The Days of Multi第三部第7章 投稿者: DOM
The Days of Multi
第3部 Days with Kouichi
☆第7章 マルチの記憶 (マルチ2才)



 「あーおーげーばーとーうーとーしー、
  わーがーしーのーおーんー…」

 私のために浩之さんが歌ってくださった。私の卒業式だと言って。
 私は嬉しかった。
 浩之さんに巡り会い、よくしていただいたから。
 そして私は悲しかった。
 浩之さんとすぐにお別れしなければならなかったから。
 何のご恩返しもできなかったから。

 「マルチ、どうかしたのか?
  ぼんやりして…」

 「あ、お父さん… いえ、主任!
  あ、あの… 実は、最後のお願いがあるんですぅ!」

 「最後のお願い?
  何だね、言ってごらん…」

 主任に特別お許しをいただいて、浩之さんにご恩返しができた。
 お家のお掃除をしたり、お料理をしたり(失敗したけど)…
 本当は夜のうちに帰るはずだったけど、浩之さんに「帰るな」と抱き締められて…
 困ったけど、でも、とても嬉しくて…
 主任に電話をしたら、一晩泊まってもいいというお許しをいただいた。
 すみません、お父さん…主任。
 最後のお願いだったはずが、今度は最後の最後のお願いまでしてしまって…

 ご恩返しの筈なのに、いつの間にかいっぱい浩之さんに甘えてしまった。
 なでなでしてもらったり、抱っこしてもらったり、そして…
 そして、私の「ご主人様」に愛された…



 「ご主人様」?
 何か違和感が…



 翌朝。私は車で帰った。
 研究所に着いた時にはバッテリー切れ寸前だった。
 スタッフの皆さんに十分お詫びをする間もなく、フル充電のためシステムダウン。
 そして充電が終わると、いくつかのチェックをした後、
 いよいよ私の中から私がいなくなる時が来た。
 ありがとう、お父さん、スタッフの皆さん。私の我がままを聞いてくださって。
 マルチは幸せでした。
 やがて生まれて来る私の妹たちも、きっと幸せになってくれるでしょう。
 そして、「ご主人様」…



 「ご主人様」?
 また違和感が…



 そして、「ご主人様」。私はあなたに会えて幸せでした。
 本当はもっともっとご恩返ししたかったけれど…
 …いいえ、本当はもっともっと一緒に過ごしたかったけれど…
 …できることなら、ご主人様の一生、お傍についていたかったけれど…
 それは私には過ぎた夢… 私はこれから永遠の眠りにつくのだから…

 「お休み、マルチ…
  いい夢をごらん。」

 せめてご主人様の夢を見ながら眠り続けたい…
 おやすみなさい、ご主人様…



 −−おやすみなさい、マルチちゃん。

 初音さん?
 また…空耳?



 目の前を桜の花びらが舞い散る。
 懐かしい学校の庭。私が運用試験のため通っていた高校だ。
 そして私が浩之さん−−「ご主人様」と出会った思い出の場所。



 「ご主人様」?
 私のご主人様って?



 私は「ご主人様」と再会してから二回目の春を迎えたところだった。
 ご主人様は大学に入られたばかり。
 どこか行きたい所はないかと聞かれて、私がリクエストしたのは、「お花見」…
 この学校の、思い出の桜が見たいという希望だった。
 あの時と同じように桜が咲きほこり、そよ風に花びらを少しずつ散らして行く。
 二年前に戻ったような錯覚。
 私は思い出に浸りながら、ゆっくりとひとときを楽しんだ。
 やがて、懐かしい場所に別れを告げ、私たちは坂道を下る。
 「ご主人様」、私は幸せです。ずっとご主人様のお側にいられますから。



