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イプセン『人形の家』の中国初演
                                                                          瀬戸宏

  イプセンが、十九世紀ヨーロッパを代表する劇作家であり、その影響は演劇界だけに留まらず、広く近代社会全般におよんだことはよく知られている。彼の作品、特に『人形の家』『幽霊』など中期のいわゆる社会問題劇は、一八八七年のフランス自由劇場創設に始まる自由劇場運動の重要な演目となり、演劇の芸術性重視、問題提起性、写実舞台や非商業性を中心とする近代劇を確立させることになった。イプセンは西洋だけでなく、日本・中国などアジアの近代劇確立にも決定的役割を果たした。西洋・東洋にまたがって上演面で影響を与えた劇作家は、イプセンが最初であった。日本・中国などでは、ギリシャ劇、シェイクスピア、モリエールなどイプセン以前の西洋戯曲も、その後はイプセンの作品を主な契機に生まれた近代劇の形式によって上演されることになったのである。言葉を換えれば、イプセンは最初の世界演劇であった。
 
  そのイプセンは、中国でどのように受け入れられたのか。
  この面での先駆的な研究は、一九五六年に《文芸報》十七期に発表された阿英《易卜生的作品在中国》である。阿英によれば、中国語の文章の中で最初にイプセンの名が現れるのは、一九〇七年[一九〇八年の誤り]に魯迅が《摩羅詩力説》の中で“伊孛生”の表記で紹介したのが最初である。○八年《学報》一〇期掲載の仲遙《百年来西洋学術之回顧》にも、“伊布孫”が「ノルウェー自然派の大家」として言及されているという。
  しかし、この二つは断片的な紹介に留まっていた。中国最初のある程度まとまったイプセン紹介は、一九一四年《俳優雑誌》一期掲載の陸鏡若《伊蒲生之劇》である。陸鏡若は清末の日本留学生で、帰国後新劇同志会(春柳劇場、後期春柳社)を組織し、早期話劇運動の中心人物の一人とされている。陸鏡若のこの文はイプセンの伝記や社会的評価、主要作品十一の題名と内容を簡単に紹介している。阿英は指摘していないが、これは坪内逍遙のイプセン論にもとづき陸鏡若が口述したものを馮叔鸞が筆記したものである。この《俳優雑誌》には、イプセンの写真も掲載されている。
 
  しかし、これらのイプセン論は、同時代の中国にはほとんど影響を与えなかった。それを端的に示しているのは、“伊孛生”などの表記がその後消えてしまったことである。中国の本格的なイプセン紹介は、やはり一九一八年六月発行の《新青年》四巻六号「イプセン特集」(易卜生専号)であろう。これ以後の中国で、“易卜生”という表記が定着してしまったことからも、その影響力を知ることができよう。
  しかし、《新青年》に“易卜生”の名が現れるのは、これが初めてではない。一巻三号(一九一五・十一)掲載の陳独秀《現代欧州文芸史譚》は、すでにイプセンを簡単に紹介していた。注意したいのは、この文の中でトルストイ、ゾラなどが漢字表記だけなのに対して、易卜生には Heurikママ Ibsen と英語表記が附されていることである。易卜生という表記が当時の読者になじみのないものであったことがわかる。陳独秀のこの文が、易卜生の初出であった可能性が強い。
 
  それでは、舞台でのイプセン初演はいつか。阿英の先の文は、陸鏡若が同じ頃に春柳社で《玩偶之家》を上演したと述べている。阿英の権威のためか、《中国大百科全書・外国文学》イプセンの項などその後の中国文献には、一九一四年に春柳社が『人形の家』を上演したと書いているものがいくつかある。しかし、私はかつて一九一四年四月の春柳劇場開場から翌年の崩壊まで、春柳社の上海での全演目を新聞広告で調べたことがあるが、《玩偶之家》またはそれに類する演目は見あたらなかった。阿英が何を根拠としたのか現在ではわからないが、あるいは彼は、陸鏡若がイプセンの戯曲を翻訳していた、と記した欧陽予倩《自我演戯以来》の記述を誤解したのかもしれない。
 
  現時点では、イプセンの中国初演は一九二三年五月五日に北京・新明劇場で行われた北京女子高等師範学校学生『人形の家』とされている。この公演の状況を、晨報の記事などで確認することにしよう。
  五月一日付晨報には、「世界名劇まもなく上演」と題する記事があり、北京女子高等師範学生の公演を北京市民に告げている。「イプセン劇『傀儡家庭』は潘家洵君の訳で国語となって以後、(『ノーラ』と改名)(注1)今日まで三年、これまで上演する者は誰もいなかった。」その大作を、女子高等師範理化系学生が新式の劇場である新明劇場落成を機に上演することにしたのである。新明劇場は前門外香廠路にあり、演劇評論や劇作もおこなった開明的な国会議員の蒲伯英が建てた劇場で、五月一日に開場したばかりだった。蒲伯英は、中国最初の現代的演劇学校の人芸戯劇専門学校(人芸劇専)校長でもあり、その学生たちの発表の場も兼ねてこの劇場を建設した。女高師学生たちは、週末の五日、六日にこの劇場を借りて『人形の家』(五日、土曜日)およびポーランド劇『多情英雄』(六日、日曜日)を上演する遊芸会を企画したのである。
 
