った。
 もちろん、ビジネス関係の連絡である可能性の方が大きいし、親しい友人にも番号を教えてあるか
ら、第一に長瀬を思い浮かべる必要はないのだが…

 実のところ、長瀬からの電話はありがたかった。
 社長就任以来約一ヵ月、綾香は誠にあわただしい日々を過ごしてきたのだ。
 その前に見習い期間が一年あったとはいえ、実際の役職につくとなると、また別である。
 毎日くたくたに疲れて帰宅した。
 もちろん、綾香のことだ。簡単に弱音は吐かない。
 しかし、ビジネスを離れて、幸せな友人(マルチ)の近況を心おきなく話し合える時間は、多忙な
綾香にとって、ささやかなオアシスのようなものなのだ。
 長瀬の方も同じような心境なのか、大した情報が入っていないときでも、マルチのことを話題にし
ているだけで嬉しそうだ。

 カチャッ

「はい、もしもし?」

「あ、あの…
 綾香さん、ですか?」

 てっきり長瀬ののんきそうな声が聞こえて来るものと思っていたところ、綾香の耳に届いたのは、
おずおずとした若い女性の声だった。

「?」

 一瞬、予想と違う相手に戸惑うが、すぐに声の主がだれだかわかった。

「葵? 珍しいわね、
 あんたが電話してくるなんて。」

 綾香がエクストリームをしていた頃の一年後輩、松原葵だった。
 相変わらず格闘技の練習に余念がないと聞いている。

「す、すみません。
 ご迷惑とは思ったんですけど…」

「あー、いいのいいの、
 友だちからの電話は、いつだって大歓迎よ。」

 これは本心である。

「元気してる?
 また強くなったとか聞いたけど…」

 つい学生時代の口調に戻ってしまう。
 友人相手の気楽さである。

「い、いえ、そんな、綾香さんにくらべたら、まだまだ…」

 あわてる葵。

「何言ってんのよー、エクストリームの女王様がー。」

「あ、綾香さん…」

 電話の向こうで真っ赤になっている葵の顔が、目に浮かぶ。

 綾香は、会社の仕事が忙しくなったため、すでにエクストリームを引退している。
 現在、一般の部のチャンピオンは葵なのだ。

「で、でも…
 本当のチャンピオンは綾香さんです。
 私、一度も勝てなかったし…」

 確かに、葵は一度も綾香に勝てず、いつも準優勝だった。
 もっとも、綾香引退直前の葵の成長ぶりは目ざましく、決勝戦では一進一退、伯仲の戦いを演じて
みせた。
 綾香自身、試合中何度も「これは危ないかも…」と感じたほどの熱戦だったのだ。
 かろうじて一本とって勝ちを決めたとき、勝った綾香にも、負けた葵にも、惜しみない拍手が注が
れた。
 日本エクストリームの歴史に残る良い試合だったと言われたし、綾香自身もそう思っていた。
 引退前にあれほど充実した試合ができて、つくづく幸せだとも思う。

「せめて一度だけでも勝って…
 『先輩』に喜んでもらいたかったんですけど…」

 葵がそう言ったとき、綾香の胸にちくりと痛みが走った。
 葵の言う先輩とは、浩之のことだったのだ。
 面倒見の良い浩之は、葵の必死の部活勧誘に誰も耳を貸そうとしないのを気の毒に思ったのか、
時々葵の練習に顔を出しては、励ましたり手伝ったりしていたそうである。
 葵はそれを恩義に感じたらしく、浩之が死んでからも、「エクストリームで優勝して『先輩』に喜
んでもらいたい」と時折もらしていた。

「…あ、そ、そうだ…
 あの、実は、その、先輩の…
 ええと、藤田さんのことなんですけど…」

 やっと本題を思い出したらしい。

「…浩之の?」

 今時分、何だろう?

「ええ、あの、藤田さんのお友だちが中心になって、
 今度追悼会をしようということになったんです…
 それで、もし綾香さんと、芹香さんもご都合がつけばと思って、
 お電話したんですが…」

「追悼会? …ええと…
 あれから何年になるかしら?」

 よくわかっているが、ついとぼけてしまう。

「ちょうど8年です。」

 葵は即答する。
 今に至るまで男っ気のない葵にとって、浩之はよほど特別な存在だったのだろう。

「…8年、ね?
 それで、何で追悼会なわけ?
 普通、3年とか、7年とか、10年とか、
 決まった数でするもんじゃないの?」

「私もよくわからないんですけど…
 『8年目なんだから、是非追悼集会をすべきよ!』って言われて…」

「だれに言われたの?」

「先輩の親友の、長岡さんなんですけど…
 綾香さん、ご存じでしたっけ?」

「ああ。聞いた事あるわ。」

 綾香は、浩之が「東スポ女」とか「歩く電光掲示板」とか呼んでいた、女友だちのことを思い出し
た。
 要するに、8年という年数と追悼集会との間には、さしたる関係はないということらしい。

「で、いつなの?」

「次の日曜日なんですけど。」

「へ? そりゃまた急な話ね。」

「ええ。
 …実は長岡さん、今、国際ジャーナリストをしていて、
 来週早々にはヨーロッパの方へ向かわれるそうなんです。
 で、その日しか都合がつかないからと…」

(何だか勝手な話ね。)

 綾香は、浩之が彼女のことでぼやいていただけのことはあると、おかしくなった。

「わかったわ。
 できれば顔を出させてもらうから。」

 葵は会場と日時を告げると、電話を切った。

(浩之の追悼会か…)

 綾香は考え込んだ。

(やっぱり… 姉さんにも知らせた方がいいかな?)