 「ご主人様」?
 「ご主人様」?
 「ご主人様」?…



 坂道を下り切った所に交差点がある。
 その手前で、私は懐かしい「犬さん」に会った。

 「あ、あの時の犬さんですぅ。」

 私は犬さんの傍に寄ると、

 「犬さん、犬さん、こんにちは…」

 早速あの時のような会話を試みるのだった。

 「ははは、マルチは相変わらずだなあ。」

 苦笑する「ご主人様」…



 苦笑する「ご主人様」…
 苦笑する「ご主人様」…
 苦笑する…



 その時、犬さんが急に駆け出した。交差点に向かって。

 「あ、待ってくださいー。
  まだお話は終わっていませんー。」

 追いかける私。

 「マルチ、危ない!」

 ご主人様の声…

 「危ない」?
 何が危ないんですか、ご主人様?
 何が…

 私の右手から大型トラックが猛スピードで走って来た。
 立ちすくむ私。

 「マルチィィィィィィィィィィィィ!!」

 ご主人様の悲鳴のような叫び。
 同時に私は後ろから激しく突き飛ばされ−−ブレーカーを落とした。



 「マルチ、危ない!」

 「ご主人様」の声。
 「ご主人様」?の声?
 私のご主人様って…

 「マルチィィィィィィィィィィィィ!!」



 再起動した私は、しばらくの間、何が起こったのかわからなかった。
 大勢の人の声がする?
 そうだ、「ご主人様」? ご主人様はどこに?


 
 「ご主人様」は…どこ?
 私の…「ご主人様」は…どこにいるの?



 見回すと、交差点を過ぎた所にトラックが止まっている。
 トラック?
 システムダウン直前の記憶が蘇る。
 大型トラックが走って来て…

 『マルチィィィィィィィィィィィィ!!』

 ご主人様の叫び声がして…
 後ろから突き飛ばされて…

 私はふらふらと立ち上がると、トラックの方へ向かった。
 周りに人だかりができている。

(トラックが走って来て…
 ご主人様の叫び声がして…
 突き飛ばされて…)

 それ以上考えられない。
 考えてはいけない。
 考えたら、とてつもなく恐ろしいことが起こりそうな気がする。
 私は少しずつトラックに近づく。

(トラックが…
 ご主人様が…)

 駄目よ! それ以上考えちゃ駄目!
 私はトラックの運転席の横まで来た。

(トラックが…
 ご主人様が…)

 考えちゃ駄目だったら!

(走る…トラックの…前に…)

 考えたら…取り返しのつかないことになる!

(走る…トラックの…前に…ご主人様が…)

 駄目! 考えちゃ…
 運転席の横を通り過ぎて、トラックの前へ…

(走る…トラックの…前に…ご主人様が…私を…かばって…)

 ああ… 考えちゃったから!

(トラックの…前に…ご主人様が…?)

 とうとうこんなことに!
 トラックの…前には…ご主人様が…倒れていた。

 「ご…ご主人様あああああああああああっ!!」

 私は再び意識を失った。



 私が目を覚ました時、目の前には、女の人の顔があった。

 「マルチちゃん… 気がついた?」

 知っている顔だ−−ご主人様の幼馴染みの−−そう、神岸あかりさん。

 「あかりさん… ここはどこですか?」

 「病院だよ。」

 「病院? どうして私が病院に?」

 私はメイドロボ。
 私が故障したら、病院じゃなくて、来栖川のサービスセンターにいるはず。

 「…覚えていないの?」

 あかりさんが私の顔をのぞき込む。
 何だか…あかりさんの様子が変だ。

 「ええと…」

 必死に記憶を取り戻そうとする私。
 何だかとんでもないことが起きたような… 何だったっけ?
 うーん… どうして思い出せないんだろう?
 ご主人様にお聞きすれば、教えてくださるかも知れない。
 そう思った時。
 急に胸騒ぎがし始めた。

 ご主人様? ご主人様?

 『マルチィィィィィィィィィィィィ!!』

 はっ!?

 そうだ… トラックの…前に…ご主人様が!!
 そ、そうか、ご主人様は怪我をして…この病院に運び込まれたに違いない!

 「あかりさん!
  ご、ご主人様は… ご主人様はどこですか!?」

 するとあかりさんは、何とも言えない表情をして見せた。
 何? どうしてこんな顔を?
 笑おうとして笑えない顔。
 泣こうとして泣けない顔。
 怒ろうとして怒れない顔。
 その全部を合わせたら、こんな表情になるのだろうか?

