The Days of Multi第三部第6章 投稿者: DOM
The Days of Multi
第3部 Days with Kouichi
☆第6章 耕一の記憶 (マルチ2才)



 話が一段落つくと、もう夕方になっていた。
 マルチは急いで立ち上がって、夕食の支度をしようとする。
 それを見た梓と初音ちゃんが、自分たちも手伝うと言い出す。
 マルチは遠慮したが、俺が手伝ってもらうように言ったので、夕食は三人の合作となった。

 …俺は、三人が腕を振るったごちそうの山を見ながら、

「マルチを連れて隆山に行くと、
 しょっちゅうこんな食事を期待できるのか。」

 と、ちょっぴりいやしい考えを持ったのであった。



 その後はなし崩しに酒盛りとなった。
 と言っても、実質は俺と梓の飲み比べだったのだが。
 梓の奴、最初から俺の部屋に泊まるつもりで、宿の予約もせずにやって来たらしい。
 全く梓らしいと言うか…

「くぉらマルチぃ!
 さっきはよくも、俺の寝言をばらしてくれたなあ!
 恥ずかしくて死にそうだったぞう!」

 俺はお酌をしていたマルチをつかまえて、頭をぐりぐりする。
 実際以上に酔ったふりをしているのは、傍若無人な振る舞いをすべて「酒のせい」ですますための
方便だったりする。

「ひぃーん!
 ご、ごめんなさいですぅ、悪気はなかったんですぅ!」

「いいや、だめだ。赦さんぞう!
 こうなったら俺も、マルチの、とっておきの恥ずかしい話をしてやる!」

 そう言いながら、ちらっと梓の方を見る。
 梓は初音ちゃんにお酌をしてもらいながら、豪快に笑っている。
 初音ちゃんは、「お姉ちゃん… あんまり飲むと良くないよ。」と苦笑しながらビールを注いでい
る。

