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中国旅行劇団と『雷雨』
                                    瀬戸宏

*以下の文章は、一九九七年一二月一三日より一五日まで、石家荘・河北師範大学で開催された曹禺学術研討会での私の口頭発表原稿を整理したものである。発表そのものは別に論文化する予定である(注一)が、制限時間で言い終わるようまとめた口頭発表原稿もこの会報に適した分量だと思われるので、一部修正のうえ日本語化してここに発表する。
 今回の研討会は、外国人も招いた曹禺国際シンポジウムとしては、九一年の天津・南開大学、九三年の武漢大学に次いで三回目で、昨年末の曹禺没後以後初めてのものである。主催者は、中国芸術研究院、河北師範大学などである。初日が十二月十三日であるのも、この日が曹禺の命日だからである。開催校が河北師範大学なのは、曹禺が河北師範大の前身の河北女子師範で一時教職についていた関係からである。参加者は全体で70名程度、うち香港・マカオ・シンガポールおよび日本・韓国からの参加者が十数名であった。日本からの参加者は、私のほか飯塚容氏、牧陽一氏であった。今回の研討会は、学術大会・分科会のほかワークショップ(工作坊)があり、青芸・王暁鷹氏演出の『雷雨』とシンガポール・郭宝昆氏演出の『原野』ビデオ上映、演出家解説が行なわれた。なお、今回の研討会で、曹禺研究学会準備会が設立され、代表には田本相氏が選出された。
 
 一九三三年十一月成立の中国旅行劇団(以下、中旅と略記)は、中国話劇確立以後最初の職業劇団である。団長は、唐槐秋である。彼は、フランス留学中に見た旅行劇団に着想を得て、中国旅行劇団を作ったのである。三十年代の中国社会はかなり安定しており、しかも二十年代初頭に本格化した国語教育を受けた世代が話劇の観客となった時期でもあった。加えて、五四時期以来の話劇関係者の奮闘により、職業話劇団が誕生する社会的条件がすでに成立していたのである。
 もちろん、最初の職業話劇団の道は決して平坦ではなかった。彼らの上演活動は、地方伝統劇団のドサ回りと同一であり、経済条件も劣悪であった。一九三四年二月、中旅は南京で旗揚げ公演を行った。演目は、アメリカ演劇ユージン・オルター『最も安易な生き方』を翻案した《梅羅香》であった。最初の職業話劇団の旗揚げ公演が外国演劇の翻案であったことは、注意に値する。その後、彼らは北方で二十ヵ月奮闘した。ここは中旅そのものを論ずる場ではないので、詳しくは述べない。ただ、一九三五年十月十二日に中旅は天津で《雷雨》を初演したことは述べておきたい。(注1)

 中旅は一九三六年に上海に戻った。その活動状況については、申報に上演広告があり、具体的状況を知ることができる。中旅の最初の上海公演は一九三六年四月二十九日から五月十七日までで、劇場はカ−ルトン劇場(ka而登影戯院)で、演目は《茶花女》《雷雨》《梅羅香》《少nainai的扇子》《油漆未乾》《英雄与美人》《天羅地網》《復活》であった。公演終了後他の都市に公演に行き(注2)、夏に上海に戻り、九月三日から二十三日まで第二次上海公演を行なった。演目は《雷雨》《祖国》《茶花女》《復活》であった。
 中旅の初期演目のほとんどは外国小説の脚色、外国演劇の翻案であった。その中で、《雷雨》は唯一の中国人の創作劇である。当時の上演広告によれば、中旅は毎日昼夜二ステージ上演していた。だから、第一次公演は三十八ステージ、第二次公演は四十二ステージになる。その中で、《雷雨》は第一次公演では約四分の一の九ステージ、第二次公演では三分の一を越える十八ステージ演じられている。第一次、第二次とも最も多く演じられた演目は《雷雨》なのである。特に第二次公演では、九月三日から八日まで《雷雨》が連続上演されている。中旅は、この後も、何回も《雷雨》を演じている。