 「浩之ちゃんに… 会いたい?」

 「は、はい! 会いたいです…
  会わせてください!!」

 私はメイドロボの慎みをどこかに投げ捨てたような勢いで、あかりさんにお願いした。
 ふっとあかりさんが微かに笑った…ような気がした。

 「そんなに焦らなくてもいいのよ。
  …ついていらっしゃい。」

 どうしたんだろう? さっきからあかりさんの様子が…変だ…
 私は言い知れぬ不安を覚えながら、あかりさんの後について行った。

 連れられて行った所は…普通の病室ではなかった。

 「あの、あかりさん、ここは…?」

 「集中治療室よ。
  …どうしたの?
  浩之ちゃんに会いたいんでしょ?」

 私はあかりさんと共に集中治療室の中に入った。
 そこには…

 「ご主人様!」

 そう、ご主人様がベッドの上で体を横たえておられた。
 その傍らには、ご主人様のご両親が立っておられた。
 私は早速ご主人様に抱きついた。

 「ご主人様!
  うぅっ、心配しましたぁ。
  …あっ、す、すみません、
  私をかばってくださったんですよね?
  私が悪かったんですぅ…
  赦してくださぁい。
  これから気をつけますからぁ…」

 その時、私の耳に乾いた紙をこすり合わせるような妙な音が聞こえて来た。
 ? 何だろう。
 最初ごく微かなカサカサという音に聞こえたそれは、次第に大きくなり、
 やがてクスクスとはっきり聞こえる声になった。
 笑い声?
 振り返ると、あかりさんが、おかしくてたまらないという風にクスクス笑い続けていた。

 「あかりさん?」

 「クスクス… マ、マルチちゃん…」

 あかりさんは笑いながら、私の名を呼んだ。

 「浩之ちゃん… 寝ているでしょ… クスクス…
  起こさないと…いくらお詫びしても… クスクス… 無駄だよ。」

 「あ、そ、そうだったんですかー?
  お休みだったんですねー。」

 私はご主人様の体をそっと揺すった。

 「ご主人様。マルチですぅ。
  起きてくださぁい。」

 クスクス…

 「ご主人様ぁ。お父さんもお母さんもおいでですよう。
  あかりさんもおいでですから…
  目を覚ましてくださぁい。」

 クスクスクスクス…

 「ふええ… 起きてくださらないですぅ…
  どうしましょう?
  ええと… そうだ!」

 これならきっと目を覚ましてくださる。

 「ご、ご主人様ぁ! 朝ですよう!
  早く起きないと学校に遅れますよう!
  あかりさんも一緒に行こうってお待ちに…」

 「クスクス!
  アッ、アハハハハハ!!」

 突然あかりさんが、体を折るようにしてげらげら笑い始めた。
 私はびっくりしてあかりさんの方を向く。
 看護婦さんがこちらへと向かって来る。

 「恐れ入りますが、病院内ではお静かに…」

 「アハハハ…
  もう駄目。く、苦しい。」

 あかりさんは、看護婦さんの注意が耳に入らないかのように大声で笑う。

 「アハハハ… マ、マルチちゃんって…
  アハ… マルチちゃんって、本当に…
  抜けてるんだね… アハハ、アッハッハ…」

 「お静かに願います。」

 看護婦さんの無愛想な声。

 「マルチちゃん…
  まだ…わからないの… アハハハ…
  あなたのご主人様が、本当に…
  アハハハ… 眠っているのかどうか。」

 ? それって、ご主人様が狸寝入りしているってこと?

 「ご主人様?
  もしかして起きていらっしゃるんですか?」

 「アハハハハハ!!」

 あかりさんがまた、弾かれたように笑い出す。
 看護婦さんが注意しても、一向平気な様子で笑っている。
 違う。あかりさんじゃない。いつものあかりさんと違う。
 この人は…だれ?

 「アハハハハ…
  マルチちゃん、浩之ちゃんはね、いくらやっても起きないよ。」

 どうして?