「え? は、恥ずかしい話ですか?」
「そうだ。
 俺ひとり恥ずかしい思いをするのは不公平だ!
 そうだろ? だからマルチも…」

「そ、そんな…
 あ、あの、恥ずかしい話って…
 どんなお話ですか?」

「ん? そうさな…」

 実は具体的には考えていなかったりする。
 しかし、マルチに問われてしばし思いめぐらした俺は…

「うん! やっぱりあの話だな!」

「あ、あの話って…?」

 マルチが不安そうな目を向ける。

「それは…」

 俺はわざと間をあける。

「それは…?」

 息を飲むマルチ。

「マルチと一緒にお風呂に入った時の話だ!」

「え? え、えええええーーーっ!?」

 マルチはうろたえまくる。

「いやあ、あの時のマルチはうぶだったよな…」

「ご、ご主人様…」

「『お背中流しましょうか?』って恥ずかしそうに…」

「そ、その話は…」

「そのうち、バスタオルがはらりと…」

「やめてくださああああああい!」

「俺の目の前に、マルチの可憐なヌードが…」

「いやですぅ!」

「かわいいおっぱいに、かわいいおへそ…」

「いや…」

「そしてさらに…
 いやいや、女の子の前でこれ以上口にするのは、いくら何でもまずいな。」

「………」

「そのままばったり倒れて…
 ご主人様、どうぞよく見てください、って感じで。」

「…うっ。」

「いやー、いいものを見せてもらいました、ですぅ。」

「うっ… うっ…
 うわああああああああああああん!!」

「へ? マ、マルチ?」

 調子に乗った俺がマルチの口真似までしてからかうと、マルチはたまりかねたように泣き出した。

「うわああああああん!
 恥ずかしいですぅ! うわあああん!」

「マ、マルチ、悪かった、俺が悪かった、な?
 謝る、謝るから、もう泣かないでくれ、頼む。」

「うわあああ…」

「何だあ耕一ぃ?
 女の子を泣かせてるのか?
 まったくお前って奴は…」

 怒気を含んだ梓の声。やばい。

「か、勘違いするな!
 マルチは… マルチは、泣き上戸なんだ!」

 言ってしまった俺でさえため息が出るような、下手な言い訳。

 ところが梓は、

「何? マルチは泣き上戸か?
 そうかそうか…
 よし、泣くなマルチ!
 あたしが歌でも歌って、慰めてやるからな!」

 そう言うと、止める間もなく大声で歌い出した。
 まあ、少々うるさいが、酔っぱらって力加減を忘れた拳や蹴りを食らうことを考えれば、数段まし
だ。
 それにしても、あんな見えすいた言い訳を真に受けるとは、よほどアルコールが回っているのか?
 ふと梓の隣を見ると初音ちゃんが、「マルチちゃんは、お酒飲まないのにぃ…」という苦笑を浮か
べていた。
 そうだよな、普通はわかるよな。

「…うわあああん!」

 おっといけない。マルチが泣いていたんだ。

「マルチ、いい子だから、もう泣きやみなさい。」

 これじゃ、ちっちゃい子をあやしてるみたいだな。

「ううっ… 恥ずかしかったんですぅ…
 あのときは…」

「わかった、わかったから…」

「あんな格好で…」

「よしよし…」

「ご主人様、
 私のことを介抱してくださっていたものだとばかり思っていたのに…」

「いい子いい子… え?」

「本当は私が気がつくまで、私の裸を見ていたんですね…?
 ううっ、恥ずかしい、恥ずかしいですぅ。」

「マ、マルチ…」

「ううっ… うわああああん!」

 ま、またか。

「マルチ、マルチ。あの時は見ていない。
 よく見えなかった。だから安心しろ。」

 俺はできるだけ真剣な顔で言った。

「うわあああ… え?」

 マルチは、一瞬きょとんとした顔を向ける。

「湯気がいっぱいでな。見えなかったんだ。
 お前が倒れた後は、抱きかかえていたから、顔しか見えなかったし。」

「そ、そうですか?
 …でも、さっきは… あの…
 おっぱいとか、おへそとか…」

 恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。

「冗談だよ。お前をからかっただけだ。」

「ほ、本当ですか?」

「ああ、ほんとほんと。」

 本当の本当を言うと、一瞬ではあるがかなり鮮明に見えたのだが…マルチには内緒だ。

「ううっ… 良かったですぅ。」

 マルチはまだぐすぐす言いながら、それでもようやく落ち着いてきた。



「ご主人様の意地悪ぅ…。
 からかわないでくださいぃ。」

「悪かった。
 でもな、おまえもいけないんだぞ。」

「わ、私、ですか?」

「そうだよ。さっき言っただろ?
 寝言ばらされて恥ずかしかったって。」

「はい…」

「プライバシーを暴露されるのは、嫌なものなんだよ。」

「プライバシー…ですか?」

「そう。
 誰にでもな、人に知られたくない恥ずかしいこととか、
 秘密にしておきたいこととかあるんだよ。
 大切な思い出なんかもそうだな。
 それがプライバシーってやつさ。」

「人に知られたくないこと…
 秘密にしておきたいこと…
 大切な思い出…」

 その時、マルチの胸の奥がちくりと痛んだような気がした。
 そしてなぜか、目の前を桜の花びらが舞い散る情景が浮かんだ。
 …何だろう、これは?
 記憶にない光景が目に浮かぶなんて…

「だからな…
 そういうものを勝手に人に教えちゃ駄目なんだ。」

 ご主人様の声が遠くから聞こえる…

「わかったな、マルチ?」

 マルチは我に帰った。

「あ… はい! わかりました!
 プライバシーは大事なものなんですね!?」

「その通り。わかればよろしい。」

 耕一が微笑む。
 ふと、先ほど感じた痛みが、もう一度ごくかすかにマルチの胸に響いたような気がした。



 梓お姉ちゃんは酔いつぶれて畳の上。
 お姉ちゃん、女の子が大の字になって寝るのは良くないと思うよ…
 耕一お兄ちゃんはさっきまで、「お、梓はもう轟沈か? 口ほどにもない…」とか、私とマルチ
ちゃんを相手に、「三人でお風呂に入ろうよ。どっちが大きいか比べてあげる。」とか言っていたけ
ど、気がつくともう横になってスースー言っている。

