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ブルース・リーが演じた曹禺『雷雨』
 
       瀬戸宏 
 
 
左はDVDカバー
 
 
*原載『中国文芸研究会会報』368号(2012.6.24)
転載にあたって、一部修正。
 
html版ではハンイの漢字が表示できないので、カタカナで代用。漢字表記はPDF版を参照のこと。
 
曹禺『雷雨』については、こちら
     
ブルース・リー(李小龍)といえば、1973年の逝去から40年近くたつにもかかわらず、今日も人気が衰えないカンフー映画の大アクション・スターである。しかしそのブルース・リーがかつて曹禺『雷雨』に出演していたことは、日本ではあまり知られていない。もちろん、プロ俳優としての仕事である。ただし舞台ではなく、映画化された『雷雨』であった。
 
 ブルース・リー出演の映画『雷雨』を私が初めて知ったのは、2010年9月に北京で開かれた曹禺生誕100周年シンポジウムで方梓勲氏(恒生管理学院教授、元香港中文大学教授)の報告を聞いた時である。方氏は報告の中でこの映画の一部を紹介した。方氏に映像資料の入手方法を尋ねたところ、まもなく香港では市販されているDVDが方氏から届けられた。後に、日本国内でもインターネット通信販売で入手可能であることがわかった。インターネット動画サイトでも、この映画の断片をみることができる。
 この映画版『雷雨』は1957年3月香港公開の広東語映画で、まだ白黒映画である。ブルース・リーは周冲を演じている。ブルース・リーが17歳の時で、周冲の年齢設定と一致している。ブルース・リーは父親が著名な粤劇俳優だったので、幼少時からしばしば香港映画に出演していた。この1957年版『雷雨』は、子役から大人の俳優へとブルース・リーが成長する過程での重要作品として、ブルース・リー研究家の間では著名な作品らしい。しかし、曹禺、中国現代文学演劇研究者の間では知る人は少ない。たとえば、田本相・黄愛華主編『簡明曹禺詞典』(甘粛教育出版社 2000年)は『雷雨』が五回映画化されたことを記しているが、その中にこの1957年香港版『雷雨』は入っていないのだ。
 
 その後ブルース・リーが著名になると、1972年に再上映され、この時に国語版が作られた。近年も香港での回顧展などでしばしば短期上映され、DVDも発売されている。DVDは、文化生活出版社版『雷雨』単行本をバックにしたタイトルの後、なぜか配役等一覧が削られ、すぐに物語に入っていくが、香港映画情報サイト(注)によれば、ブルース・リー以外のキャストは次の通りであった。
周樸園:蘆敦、ハンイ:黄曼梨、周萍:張瑛、魯貴:呉回、侍萍:白燕、四鳳:梅綺、魯大海:李清、周朴園の父:李鵬飛、侍萍の母:李月清。呉回は監督も担当している。華僑影業公司の制作である。
 
 内容をみると、一部曹禺の原作に脚色を加えている部分もある。舞台では(序幕・尾声を別にすると)ある夏の日の午前から始まるのだが、この映画は事件の三十年前、無錫の周家から魯大海を生んだばかりの侍萍が追い出されるところから始まる。周樸園の父、侍萍の母という原作にはない人物が登場するのは、このためである。周樸園の父は侍萍の追放を命令し、侍萍の母は悲観して自殺してしまう。
 また、第三幕はじめの魯家での周冲と四鳳、魯大海との対話は、解雇された四鳳、魯大海が周家から立ち去る際のあわただしい対話に改められ、大幅にカットされている。原作では周朴園は鉱山から事件の日の一昨日に帰ってきたばかりなのだが、この映画では事件発端の次の日に帰宅することになっている。周家の庭に棕櫚が生えているのも、いかにも香港映画らしい。原作では周家は天津にあり、棕櫚の中国での北限は湖北省とされるので、原作通りなら周家の屋敷に棕櫚があるはずはないのである。
 
 しかし、全体としては、曹禺『雷雨』の内容はほぼ保たれているといってよい。私はこの映画の製作背景や香港映画史上での位置を述べるだけの知識はないが、過度の恋愛描写や恐怖感のような商業主義的要素はなく、かなりまじめに作られた文芸映画という印象は受ける。
 もちろん、不満も残る。女優陣、特に四鳳、ハンイがよくない。四鳳を演じた梅綺はこの時34歳で、舞台ならよいが映画では18歳の少女を演じるにはやはり無理がある。純情な筈が、時に妖艶さが出てしまい、役との落差を感じさせる。周冲が17歳の俳優だけに、余計にこの感が強まる。逆にハンキは古い世代の中年主婦という印象で、古さと新しさが入り交じる混沌とした雷雨のような迫力に欠ける。梅綺がハンイに回り、四鳳はもっと若い女優に演じさせたらよかったのに、と思う。
 
 これに比べると、男優はまずまずの出来であろう。周朴園は時に好人物にみえてしまう時もあるが、それなりの威厳をもった家長になっていた。張瑛の周萍は、いかにも旧時代の二枚目という顔つきだが、周萍のイメージには合致している。
 さて、肝心のブルース・リーだが、まじめな周冲を初々しく演じており、私は好感をもった。ほとんどの場面で学生服姿で登場する。ただ残念ながら、第三幕の場面が上述のように大きくカットされており、冬の朝の海を夢見るロマンチックな長台詞もなくなっている。17歳のブルース・リーにはこの長台詞を十分に表現するのは無理だと判断されたのか。この台詞は曹禺自身の当時の心情を投影したとされるだけに、この1957年香港版『雷雨』の芸術的魅力を削ぐものになっているのは否めない。
 
 この台詞削除に示されるように、この映画は『雷雨』の筋は比較的忠実に追っているものの、人物描写の深みには欠ける。やむをえないことだろうが、技法的にも古さを感じさせる。冒頭の追放され身投げする侍萍のシーンのあと25年後という字幕が出るが、周朴園と侍萍の対話では、原作通り30年となっているミスもある。ブルース・リーが出演していなかったら、たぶん忘れられた映画になっていただろう。
 しかし、私はこの17歳のブルース・リーをみて、ある感慨を持った。もし彼が早逝しなかったら、たとえば『少林寺』でブレイクしたジェット・リー(李連杰)が『海洋天堂』で障害児の父親を好演したように、ブルース・リーは一般劇映画でも名作佳作を残したのではないだろうか。この『雷雨』の周冲からは、その可能性が伺える気がする。いまさらながら、彼の早すぎる死が惜しまれる。
 
注 楽多日誌 http://blog.roodo.com/muzikland/archives/9653703.html ほか