 この事実から、中旅は《雷雨》を演じることによってその基礎を固めることができたと言える。《雷雨》は文学史上の役割以外に、話劇上演史の上でも重要な役割を果たしたのである。
 私は中国話劇史を専攻しており、ここ数年は中国話劇史概況を執筆してきた。研究の必要上、私は申報の上演広告をよく調べたが、その過程で孤島期・淪陥期の上海の多くの劇団は《雷雨》で旗揚げしているか、《雷雨》上演でその基礎を固めたことを知った。抗戦期には、国統区・解放区・淪陥区を問わず、《雷雨》が演じられているのである。話劇がほとんどなかった香港でも、民族意識が高揚した一九三七年には《雷雨》が演じられている。
 抗戦終結後も、状況は変わらない。台湾光復後最初に演じられた大陸の作品は、外省人の劇団による《雷雨》であり、しかも大きな成功を収めたのであった。(台湾《表演芸術》三十三期、光復五十周年特集 一九九五・七)。文化大革命終結後、一九七九年五月四日の北京では、北京日報の広告によれば、プロ・アマ四つの劇団が同時に《雷雨》を演じているのである。

 私が中国話劇史を研究する中で気がついたのは、文化大革命期の中国大陸や戒厳令下の台湾など特殊な時期を除くと、中国人がいるところはどこでも《雷雨》が演じられている、ということであった。中国話劇史のカギになる時期、或いは発展期には、いつも《雷雨》が現れる、といってもよいのである。このような作品は、《雷雨》以外には存在しない。話劇史で果たした役割から言えば、どの劇作家も曹禺を越えることはできない。曹禺と並び称される老舎についても、私が知る限りでは老舎《茶館》は、ごく小規模なアマチュア公演や外国での翻訳上演を除けば、北京人芸でしか演じられていない。作品の普遍性から言えば、曹禺は老舎をはるかに上回っているのである。
 文学の角度から言えば、多くの人が曹禺の代表作は《日出》または《北京人》であり、《雷雨》ではない、と指摘している。曹禺自身も「《雷雨》は“芝居すぎる”」と述べ、不満を示している。しかし、演劇上演史の角度から言えば、曹禺の作品の中で《雷雨》が果たした役割は《日出》や《北京人》よりもずっと重要である。《雷雨》の上演回数は《日出》《北京人》をはるかに上回っているのである。なぜであろうか。現在の私はまだ明確な回答を見つけ出せていないが、現在考えているのは、《雷雨》は“芝居すぎる”が故に、上演時には観客の歓迎を受けたのではないか、ということである。この問題は、引続き考えていきたい。

 《雷雨》上演史の中で、多くの問題がまだ解決されていない。中旅上演の《雷雨》について言えば、三十年代の《雷雨》テキストは、文化生活出版社のものがあるだけであった。このテキストは極めて長い、しかも序幕と尾声がある。上演時には序幕・尾声があったのか(注二)、もし無いのなら彼らはなぜそれを削ったのか、上演時間はどの程度だったのか、テキストのどの部分を削ったのか、などの問題は今日もう分からなくなっている。中旅上演の《雷雨》舞台写真すら見つけ出されていないのである。
 これまで、曹禺研究の多くは劇文学研究であった。しかし、これからは、私たちは《雷雨》やその他の作品の上演面の研究も強めていかなければなるまい。
 
注1 洪忠煌《中国旅行劇団史話》(中国芸術研究院話劇研究所編《中国話劇史料集》第一集 一九八七年一二月)は十月十三日としているが、天津・大公報掲載の上演広告により訂正。
注2 洪忠煌《中国旅行劇団史話》に付載された中国旅行劇団年表は、一九三六年五月九日より八月九日まで「連演《雷雨》、場場客満」と記している。しかし、三六年の申報上演広告には、本文で述べたものしか発見できない。
注一 「中国旅行劇団と曹禺『雷雨』ー抗戦以前を中心に」(中文研究会「未名」17号 1999.3)[サイト転載時の注]
注二 孔慶東《従<雷雨>的演出史看<雷雨>》(《文学評論》一九九一年一期)は、中国旅行劇団『雷雨』天津公演の紹介記事に、姉、弟、尼僧など序幕・尾声特有の登場人物に関する記述がないことから、この時の『雷雨』公演には序幕・尾声はなかったと推定している。[サイト転載時の注]
(『中国文芸研究会会報』197号、1998.3.31掲載)
 
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