 ふたりに布団をかけながら、私は、くすっと笑って、

「マルチちゃんの言った通りだね。」

 と言った。

「え?」

「ほら。お酒飲んでそのまま寝ちゃうって。」

「ああ、そうでしたね。」

 私たちはお互いに苦笑し合う。
 しかし… よく考えたら、「苦笑する」メイドロボってやっぱり凄いような…

「マルチちゃんって凄いんだね。」

「はい?」

「だって、ほんと、何から何まで人間そっくりなんだもの。」

「そ、そうですか?
 ありがとうございますー。」

 マルチちゃんは嬉しそうだ。

「ねえ…
 マルチちゃん、人を好きになったりもできるんでしょ?」

 私はなぜか、突然そんなことを聞いてみたくなった。

「え!?」

 マルチちゃんは驚いたような声を上げる。

「だって、それだけ人間そっくりに、
 喜んだり悲しんだりできるんだもの…
 恋をすることだってできるよね?」

「わ、私… ロボットですから…
 人間の方を好きになるなんて、大それたこと…」

「そんなことないよ!」

「は…初音さん?」

「あ… ご、ごめんなさい。」

 どうしたんだろう、私?
 さっきお兄ちゃんに勧められて、少しだけもらったビールのせいかしら?
 そう言えば、ちょっと顔が火照るような気が…

「マルチちゃんが、ロボットだろうが何だろうが…
 人を好きになるには関係ないと思うの。」

「………」

「で、どうなの?
 やっぱり、人を好きになることもできるんでしょ?」

「私は…」

 マルチちゃんは、ちょっと目を伏せる。

「私は…よくわかりません。
 その… そういう経験したことがありませんから。
 …本当に人を好きになれたら…
 きっとすばらしい…と思うんですけど…」

 その時、マルチちゃんは、はっと自分の胸を片手で押さえた。
 まるで、急にその部分に痛みが走ったかのように。

「マルチちゃん、大丈夫?」

「え、だ、大丈夫って、何がですか?」

「何だか、胸が苦しそうだから…」

「あ、ああ、大丈夫です、
 何ともありませんから、本当に。」

 何となく慌ててるような気がするけど…

 ………

 …ふわぁ

 つい欠伸が出たのを、マルチちゃんに見られてしまった。
 ちょっとばつが悪い。

「さあ、もう遅いですから、
 そろそろ初音さんもお休みください。」

「うん。じゃあ、ここをちょこっと片づけてから。」

「あ、いいんですよ、私がしておきますから。
 それよりベッドが空いていますので、そちらで…」

「うーん。
 でも私だけベッドっていうのも…
 やっぱりここを片づけて、寝させてもらうね。」

 せっかくだから、耕一お兄ちゃんの傍がいいし…

「そうですか? それじゃあ…」

 マルチちゃんとふたりで、手早く酒盛りの後を片づけると、ざっとシャワーを浴びた。
 風呂から出ると、マルチちゃんが私のために、お布団を用意してくれていた。

「マルチちゃん、ありがとう。」

「いいえ、どういたしまして、ですぅ。」

「ふふっ、…ところで、マルチちゃんはどこに寝るの?」

「私ですか? 私はこちらで…」

 マルチちゃんはノートパソコンを持って来ると、部屋の隅に置いた。

「充電をしながら、休ませていただくんですぅ。」

「そう…」

 私は布団に入る。
 右手には耕一お兄ちゃん。左手には梓お姉ちゃんが寝ている。
 お兄ちゃんの近くで寝られるなんて…ちょっと嬉しいような。

「おやすみなさい、マルチちゃん。」

「おやすみなさい、初音さん。」

 マルチちゃんが部屋の明かりを消した。
 一瞬何も見えなくなる。
 部屋の隅に置いてあるパソコンのモニターを除いて。

「…マルチちゃん。まだ起きてる?」

 ふと思いついて、声をかける。

「はい? 何かご用ですか?」

 パソコンの傍の人影が返事をする。

「あのね。
 …マルチちゃん、夜はいつもそこでお休みするの?」

「はい。そうですが?」

 怪訝そうな声で答えが返って来る。

「そう…」

 やっぱりね。

「…あ、あのっ!」

 あれ? 何だか焦ってるみたい…?

