中国シェイクスピア受容史研究へ   『中国のシェイクスピア』のページへ
 
 
 
                        『中国のシェイクスピア』あとがき
                                 瀬戸 宏
                                       
 松本工房前社長で現社長松本久木氏の父親である松本義久氏から著書刊行の依頼を受けたのは、二〇〇〇年のことであった。松本工房は、先代時代から小さいながら大阪で良質の書籍を刊行し続けている志のある出版社である。私は松本工房が一九九〇年代に発行していた演劇誌『JAMCI』(『じゃむち』)に定期寄稿していたので、松本氏とはそれ以来の交流があった。私はその頃『シアターアーツ』誌に本書序章の原型にあたる文章を書いたばかりだったので、中国シェイクスピア受容史なら書けると考え、そのように返事した。『シアターアーツ』の文章を膨らませていけば、一冊の本になる文章は書けると思ったのである。
 ところが、実際に手を付けてみるとそんな生やさしいものではないことが、すぐにわかった。中国シェイクスピア受容史の知識不足により、イメージがまったく膨らまないのである。結局執筆は頓挫してしまった。
 
 しかし、中国シェイクスピア受容史のことは、私の頭に残り続けた。いきなり全体を描こうとするのではなく、まず受容史上の重要な公演をみていこうと思い、数年おきに各章の原型になる論文を、中国文学、演劇学などの学術誌に発表していった。二〇一一年から三年間、科研費「中国シェイクスピア受容史の基礎的研究−民国期を中心に 」を獲得できたことも、研究の大きな励みとなった。科研費獲得で研究は加速し、論文は一定量に達し研究は一段落した。そこで、出版計画を立て松本久木氏に相談した。松本義久氏の依頼から私の中国シェイクスピア受容史研究は本格化したこと、かつて松本工房からの依頼に応えられなかったことが心に残っており、私は本書を松本工房から出版したかったのである。松本工房とは、私も関係している国際演劇評論家協会日本センター関西支部機関誌『Act』(『あくと』)などを通じて、ずっと交流もあった。松本久木氏には、出版を快諾していただいた。そして日本学術振興会科研費・研究成果公開促進費(学術図書)に申請したところ、幸いこちらも獲得できた。こうして、本書は世に出ることになったのである。松本義久氏の依頼から十六年が経過していた。私にとっても、日本語の単著としては『中国話劇成立史研究』(二〇〇五年)以来一一年ぶりの著書出版である。
 
 本書各章、特に第三章から第八章は、私が中国シェイクスピア受容史を考える上で重要と思われる公演を選び、時代の文脈の中でその検討を進めるという形式を取っている。これは、前著『中国話劇成立史研究』でも試みた方法である。演劇という創作・発表した瞬間から消え去っていく芸術形式を研究するに当たって、一つの有効な研究方法であると考えている。しかし、各章論文を集めただけでは中国シェイクスピア受容史の全体像が不鮮明になる可能性があるので、「中国のシェイクスピア受容略史」と題する二十枚(八千字)程度の旧稿に大幅に加筆して、本書序章とした。簡単ながら台湾・香港の受容にも触れた、各章は、獲得した科研費の性格もあり、民国期(一九四九年中国革命以前)が中心になり、中華人民共和国期はやや手薄になっている。『ハムレット』独白中国語訳文集など準備しながら最終段階で二一世紀に入って中国で予想以上にシェイクスピア翻訳が行われていることに気が付き、本書収録を断念した資料もある。本書は私の中国シェイクスピア研究の終わりではないので、中華人民共和国期さらには台湾、香港のシェイクスピア受容研究などについては、今後さらに研究を深め成果を発表していきたい。
 
 私は日本人研究者として、中国現代文学演劇研究上でいかにして中国人研究者とは異なる独自性を獲得していくか、常に考え続けてきた。これにはいろいろな立場がありうるが、私が考えたのは、日本人研究者として自国の演劇にも関心を持ち理解を深め、そこから中国現代演劇を考えていく、ということであった。この考えから、私は中国研究の学会・研究会以外にも、日本演劇学会や国際演劇評論家協会日本センターなどの演劇研究評論団体にも関わり続け、そこでも研究成果を発表してきた。近年、中国の大学から依頼を受け中国語で講演する機会も増えてきたので、いくつかは日本シェイクスピア受容史の問題を取りあげた。武漢大学芸術学系での二〇一二年の講演「多様化的莎士比亜演出在日本舞台上」(日本の舞台でのさまざまなシェイクスピア上演)、四川外国語大学での二〇一四年の講演「日本莎士比亜接受簡史」がそれで、その中国語原稿をもとに、本書附章「日本の中国シェイクスピア受容略史」を書き下ろした。序章と附章で展開した中国と日本のシェイクスピア受容史三段階区分も、日本だけ、中国だけ、ではなく、日本と中国の双方に通用する段階区分追求の試みである。
 
