The Days of Multi第四部第7章 投稿者: DOM
The Days of Multi
第4部 Days with the Kashiwagis
☆第7章 失踪 (マルチ5才〜6才)



 晴れて(柏木家内のみとはいえ)夫婦となった、耕一と楓。
 耕一は楓を熱愛するが、楓が耕一の欲望を十分受け止めることができないのが唯一の不満である。
 結婚後、楓が耕一と寝起きを共にするようになったため、当然ながらマルチが耕一の部屋をおとな
うこともなくなり、耕一はいよいよ満たされぬ思いを内にくすぶらせていた。



 あるとき、楓が定期メンテナンスに出かけ、一晩留守にした日があった。
 耕一は、夜毎鬱積していた欲求不満に耐え切れず、ついにマルチを部屋に呼ぶ。
 楓に気を使いながらも、耕一のフラストレーションを知っているマルチは、口を使おうとするが…
 妻と枕を共にしながらひとつになれぬジレンマに長い間身を焦がしていた耕一は、それだけでは満
足できず、いきなりマルチを押し倒してしまう。
 驚いて抵抗するマルチ。
 しかし、耕一の力にかなうはずもなく、たちまち衣服を剥ぎ取られ、体を蹂躙されてしまった…



 …マルチは、布団の上でぐったりしていた。
 声を押し殺して泣いている。

(とうとう…)

 耕一は、激情が去って、後悔に胸を苛まれていた。

(とうとう、マルチの信頼を裏切ってしまった…)

 「悪い人たち」から助け出された時、
 耕一を「絶対信用できる人」と認めて、秘密を打ち明けたマルチ。
 あれ以来、耕一は、その信頼を裏切るまいと、努めてきたつもりだった。それなのに…

(こともあろうに… こんなことを…)

 そう、マルチは抵抗したのだ。
 その行為が、楓に対する完全な背信であると思って、拒んだのだ。
 しかし、耕一は、いやがるマルチの意向を無視してしまった。…自分の欲望のために。

「マルチ…」

 耕一は震える声で呼びかけた。
 マルチの返事はない。

「マルチ、赦してくれ。
 …俺、おまえにとんでもないことをしてしまった。
 後悔している。
 …頼む。赦してくれ。」

 マルチは返事をしなかった。
 耕一は懸命に詫び続けた。今さら取り返しのつかないことと知りながらも。
 やがてマルチはのろのろと身を起こすと、耕一の方を見ないで、そのまま部屋を出ていった。
 …一言も口を聞かないまま。



 次の日、マルチはどことなくぼんやりとしていて、小さな失敗をいくつもしでかした。
 千鶴以下三姉妹は心配して、マルチに休むように忠告した。
 普段なら、多少のことで部屋に引っ込んだりしないマルチであったが、この時ばかりは素直に下
がって行った。
 それを見た皆は余計心配して、故障ではないといいが、と顔を見合わせるのであった。
 ただ、マルチの異状の理由がわかっている耕一は、ほとんど口を聞かなかった。

(マルチにとんでもないことをしてしまった… どうやって償えばいいのだろう?)

 耕一は、そればかりを考えていた。



 部屋に下がったマルチは、深い物思いに沈み込んでいた。
 耕一に乱暴されたことがショックだったのではない。
 マルチには、そのとき自分の体が示した反応がショックだったのだ。

(あのとき… 私は…)

 マルチは喜びを感じていたのだ。

(ご主人様に…あんな真似をされたのに…
 私って… 何てえっちなんだろう…)

 楓さんの存在を知りながら…
 きっとご主人様だって、自分のことを呆れた女だと思われたのに違いない。
 淫らな女だと…

 マルチは体を震わせていた。
 久々にご主人様に愛された体は、もっとかわいがってほしいと言っているような気さえする。

(私って… 本当にえっち…)

 耕一がひどい自己嫌悪に陥っている間、マルチも負けず劣らず激しい自己嫌悪に苛まれていたのだ。



 その午後、楓はメンテナンスから帰って来ると、マルチが部屋に引きこもっているのを知って、ド
アの外から心配そうに声をかけてきた。
 マルチは、楓に対する申し訳なさで、泣き出しそうになるのを懸命にこらえながら、わざと陽気に
返事をしてごまかした…が、さすがに部屋から顔を出して楓に会う勇気はなかった。