「初音さん! わ、私、あの…
 ご、ご主人様のベッドで休ませていただいたことなんか、
 い、一度もありません、から、
 …本当です! 信じてください!」

 そうか。梓お姉ちゃんに言われたことを気にしてたのね。
 私が疑っていると思ったのか。

「ごめんね。
 そんなつもりで聞いたんじゃないの。」

「ほ、本当です! 本当なんですぅ!」

「違うの。私が聞いたのは…
 耕一お兄ちゃんが酔っぱらってここで寝ちゃったら、
 いつもマルチちゃんが、そこからお兄ちゃんを見守っているんだなあって、
 そう思ったからなの。」

「…は?」

 マルチちゃんはよほど意表を突かれたらしい。間の抜けた声を出す。
 私は思わずくすっと笑う。

「何だか羨ましいかな、って…」

 どうしたんだろう、私?
 やっぱり酔っちゃったかな?

「初音さん?」

「ごめんね。邪魔しちゃって。
 今度こそおやすみなさい。」

「…おやすみなさい。」



 沈黙が部屋を支配する。
 それから少しずつ、いろいろな音が耳に入って来る。
 じーっというのは冷蔵庫の音かなあ?
 マルチちゃんのパソコンからも、ごく微かな音がしているみたい。
 時々、お兄ちゃんやお姉ちゃんが寝返りを打つ音もする。
 そう言えばお兄ちゃん、今日は寝言言わないのかな?
 しばらく耳を澄ませていたが、軽いいびきの音しか聞こえて来ない。

 もうマルチちゃんも寝ちゃったかしら?

「…マルチちゃん?」

 小さな声で呼びかけてみる。
 返事はない。

「マルチちゃん?」

 今度はもう少し大きな声。
 やはり返事はない。
 マルチちゃんも寝ちゃったみたい。

「マルチちゃん…」

 一転して小さな呟き。誰にも聞こえないような。

「マルチちゃんも好きなんだね…」

 そう、見ていればわかる。
 やっぱりマルチちゃんは、恋することもできるんだって。

「耕一お兄ちゃんのこと…」

 自分と同じ男性(ひと)を好きになったメイドロボ。
 でもその男性は…

「でも、耕一お兄ちゃんが好きなのは…」

 初音の目に涙が光った。



 私は目を覚ました。
 傍らのノートパソコンを見ると、モニターに「充電終了」の表示。
 まだ夜明けまでには間があるようだ。

 私はそっと立ち上がると、ご主人様やお客様の布団の具合を確かめに行った。
 私のすぐ目の前には梓さん。そして布団は… 傍らにはね除けてある。
 私は布団をかけて上げながら、今日一日のことを考えた。
 …初めのうちは、恐い人かと思ったけど、実は気さくないい人だとわかってほっとした。
 私がメイドロボだってなかなか信じてくれなくて…
 でも、信じた後も、違和感なく私に接してくれた… まるで私が人間であるかのように…
 ご主人様とおんなじだ… やっぱり親戚だけのことはある…
 …そう言えば、酒癖が悪いのも親戚だから?

 梓さんの向こうには初音さんが… あれ、いない?
 よく見ると、初音さんは、掛布団ごと巻き込むようにして敷布団から落ち、ご主人様のすぐ傍まで
移動していた。
 多分無意識のうちに動いたのだろう。
 それにしても、初音さんが寝相が悪いなんて意外だ。
 近寄って見ると、初音さんの顔は、あと一歩でご主人様の顔にくっつきそう。
 なかなか際どい位置にある。
 そう思っていると、初音さんの顔で何かが光った。

「?」

 顔を近づけてみるとそれは涙だった。
 初音さんが泣いている? どうして?
 何か辛いことでもあったのだろうか?