 本書の中で、第二章「林?のシェイクスピア観」は、他の部分とやや異なっている。清末小説研究家・樽本照雄氏との論争の産物だからである。論争の基本内容は第二章を読んでいただければわかるので、ここでは繰り返さない。論争中での私の説の当否は、読者の判断に委ねることとしたい。論争の産物であるから、他章と異なり第二章原型にあった樽本氏への敬称を本書でも省略しなかった。第二章原型以外にも、「中国文芸研究会会報」などに、私の論争文章を発表している。当初はこれらも本書に収めようかとも考えたが、中国現代文学研究界の片隅で行われた論争など中国現代文学研究圏外の人には無意味であろうと思い、その学術部分は本書第一章、第二章に吸収し、本書には収録しなかった。私の論争文章は、私の個人研究サイト「電脳龍の会」に掲載してあるので、興味のある方はそこで閲覧していただきたい。(*樽本氏との論争文章は本HP中国シェイクスピア受容史研究のページに掲載−ネット転載時の追加)
 
 私の中国シェイクスピア受容史に関する最初の文章は、一九八五年七月の「文明戯『肉券』について」(『中国文芸研究会会報』五四号)である。本書第一章第四節の原型である。単純に時間だけをみると、私の中国シェイクスピア受容史研究歴は三〇年を越えることになる。この文章は、早大大学院生時代に河竹登志夫先生の大学院授業「比較演劇研究」を受講した際提出した受講レポートが基礎になっている。いま本書各部分を読み返してみると、河竹登志夫先生の日本シェイクスピア受容史研究から強い示唆を受けていることが、自分でも理解できる。私が早大を離れてからは、河竹先生とお会いする機会は少なくなったが、著書をお送りすると、暖かい御返事をいただいた。残念ながら河竹登志夫先生は二〇一三年五月逝去された。先生がご健在のうちに本書を刊行できたら、本書の内容についてさまざまにご批判ご教示いただけたのにと、残念でならない。なお、「文明戯『肉券』について」の内容は前著『中国話劇成立史研究』にも収録しているが、その内容から本書でも省略できなかった。読者のご理解をお願いしたい。
 
 私は中国現代文学演劇研究の末席に連なっているが、シェイクスピアについてはとても専門家とは言えない。ここでいう専門家とは、まずシェイクスピア作品を英語原文で読解できる能力の保持者である。日本で中国語は解しないが中国政治、経済、文化などに発言する人はかなりいるが、これらの人は中国研究界では専門家とはみなされていない。中国語の生資料に触れない中国理解には、大きな限界があるからである。同じことは、シェイクスピアについても言えよう。関連英文研究を収集はしたが、私の研究能力の関係で十分には利用できなかったことも述べておかねばならない。シェイクスピアや英文学専門家からみれば、本書の中で疑問・不満を感じる点は多々あると思われる。研究の前進のためにも、シェイクスピア、英文学専門家の忌憚のないご批判ご教示をお願いしたい。
 
 ただ私にとって幸いなことは、上述のように日本の演劇関係学会などに参加したため、日本シェイクスピア研究家と交流しご意見をいただけたことである。一人一人のお名前はあげないが、ここで改めて厚くお礼申し上げたい。ただ、二〇一五年九月に急逝した小林かおり氏(逝去時、名古屋市立大学教授)のお名前は挙げておきたい。小林かおり氏には、その編著『日本のシェイクスピア上演研究の現在』(風媒社 二〇一〇年三月)を贈っていただいたり、中国の大学での日本シェイクスピア受容史講演に資料援助や講演内容への助言をいただいたりするなど、いろいろご援助を受けていた。それだけに小林氏の急逝は大きな驚きであった。自分より年下の友人が逝去するつらさを、改めて感じた。
 
 本書の校正については、榊原真理子氏(愛知県立大学大学院生)、黄綿史氏(一橋大学大学院生)のお世話になった。本書掲載写真の入手、掲載許可獲得には、多くの中国の友人のお世話になった。二代にわたって本書刊行を待ち続けたうえに校正作業が遅れ極めてタイトな編集作業を強いることになってしまった松本久木社長、デザイナーの納谷衣美氏にも、厚くお礼申しあげたい。最後に、好き勝手な研究生活を支えてくれている妻洋子にも、改めて感謝を捧げたい。
二〇一六年二月一一日
瀬戸宏