 夕方、鶴来屋から帰って来た耕一は、マルチに謝りたいと思って機会を伺っていたが、マルチが耕
一とふたりきりになるのを避けていたため、結局うまくいかなかった。

(マルチは完全に傷ついてしまった… だから、俺を避けている…)

 耕一はそう考えて、うなだれていた。
 一晩留守にした楓は、耕一が何となくしょげているのを感じて、どうかしたのかとしきりに尋ねて
くる。
 耕一は、何でもない、と答えながら、マルチに対する罪滅ぼしのようなつもりで、妻を優しく抱く
のだった。



 マルチはその夜、夢を見た。
 耕一と楓が仲睦まじくしている光景が目の前にあった。
 いつもなら、そんなふたりを心から祝福してあげたいと思うはずなのに、その日のマルチは違って
いた。

(何だろう? …この胸苦しさは…?)

 耕一がいとおしそうに楓の髪を触るたびに…
 耕一の顔が、頬を染めた楓の顔に近づくたびに…
 耕一の腕が、楓の体を優しく抱きしめるたびに…
 マルチの胸に、何とも言えない苦々しい思いが走るのだ。
 その思いは、小さな胸の底におりのように沈み、決して消えようとはしない。

(何だろう?)

 経験したことのない辛い気持ちの正体を探ろうとしたマルチは、やがてそれが嫉妬の感情であるこ
とに気がついて、愕然とした。

 マルチがこれまでに一度も嫉妬を感じたことがない、ということではない。
 かつてはあかりに、柏木家に来てからはひかりに、嫉妬めいたものを感じたことはあった。
 しかし、それは、ご主人様を始め他人の幸せを優先して考えることのできる心の中で、すぐに昇華
され、むしろ祝福や思いやりの気持へと変えられていたのである。
 それが今度ばかりは…
 積極的な思いへと昇華されることなく、嫉妬という形のまま、自分の心の中に積もり積もっていく
のである。

 マルチは恐れた。
 自分が、純粋な心を失って、醜い心の持ち主となっていくような気がして、怖かった。

 …実際には、自分の心がそれだけ人間に近づいたのだということにも気づかぬまま、マルチは恐れ
ていたのである。



 日一日と時は過ぎていく。
 耕一もマルチも、自分の心の思いを抑えつけ、悩みを隠しながら、表面的には以前と同じような平
穏な関係を取り戻すのに成功していた。
 …あくまでも、表面的に、であったが。



 やがて、年が明けた。
 再び、楓のメンテナンスの日がやって来た。
 耕一は、今度はマルチを部屋に呼ぼうとしなかった。
 だが、その夜。
 マルチは、いつの間にか夢遊病者のように、自分の部屋を抜け出していた。
 そして、気がつくと、耕一の部屋の障子の前に立っていた。
 マルチは、自分の行動に戸惑っていた。しかし、

(ううん、これで私は、以前のようなマルチに戻るのよ…
 自分の分をわきまえたメイドロボに。
 それだけのために、私はここに来たの…)

 そう自分に言い聞かせると、

「ご主人様? マルチです…」

 と言いながら、静かに部屋に足を踏み入れたのだった…



 …耕一とマルチは体を重ねて、お互いを激しく求めていた。
 初めのうちこそ口だけを使っていたマルチであったが、途中で耕一に強く抱きしめられると、自分
も思いきりしがみついてしまい…結局はこうなってしまった。
 耕一はマルチに詫びながらも、自分の感情を抑えられない、と言った。
 マルチもまた、自分のわがままな心を悔やみつつ、耕一への思いのたけを口走って…
 ふたりは明け方近くまで、抱き合って過ごした。
 長い別離の後、ようやく巡り会えた恋人同志のように…



 夏が来て、再び楓の定期点検の日が近づいた。
 耕一は、楓に対して後ろめたい思いを抱きながらも、マルチとの夜を心に思い描いて、その日を待
ちわびていた。
 マルチも、楓にすまないと思いつつ、いつの間にかその日を心待ちにするようになっていた。
 その日が来れば、一晩まるごと、耕一が自分のものになるからだ。