 そのとき、傍らのご主人様の口から、ある言葉がもれた。

「楓ちゃん…!」

 私はびくっとした。
 これだ。この言葉…

 しかし私は、その言葉が発せられた時、初音さんの体もぴくっと動いたのを目にしていた。
 そして、初音さんの固く閉じられたまぶたの間から、新しい光の筋が生まれて流れるのも…
 初音さん… もしかして…

 私はご主人様がはね除けた布団を直すと、再びパソコンの傍に腰をおろした。
 初音さんが寝る前に口にした言葉を思い返してみる。

 −−マルチちゃん、夜はいつもそこでお休みするの?
 −−耕一お兄ちゃんが酔っぱらってここで寝ちゃったら、
   いつもマルチちゃんが、そこからお兄ちゃんを見守っているんだなあって…
 −−何だか羨ましいかな、って…

「初音さん… ご主人様のことが…」

 言いかけて、

「プライバシー…ですよね?」

 そのとき、またしても例の痛みが、マルチの胸をほんの一瞬、しかく深く抉る。

「何だろう… この感じは?」

 故障だろうか? そう考えて少し身震いする。
 自分は来栖川の修理サービスを受けられない。
 そんなことをすれば、たちまち正体を見破られて、スクラップにされるだろう。
 今までは特に問題もなくやってこれたが、もし深刻な故障でも起きたら…

 マルチは頭を振る。
 悪い方にばかり考えることは止めよう。
 それでどうなるというものでもない。

 マルチは気を取り直して、暗がりの底に眠る三人の姿に目を向ける。
 梓さん、初音さん、そしてご主人様…
 皆いい人たちばかり…



 −−楓ちゃん…

 先ほどのご主人様の寝言が耳によみがえる。
 そう、今まで幾度となく耳にした寝言。
 聞いているだけで身を切られるような、切なく、悲しく、辛い響き。

「ご主人様にとってその方は…
 よほど大切な方なんですね?」

 どんな人なのか、その人との間に何があったのか。
 聞きたかった。
 だから、昼間ご主人様の寝言の暴露を始めたのは、もちろん初音さんの質問に答えるためもあった
のだが、それにかこつけて「楓さん」のことを聞くためだったのだ。
 なぜだか、どうしても知りたいと思ったから。
 目的を達成する前にご主人様にさえぎられたので、結局聞けなかったのだけれども。

 誰にでも人に知られたくないことがあるのだ、とご主人様はおっしゃった。
 恥ずかしいこととか…
 大切な思い出とか…

 またしても胸の痛み。

「『楓さん』のことも…プライバシー? …!!」

 胸の痛みが大きくなる。突き刺すような痛み。
 そして目の前には…桜の花びらが…
 どこかで歌声が聞こえる… すぐ近くのような… 遠くのような…
 聞いたことがないはずなのに、良く知っている歌のような…
 とても懐かしく、とても悲しい、歌声…

 この映像と音声は一体…?

「…故障じゃないよね?」

 少し心配になる。
 それとも…私の失われた記憶の断片が?

 −−おやすみなさい、マルチちゃん。

 ふと、初音の言葉が聞こえたような気がした。
 目を凝らしてみるが、初音が起きた様子はない。
 空耳だろう−−ロボットに空耳などあるかどうか問題だが。

「おやすみなさい、初音さん。」

 そう。夜明けにはまだ間がある。
 いい夢を見られるといいな…



 夢を見た。
 ご主人様の夢だ。
 いい夢。
 ご主人様が…誰かを抱きかかえている?
 だんだん映像が明らかになる…
 ああ!? ご主人様は裸だ!
 しかも、抱きかかえている女の子も裸…!?
 ショ、ショックですぅ!
 ご主人様は女の子の顔をのぞき込んで、一生懸命呼びかけている。

 「…チ! しっかりしろ! マルチ!」

 え? マルチ? マルチって… 私のこと?
 …そうか。これは、私がお風呂場でシステムダウンした時の記憶。
 でも、自分の姿を離れた所から見るなんて… 今まで一度もなかったけど…?
 それに、どうしてシステムダウン中の記憶があるのかしら?

