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                  『資料・日本現代中国学会の60年』あとがき
                                                                          瀬戸宏
*2011年4月に刊行された日本現代中国学会編 『資料・日本現代中国学会の60年』に附した「あとがき」。資料集の紹介はここ

 日本現代中国学会は、2011年5月26日創立60周年を迎える。学会の概況は、「8.学会の歴史文書」の最後に収めた「日本現代中国学会の沿革と概要」で述べたので繰り返さない。
 本資料集作成を思いつく直接の契機となったのは、2006年10月に私が学会事務局長に就任し、翌2007年それまで事務局が置かれていた東京大学教養学部中国語教室から学会資料が摂南大学瀬戸研究室宛に送られてきたことであった。いくつものダンボールに納められた未整理の資料を勤務の合間に閲覧する中で、この資料をなんとか整理し主要部分を学会の共有財産として公刊できないか、という思いが浮かんだ。現中学会では、全国大会共通論題一覧は毎号『現代中国』に掲載され、『現代中国』総目次も先人によって整理され学会ホームページに掲載されていたが(それも15号以前は欠)、それ以外の学会資料がまとめられたことはなく、学会史の詳細がわからなくなっていることも、その思いを強くさせた。事務局長として、○○先生は現中学会の役員にいつからいつまで就任していたかという類の問い合わせを時に受けることがあったが、「資料が未整理でわかりません」と答えるしかなかったのである。

 それでも、60年にわたる膨大な学会資料をまとめるには、きっかけが必要であった。事務局長任期中の終わり頃、学会創立60周年が近づいてきた。これこそ学会資料集をまとめる最高のきっかけであり、この機を逃せば学会資料整理は永遠に行われないかもしれない。私は事務局長として、学会創立60周年を機に学会資料集を整理公刊する構想を常任理事会、理事会に提起した。この構想は幸い当時の西村成雄、佐々木信彰理事長はじめ各学会役員の賛同を得て、資料集作成が理事会・総会で正式決定された。本資料集の原稿は、現中学会の財政事情や作業効率などを考慮し、瀬戸宏が単独で作成した。私自身、この機会に現中学会の歴史の全貌を確かめたいという欲求があった。

 本資料集の“目玉”は「8.学会の歴史文書」である。現中学会が、かつては社会に向けて繰り返し声明などを発表していたことは、私も知識として知ってはいたが、その具体的内容は知らないままであった。『現代中国』バックナンバーなどを閲覧する中で、こんな声明まで出していたのか、と驚くと同時に、この歴史が忘れられてしまってよいのか、という思いに強くとらわれた。「学会の歴史文書」には、現中学会の一般社会向け声明類はすべて収録した。また、学会運営関係文書も『現代中国』掲載のものは基本的に収録した。ただし、会務報告などの全文収録は膨大な量になるので省略している。
 歴史文書は、原則として無署名組織文書のみ収録した。一部の文書は末尾などに執筆者名が記されているが、これは組織文書とみなした。理事長就任あいさつなど、執筆者の個性の出た署名文書も収録すべきであったかもしれないが、著作権の問題やすでに膨大な原稿量になっていることなどから、今回は見送った。歴史文書にはコメントをつけたいものも多数あったが、事実関係に関する最小限の指摘を除いてそれは控えた。
 ただ、「現代中国学会第19回全国学術大会総会討議メモ」(1969)には一言しておきたい。文書内容の感想は人によって異なるであろうが、現中学会でこのような討議が行われたこと、その記録が文書として残されていることは、当時の現中学会役員の知的誠実さを示すものではないだろうか。
 初期の『現代中国』はガリ版刷り(油印)であった。ガリ版を知らない会員も、すでにかなりの数にのぼるのではないか。スキャナ、OCRソフトなど何の役にも立たないガリ版刷り文書を一つ一つ手動入力していると、草創期の現中学会を担った先人の情熱と苦労が心にしみた。『現代中国』は五十年代後半からはタイプ印刷になったが、やはりスキャナ類は使えず、手動入力するしかなかった。近年の『現代中国』は活版印刷で、スキャナ類により比較的容易に電子化できたが、時々想像もできない読み違いをすることがあり、こちらも神経を使った。

 こうして、2010年10月全国大会時には、原稿は基本的に完成した。四百字詰原稿用紙に単純換算すると千枚近くになった。しかし、一人で原稿作成したものを直ちに刊行するのは危険なので、学会顧問を中心に古くからの会員に印刷した原稿を送り、意見を求めた。高橋満顧問、山田敬三顧問、野村浩一顧問、村田忠禧会員から、「地方支部・部会活動一覧」などについて、貴重なご教示をいただいた。山田顧問からは、校正時にもご教示をいただいた。近藤邦康顧問からは、事務局に保存されていなかった「現代中国学会会報」コピーを送っていただいた。特に西村幸次郎元事務局長は、原稿のすべてに目を通され、人名などの誤記を詳細に指摘してくださった。また、加藤三由紀会員には、勤務先の和光大学図書館に所蔵されていた「現代中国学会報」第9号コピーを送っていただいた。
 ここで特に述べておきたいのは、学会初代事務局長である野沢豊会員に原稿をみていただけなかったことである。2009年全国大会でも元気な姿をお見かけしていたので、問い合わせ事項を添えて原稿を送ったのだが、ご返事がなかった。2010年大会前日の10月15日、思い切ってご自宅に電話してみた。電話に出られたご親族の話では、入院してもはや人と会話できる状態ではないとのことであった。その後、全国大会終了後まもなく、野沢会員の訃報に接した。
 思い返せば、この1年内に安藤彦太郎会員、儀我壮一郎会員の訃報にも接している。こうして、1950年代の学会活動を役員として直接体験している会員は、もはやいなくなった。この資料集も、多くの空白を残したまま刊行せざるを得なくなった。たとえば、1956年立命館大学で「魯迅」を共通論題として全国大会が開催されている。私の専攻からもこの大会内容に興味があるのだが、この年度は『現代中国』が刊行されておらず、共通論題題目以外は自由論題も含めてまったく大会内容が分からなくなっている。もし資料集の具体的編集をせめてもう1年早く開始していたなら、これらの空白を少しは埋めることができたかと思うと、残念でならない。今後、思いがけないところから埋もれている資料が発掘され、学会史の空白をうめることができることを祈るのみである。

 ともかく、原稿は完成し、2011年1月末に初稿が出た。校正は杉本史子会員(立命館大学講師)に依頼した。杉本会員は『現代中国』にも直接あたり、私のタイプミスなどまだ多量に残っていた誤りを詳細に指摘していただいた。過去の『現代中国』目次と収録論文で題目内容が違っている場合があることなど、杉本会員の指摘で初めて気がついた。
 このように多くの方々のご援助により、原稿初稿段階の誤りを大きく正すことができた。この場を借りて、厚くお礼申しあげたい。しかし、最初の資料集刊行でもあり、まだ見逃しているミスも多いことと思われる。全体の構成や年表についても、極力私個人の主観を出さないよう努めたつもりだが、別の考えがある会員もおられるかもしれない。誤りなどに気がついた方はぜひ事務局までご一報いただきたい。折りをみて『現代中国』『学会ニューズレター』などに訂正・正誤表を掲載し、次回の資料集刊行の機会に備えたい。
 ともあれ、こうして『資料・日本現代中国学会の60年』は世に出ていく。本資料集が現中学会、ひいては日本の現代中国研究の歴史を振り返り、その新たな発展に資するものとなることを、編集・発行責任者として強く望みたい。