 定期点検の当日。
 楓は、近くにある来栖川のサービスセンターに出かけて行った。
 ところが、楓がセンターに着いて間もなく、メンテに必要な機械が故障を起こし、2、3日業務が
できなくなってしまったのである。
 そのままセンターに泊まり続けてもいいのだが、楓としてはできるだけ耕一の傍にいたかったので、
一旦帰宅することにした。
 茶目っ気を起こして耕一を驚かそうと、連絡も入れず夜遅く帰って来た楓は、部屋の前まで来た時、
中の異様な気配に気づいた。



 耕一さんの声と…女の子の声?
 その声は…ただごとではない。

 楓の体が凍りつく。
 その声の意味がわかったからだ。
 声の主…マルチが、楓には絶対に不可能な方法で、耕一を喜ばせていることがわかったからだ…

 楓は、ぴくりとも体を動かすことができなかった。
 身動きもできないほど混乱していた。



 どれくらい時間が経ったろう。

「ご主人様…
 お名残惜しいですが、もうそろそろ…」

「そうだな… そろそろ朝か。」

「…楓さんには申し訳ないですけど…
 少し、寂しいです…」

「ふふっ、それじゃ、この間みたいに、
 トイレでかわいがってやろうか?」

「えっ!? ええっ!?
 で、でも、恥ずかしいですぅ。
 それに、だれかに見つかったら…」

「何、大丈夫だって。
 それとも、俺にあんなことされるのは嫌か?」

「い、いえ…、それは、その…
 …あっ、いけない、明るくなってきました。」

「おっと、じゃあ、マルチ、またな。
 …トイレで会おうぜ。」

「んもー、ご主人様ったら、本当にえっちなんですからぁ…。
 それじゃ、失礼しますぅ。」



 楓の目の前の障子がさっと開いて、自分とそっくりのメイドロボの顔が目の前に現れた。
 その顔は一瞬、何がなんだかわからない、といった表情になる。

(本当に人間そっくりね。…私とは違う。)

 楓がそんなことを考えているうちに、マルチはパニックに陥り始めた。

「え? え? …ええ!?
 ど、どうして!?
 どうして、楓さんが…!?」

「え、楓ちゃん!?」

 耕一の驚いた声。
 楓の視界に、驚いて両手を口に当てているマルチの後ろで引きつっている耕一の顔が入ってきた。

「ふたりとも…」

 楓が初めて口を開く。あくまで無表情に。

「…そういう仲だったんですね?」

「か、楓ちゃん、これにはわけが…」

「そ、そうなんですぅ!
 私が寝ぼけて、部屋を間違えたんですぅ!」

「メイドロボが…寝ぼける?」

(また見えすいた嘘を…) 

「そ、そうですぅ!
 私はドジですから、時々そういうことが…」

「ずうっと…」

「えっ?」

「ずうっとここにいたんですよ、私。
 …昨日の夜から、ずうっと。
 …ふたりとも、気がつかなかったんですか?」

 真っ青になる耕一とマルチ。

「まあ、無理もないでしょうけど。
 あんなに激しく愛し合っていたんですから。
 …あれじゃ、たとえ庭にミサイルが飛んで来ても、
 気がつかないでしょうね?」

「楓ちゃん…」

「か、楓さん、赦して…」

「耕一さんとは、あとでゆっくりお話ししましょう。」

 楓はマルチに目を据えた。

「マルチちゃん。」

「は、はい!」

「出て行って…」

「え?」

「出て行ってちょうだい。この家から。今すぐ。
 そしてもう二度と…姿を見せないでちょうだい。
 もう二度と… 私の前にも、耕一さんの前にも!」

 楓が初めて怒気を露にする。



「…ま、待ってくれ、楓ちゃん。
 マルチは、外へ出るわけにはいかないんだ。
 正体を見破られたら、廃棄処分に…」

「…私の知ったことではありません。」

「そんな…」

「何なら、私が『廃棄処分』にしてあげてもいいんですよ…
 たった今、この場で!」

 楓の怒気がいよいよ強まる。



「…わかりました。」

「マルチ?」

「楓さん。
 どうも申し訳ありませんでした。
 私がいけないんです。
 おっしゃる通り、今すぐ出て行きます。」

「そうしてちょうだい。」

「待て、マルチ。おまえ…」

「いいんです。
 私、本当なら四年前に、廃棄処分にされるはずだったんですから…
 …ご主人様、長い間お世話になり、ありがとうございました。
 何のご恩返しもできないのが残念ですが、
 どうぞ、いつまでもお元気で。」