 「浩之ちゃんはね… 浩之ちゃんはね…」

 急にあかりさんの笑いが止んだ。
 そしてさっきも見せた、あの、何とも言いようのない表情になった。

 「浩之ちゃんはね…」

 あかりさんの目が、すっと細くなる。
 あかりさんが恐い。

 「もう目を覚まさないの。二度とね。
  だって…」

 あかりさんが恐い。あかりさんが恐い。

 「浩之ちゃんは…」

 あかりさんが恐い。あかりさんが恐い。あかりさんが恐い。

 「死んじゃったんだから!!」

 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い…

 「死ん…じゃった?」
 「そうよ。あなたをかばって死んだのよ!
  たかがメイドロボの、あなたなんかのためにね!」

 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い…

 「あなたのせいで、浩之ちゃんは死んだのよ!」

 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い
 あかりさんが恐い…

 「あなたが・浩之ちゃんを・殺したのよぉ!!
  この人殺し!!」

 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い
 あかりさんが恐いあかりさんが恐い…

 「返せ! 浩之ちゃんを返せ!
  私の大事な浩之ちゃんを返せぇ!」

 あかりさんは私につかみかかって来た。
 私の両肩を掴んで前後に揺すぶる。

 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い
 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い…

 「返せ! 返せ!」

 看護婦さんが慌てて止めに入る。
 しかし、普段のあかりさんとは別人のような力に、看護婦さんも振り回される。
 あかりさんは、今度は私を所構わずぶち始めた。

 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い
 あかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐いあかりさんが恐い…

 「返して… お願いだから返してよう…
  浩之ちゃんを返して…」

 ご主人様のお父さんも、あかりさんを必死で取り押さえようとする。
 暴れ回っていたあかりさんは、急にぐったりすると、今度は泣き始めた。

 「ひどいよう… こんなのないよう…
  私ずっと待っていたのに…
  いつかは気がついてくれると思っていたのに…
  ひどい、ひどいよう…」

 泣きじゃくるあかりさんは、さらに駆けつけた看護婦さんたちの手によって、
 どこかへ連れて行かれた。

 …あかりさんの姿が見えなくなった。
 私の意識があかりさんから再びベッドの方へと戻った時。
 物言わぬご主人様の姿が目に入った。
 そして…私は…

 「ご主人様?」

 −−浩之ちゃんは死んじゃったんだから!!
 −−あなたをかばって死んだのよ!
 −−あなたのせいで、浩之ちゃんは死んだのよ!
 −−あなたが・浩之ちゃんを・殺したのよぉ!!
 −−人殺し!! 人殺し!! 人殺し!! 人殺し!!…

 あかりさんの言葉が、一気に私の認識レベルに達した。
 激しい胸の痛み。胸が張り裂けるような思い。
 状況を認識したとたん、思考系と感情系に怒涛のように押し寄せる圧迫感…

 「ご・主・人・様・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ!!」

 私は…壊れた。

 愛した人に先立たれるなんて…



 私はぼんやりと座っていた。
 どこに座っていたのかよくわからない。
 誰かが「ここにいなさい」と言ったから…その通りにしただけ。
 ただじっと座り続けていた。

 どれくらいそうしていただろうか。
 女の人が私に近づいて来た。
 すぐ傍に来たようだが、私はほとんど関心を向けなかった。

 「マルチ…ちゃん?
  こんな所にいたんだね?」

 マルチ…って誰? それにこの人は?

 「ごめんね。マルチちゃん。
  私、あの時はかあっとなって、
  何が何だかわからなくなっちゃって。
  …あんなこと言うつもりはなかったの。
  赦してね。」

 何のこと? どうしてそんな話を私にするの?

 「本当に、本当にごめんね。
  マルチちゃんが壊れたって聞いて、私…。
  どうしても謝らなきゃって…」

 謝る?

 「でも… 浩之ちゃんがマルチちゃんを選ぶのも、当然だよね。
  だってマルチちゃん…
  壊れるくらい、浩之ちゃんのことが好きだったんだものね?」

 浩之? どこかで聞いた名前…
 それにしても、この人は一体だれなんだろう?

 「マルチちゃん…
  私の言うこと、わかる?
  今さら謝っても遅いことはわかっているんだけど…
  ど、どうしても、マルチちゃんに赦してもらいたくて…」

 どうしてこの人は謝り続けるのだろう?
 誰かに赦してもらうまでは、気が済まないのだろうか?

 「私のこと… 赦してくれる?」

 私は初めてその女の方を向いた。やはり知らない女性だ。
 大きな目に涙が溢れそうになっている。
 見知らぬ相手でもいいから、「赦す」と言ってほしいのだろうか?