 「死、死ぬな! 死なないでくれ!」

 ご、ご主人様、そんなに慌てなくても…
 私はロボットですから、死んだりしませんよ。

 「頼む! 目を開けてくれ!」

 もう少ししたら、再起動しますから…

 「俺をひとりにしないでくれ!」

 ご主人様… そんな切羽詰まったようなお顔で…

 「好きだ! 愛している! 大好きだ!」

 え? ええ? ご、ご主人様、今何て?
 ご、ご主人様が私のことを…!?
 ど、どうしたらいいんでしょう?

 その時、私の視界がぼやけた。



 …再び視界が明らかになったとき、私の目の前には…やはり裸のご主人様が…
 またお風呂場かしら?
 いや、違う… これは外だ。
 水の音… 川のほとり?
 そしてご主人様は、裸の私を抱きかかえて…じゃない。私は服を着ている。
 ううん、これは私じゃない… 日本人形のように端正な顔立の少女。誰だろう?
 少女の胸は、鮮やかな朱に染まっている。
 その顔からは血の気が失せ、紙のように白い。
 少女は微かに目を開けると、ご主人様に何かささやいた。よく聞き取れない。
 でも、少女の顔には満足そうな笑みが…

 「…ちゃん! …でちゃん!」

 ご主人様が、必死に少女の名を呼んでいる。

 「…えでちゃん! しっかりしろ! 楓ちゃん!」

 え? 楓…さん?

 「死、死ぬな! 死なないでくれ!」

 この人が楓さん…

 「頼む! 目を開けてくれ!」

 ご主人様の…大切な人…

 「俺をひとりにしないでくれ!」

 ? この言葉、どこかで聞いたような…

 「好きだ! 愛している! 大好きだ!」

 ええ?
 どうして? どうして?…
 私の頭の中をご主人様の言葉がぐるぐる駆け巡る。
 どうして、ご主人様? その言葉は、お風呂場で私にかけてくださったのでは…?
 なのに、どうして楓さんに?
 どうして? どうして?

 …ううん、最初からわかっていたはず。
 ご主人様は、私を愛してくださったわけではない。
 私の中に楓さんの面影を見い出し…私を通して楓さんを愛していただけ…
 ご主人様が本当に大切に思っておられるのは…楓さんだけ…
 すでにこの世の人ではない楓さんだけ…
 …最初からわかっていたはず。
 なのに私は…ご主人様のことを…

 再び私の視界がぼやけた。



 今度は何?
 またご主人様の姿が… え? 違う?
 ご主人様じゃない? でもやっぱりご主人様?
 どうしたんだろう? 本当に故障したのかしら?
 「ご主人様でないご主人様」を認識するなんて!
 そして、ご主人様でないご主人様が抱きかかえているのは…
 もちろん私じゃなくて…楓さん…でもない?
 いえ、そんな… どうなっているの?
 今度は「楓さんじゃない楓さん」?
 「ご主人様でないご主人様」は「楓さんじゃない楓さん」を抱きかかえて、
 必死にその名を呼んでいる。

 「…フェル! しっかりしろ! エディフェル!」

 エディ…フェル? 外国の人かしら?
 そう言えば瞳の色が違うような…
 もしかして、メイドロボ?

「死、死ぬな! 死なないでくれ!」

 いや、違う。メイドロボは血を流さない。
 この人の胸は血まみれで…
 まるでさっきの楓さんみたいに…

「頼む! 目を開けてくれ!」

 さっきまで開いていたまぶたが…
 そうか。この人も…死ぬんだ…

「俺をひとりにしないでくれ!」

 ご主人様をひとり残して…

「好きだ! 愛している! 大好きだ!」

 ご主人様が愛した人は皆、ご主人様を置いて死んで行くのだ… 可哀相なご主人様…
 愛した人に先立たれるなんて…

 うっ!!
 ま、また、あの胸の痛みが…
 目の前に桜の花びらが舞い散る…
 そして…
 …………


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