 日曜日。
 ちょっとしたホテルの一室を借りて、「藤田浩之追悼集会」が催された。
 かなり瀬戸際になって予約を入れたにしては、よくすんなりと借りられたものだ。
 主催者に言わせると、「この志保ちゃんの顔なら、これくらい当り前よ。」だそうだが…
 どこまで本当かは、例によって謎である。

 受付には、松原葵ともうひとりの女性が座っていた。

「あ、綾香さん。それに芹香さんも…
 ようこそお越しくださいました。」

 綾香たちの姿を目にした葵は、さっと立ち上がると、きちんとお辞儀をした。

「あ、葵、お疲れ様。
 …ええと、こちらは?」

 綾香が、葵の隣の女性に目をやると、その女性も丁寧に腰をかがめながら、

「初めまして。
 私、姫川琴音と申します。
 藤田さんと同じ高校の、一年後輩に当たります。」

「そうなの。こちらこそよろしく。
 浩之の…藤田君の友だちで、来栖川綾香、同じく姉の芹香です。」

 挨拶を交し、会費を納めて会場に入る。
 中は立食パーティーができるように準備が整っていた。
 何人かの女性の姿がある。
 正面に浩之の顔をアップにした写真が飾ってある。
 あの、目つきの悪い顔が、不思議に無邪気な笑みを浮かべている。
 側面には大きなボードが用意してあり、浩之のスナップ写真が何枚も、説明付きで張りつけてある。
 高校時代のものだけでなく、もっと小さい時分のものもある。
 芹香と綾香は、しばらくその前に立って、亡き友人を偲んだ。



 そろそろ時間かしら、と思ったとき、突然、にぎやかなファンファーレのような音が鳴り響いた。
 そして、マイクを手にした女性が正面に進み出る。

「はーい! 皆さん、お待たせー!!
 いよいよ、『藤田浩之をメチャメチャこき下ろす会』の始まり、始まりー!!」

(追悼集会だったはずじゃ…?)

 さすがの綾香も、いささか引き気味だ。
 すると、その女性−−どうやら例の長岡なんとかという「東スポ女」らしい−−の近くにいた男が、
低い声でたしなめた。

「志保。いくらなんでも、悪ノリが過ぎるよ?」

「いーのよ!
 大体、あたしたちが集まって、
 故人の思い出話とやらをしめやかにやって、
 みんなで涙流したりして、それでヒロが喜ぶと思う?
 あいつのことだから、
 あたしたちがにぎやかにやってる方が、
 絶対いいって言うに決まってるわ!
 しょーがねーなー、とか言いながら…」

 言っている傍から涙ぐみそうになったらしい志保は、慌てて目をこすると、精一杯陽気に叫んだ。

「…というわけで!
 本日の追悼会は、故人の意志に則り、
 陽気に楽しくいきたいと思いまーす!
 涙はご法度、わかったわね!?」

 列席者は志保の意を汲んで、皆頷く。
 綾香たちも頷いた。
 考えて見ると、確かにその方が浩之のための集まりらしい。

「食事は自由、適当にやってちょうだい。
 カラオケの用意もあるから、じゃんじゃん歌ってね。
 ヒロ、こういうの好きだった… 好きだから。」

 志保は、一瞬ためらって、過去形を現在形に言い換えた。

「時々、こっちから指名させてもらうから、
 その人は、ヒロの思い出を何か話してね。
 面白いエピソード大歓迎。暗い話はみんなの迷惑!
 そういうことで、よろしくー!
 …では、まず皆の口火を切って、
 ヒロの幼馴染みの神岸あかりが、
 知られざる藤田浩之の素顔を熱く語りまーすっ!
 はいっ、拍手ー!!」

 ぱちぱちぱち…

「ええ!?
 し、志保、私、いきなり言われても…」

 突然指名されたあかりは、思いっきり焦っている。

「何言ってんのよ。
 ヒロの思い出なんて、掃いて捨てるくらいあるんでしょ?
 …そうね、それじゃ、あたしがトピックを決めてあげる。
 あんたとヒロが一緒にお風呂に入ったときの話なんか、いいんじゃない?」

 ええっ!?

 会場内に驚きのどよめき。

「し、志保ったら…
 それは小学生の時だよ。」

 あかりの顔は真っ赤だ。

「いつだっていいじゃない?
 ヒロの裸を見た、貴重な体験には違いないんだから。
 さあ、教えてちょうだい。
 あいつはどんな体してた?」

「ど、どんなって… 別に…」

「別にってことはないでしょう?
 …そうそう、あんた、雅史ともお風呂に入ったことがあるんだよね?
 雅史と比べてどうだった?」

「や、やめてよ、志保…」

 先ほど志保をたしなめた男が雅史らしい。
 これも顔を真っ赤にしている。

 …かくして、浩之の追悼会は始まった。


−−−−−−−−−−−−

マルチを破壊しようとした来栖川翁。
亡くなる前に、何か「罰」を与えた方が良かったのかも知れません。

…しかし、悪人とか善人とかいう判断は、基準の設け方でかなり違ってきますし、
形はどうあれ本質的には孫可愛がりの翁を、一概に悪人であったと決めつけることは、
どうしてもできませんでした。

ですから、悪行の報いで苦悶の死を遂げるというより、
むしろ世代の移り変わりと共に、自分の務めを果たして穏やかに去って行く…という形にしました。


次へ


戻る