 私は小さくこくんと頷いてみせた。
 そうすれば、この人が満足するだろうと思って。

 「マ、マルチちゃん!?
  赦してくれるの?」

 こくん

 「あ、ありがとう。
  本当にありがとう!」

 感極まった様子で、しきりにお礼を言いながら出て行く女性。

 …誰だったんだろう?
 私のことを…何とかと呼んでいたけれど…
 私には名前なんてないのに…



 ご主人様と自分の名前をなくした私は、来栖川の研究所に引き取られた。
 長瀬主任始め開発部の皆さん、芹香さんや綾香さんも、
 一生懸命私を元に戻そうとしてくださった。
 命の危険が迫った時、私は研究所を脱出したが、
 「悪い人たち」に捕まりそうになった。
 それを助けてくださったのが…今のご主人様…



 くすんくすん…

 これは夢。私が見ているのは夢。
 夢だけど現実。
 私の記憶と、今のご主人様が経験したこと。

 愛した人に先立たれるなんて…



 そう。昔のご主人様は、私を愛し、私をかばって死んでしまわれた。
 ひとり残された私は、余りの辛さに壊れてしまったのだ。
 私が感じていた胸の痛みは…その辛い記憶の痛み。
 今のご主人様に出会ったおかげで…ご主人様に「名前」をつけていただいたおかげで、
 ようやく昔のような私の心が回復しようとしている。

 でも… 今のご主人様も、愛した人に先立たれた辛い記憶を持っておられる。
 その傷は今も癒えていない。
 あの、心の底から震えを起こさせるような、切なく悲しい呟きを聞けばわかる。
 どうしてみんな…こんな辛い思いをしなければならないの?



 その時、またしても新しい情景が私の前に展開する。
 何? また? また辛い夢を見なければならないの?
 もういや。だれかやめさせて…


 そこは、昔の農家のような感じがする家の中だった。
 男の人が寝ている。その隣には女の人が。
 男の人は、悲しい夢を見ているようだった。
 涙を流しながら、しきりに何かを呟いている。
 その声で、隣に寝ていた女性が寝返りを打つ。
 男の人は虚空に手を伸ばしながら、今度ははっきりと分かる言葉を口にした。

 「エディフェル!」

 その言葉に、隣の女性がぴくりと身を震わせる。
 エディフェル? 確かさっきの夢に出て来た「楓さんじゃない楓さん」。
 ということはこの男性は…
 やっぱり。「ご主人様でないご主人様」だった。
 すると隣の女性はエディフェル?…じゃない。
 違う。エディフェルに似ているけれども、もっと幼い感じがする。
 だれ?
 すると、ご主人様でないご主人様が目を覚ました。
 続いて、エディフェルに似た女性−−というより少女−−が身を起こす。
 男の人はその少女の胸に顔を埋めて…泣いた。
 少女が口を開く。

 「…また、お姉様の夢を?」

 「…済まぬ、リネット。俺は…」

 少女は、まだあどけなさの抜けない顔に、慈母のような表情を浮かべる。
 リネット? エディフェルさんの妹?

 「謝ることはないの…」

 少女はご主人様でないご主人様を抱き締めながら、優しく言葉をかける。

 「リネット…」

 「本当に愛した人のことを、
  そう簡単に忘れられるはずがないもの…」

 「済まぬ…」

 「だから… 謝ることはないの。」

 少女は続ける。

 「そんなあなただから…
  私はあなたのことを…好きになったの。」

 「リネット…」

 「お姉様の…代わりでも…いいから…」

 「………」

 ふたりはしばらく無言で、互いを暖め合うように抱き合っていた。
 やがてふたりは、どちらかともなく顔を近づけると…くちづけをした。
 そして、男の人がゆっくりと少女の体を横たえ…その上に覆いかぶさっていく…
 え? あ? こ、これって…
 だ、駄目! これ以上見ちゃ駄目! プライバシーですぅ!

 「ふえええーん! ご主人様あああああああ!
  やめてくださあああい!」

 あ? 良かった、また視界がぼやけていく…
 間に合いました…



 −−おやすみなさい、マルチちゃん。

 どこかで聞いた声がする。
 誰の声だろう…?


−−−−−−−−−−−−

ここでのマルチの記憶の大半は、第一部第7章の出来事をマルチ視点で見たかたちになっています。
興味とお暇のある方は、比べてみてください。


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