「マルチ、早まるんじゃない!」

「楓さん。
 こんなことになってお詫びのしようもありません。
 本当にすみません。
 でも、ご主人様を責めないでください。
 ご主人様は悪くありません。
 私が…誘惑…したんです。」

「マルチ!」

「…出て行くんなら、さっさとしてちょうだい。」

 楓は聞く耳持たぬという様子だ。

「はい。今すぐ…
 どうか皆さんによろしく。」

 マルチはうつむいたままふたりにお辞儀すると、廊下を歩き出した。

「待て、マルチ!」

「耕一さんには話があります…」

「楓ちゃん、放してくれ!…」



 マルチはふたりの声を背にしながら、荷物をまとめるために自分の部屋に向かった。
 耕一のアパートから隆山に来る時に使ったバッグを取り出す。
 耕一に買ってもらった服を入れる。
 耕一から折々にもらったプレゼントの品々を入れる。
 もともと持ち物の少ないメイドロボの荷造りは、あっけなく終わった。

 バッグとノートパソコンを持って部屋を出る。
 大きな家の中はしんと静まり返っている。
 玄関に向かう。
 家の奥に向かって一礼する。
 ガラガラと戸をあける。
 心が震える。泣き出しそうになる。
 必死に耐えながら歩き続け、門をくぐる。
 道路に出た。
 前のご主人様との別れを思い出す。高校での運用試験が終わったときのことだ。

(あの時は、すぐにご主人様と再会できたけど…)

 マルチはあの時と同じような別れの辛さに耐えながら、考えた。

(今度は無理だろうな…)

 マルチは歩き始めた。



 マルチはただただ歩き続けた。
 少しでも立ち止まれば、大声で泣き出してしまいそうだった。
 その場に泣き崩れてしまいそうだった。
 だから歩いた。ひたすらに。
 いつの間にか、日が高く上っていた。
 ふと気がつくと、海の近くに来ていた。

(これからどうしよう…?)

 危険を冒してまで行き場のないメイドロボを引き取ってくれるような奇特な人は、そうざらにない。
 それはわかっていた。
 しかも、一晩中起きていたせいで、バッテリーの残量がもうほとんどない。
 すぐに動けなくなるだろう…

 マルチは周りを見回した。
 少し離れた所に、切り立った崖が見える。
 マルチは吸い寄せられるように、そちらへ歩いて行った。

(人を不幸にするメイドロボ…)

 昔、そう言われたことがあった。

(人殺しのメイドロボ…)

 あかりの非難が耳に蘇る。

(結局私は… いつまで経っても、人様のご迷惑にしかならないんですね。
 今度も…ご主人様と楓さんを不幸にしてしまいました。)

 自分はこの世に存在しない方がよかった… 今さらながらそう思う。
 どうせ、遅かれ早かれ廃棄処分にされる身… だったらいっそのこと…

 マルチは崖の上に来た。端まで来て見下ろす。
 海面までかなりの高さがある。
 これならきっと「死ねる」だろう…
 そう考えて、マルチは我知らず笑みをもらした。メイドロボが「死ぬ」なんて、何だかおかしい。
 でも、死のうと思った。

(死んだら、…前のご主人様にお会いできるでしょうか?)

 浩之の笑顔を思い出す。

(こんな私でも…暖かく迎えてくださるでしょうか?)

 多分そうしてくれるだろう。前のご主人様は優しい方だった。今のご主人様と同様…

(ううん。もう私には「ご主人様」はいない…)

 そう思った途端、急に体の張りを失った。足もとがよろめく。

(駄目。もっと前に出なきゃ。)

 ふらつく足で一歩。また一歩。
 踏み締めた足を支えるものがなくなるまで…

(さようなら。私の大好きなご主人様。)

 浩之にとも耕一にともなくそう呼びかけると、マルチの体は吸い込まれるように海面めざして落ち
て行った。


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