  この記事によれば、「今回、女高師遊芸会は著名な上演指導教員を特別に招いて、すでに二つの劇を一ヶ月にわたって稽古した」という。記事には明記されていないが、招かれた教師は陳大悲である。陳大悲はこの時期最も活躍していた演劇人で、人芸劇専の教務長でもあった。陳大悲はアマチュア演劇(愛美的戯劇)の熱心な提唱者で、これまでも北京のアマチュア・学生演劇をしばしば指導してきた。陳大悲は、二〇年十月の上海新舞台『ウォーレン夫人の職業』上演が西洋名作を直接上演しようとして失敗した経験などから、現時点の中国での西洋名作劇上演に否定的だったが、アマチュア演劇支援の立場からこの上演を手伝ったらしい。
  しかしながら、この中国初の『人形の家』上演は、やはり成功しなかった。
 
  この『人形の家』上演の最初の劇評は、晨報副刊(副鐫)十一日掲載の仁陀《看了女高師両天演劇以後的雑談》である。「俳優は戯曲に忠実だった。私は潘家洵君の訳本を持っていき対照して、ほぼ原文どおりであることがわかった。これは私が最も満足した点である。」不満点もあった。劇の最後でのノーラの長台詞は「憤怒の中に毅然とした冷静さが必要であるべきだと思われるが、あの日の彼女の態度は一方的な憤怒であった。」仁陀は同時に、客席が騒がしかったり第二幕が終わらないうちに途中退席する観客が多かったことなどを指摘し、当日の観客の態度に強い不満を示した。
 
  翌日の十二、十三両日にも、芳信《看了娜拉後的零砕感想》が載った。芳信は、この公演は失敗だと言い切った。彼は失敗の原因として、ノーラの夫ヘルメルに男性味が欠けているなど女性だけの上演の限界、『人形の家』のような劇は小さな空間で演じるべきであり、新明劇場のような大劇場で演じるべきではないこと、大劇場のため『人形の家』の意義を理解しない観客が多数来たこと、の三点を挙げ、「このように難しい劇を遊芸会の道具として軽々しく演じるべきではない」と結論を述べた。
  この芳信の評は、この『人形の家』公演の問題点を手際よく整理したものである。芳信は人芸劇専の学生であるが、その内容などから、これは実は校長の蒲伯英が彼の名を借りて書いたのだ、とする説が出たが、この点は今は触れない。この後も、十六日に林如稷《又一看了女高師両天演劇以後的雑談》、十七、十八日に柯一公《女高師演的『娜拉』》が出たが、基本的な問題は先の二つで尽くされている。結局、この公演は『人形の家』初演という以外には意義を持ち得ないものであり、公演の存在自体がまもなく忘れられていった。
 
  だが、公演の反響はこれで終わらなかった。評者は、途中退席した観客への怒りを一致して表現していた。たとえば、芳信は「第二幕途中で、なぜ帽子を手に持ったり、帽子をかぶったりしたのが出ていったのか。・・ノーラとヘルメルの対話の時には、残っている観客はごくわずかだった」と感情露わに記している。
  実は、この退席者の中に陳源(西N)と徐志摩という英米帰りの新進気鋭の英文学者がいたのである。芳信が書いた「帽子を手に持ったり、帽子をかぶったりしたの」は、西Nと徐志摩をあてこすったものらしかった。実際に演劇運動をしている立場からすれば、欧米帰りの高みにたって途中退場した二人が許し難いものに映ったのであろう。柯一公も名指しで徐志摩らを批判した。
  このため、二人は五月二十四日付晨報副刊に《看新劇与学時髦》(西N)、《我們看戯看的是什me? 》(徐志摩)を書いて反論せざるを得なくなった。徐志摩は、台詞がほとんど聞こえないなど演技の水準が低く、「私に『耐えられないという表情を露わにさせた』だけでなく、『帽子をかぶって』出て行かざるを得ないようにした」と述べた。
  この件はこれで終わったが、これで西N、徐志摩と演劇運動の推進者との間に感情的な溝が生じた。この感情のもつれは数ヶ月後に新たな形で爆発するのだが、それは別の機会に譲りたい(注2)。
 
注1 日本では長くノラと表記されてきたが、今日では原音に近いノーラが定着しつつある。本稿でもノーラとした。
注2 「陳大悲と人芸戯劇専門学校」(『東方学』103号、2002年1月、後に『中国話劇成立史研究』第十二章)参照。
(『中国文芸研究会会報』239号、2001年9月30日掲載)
 
 
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