ジャリテンのオープンしているページを見ての事 日記より抜粋


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[2001年4月3日 火曜日] 本日の起床:8時15分くらい
  じゃりてんのHPに最近心に傷を負った方達がたくさん来ているようです。こういう方達との接点という
のは、今まで持った事も無いし、持つとも思っていなかった。それがポン!と魔法の様に現われるのが
ネットワークの持つ可能性なのかなと思う。
もっとも、それを可能性に終わらせず、実現させたのはてんちゃんの努力に他ならない。

僕はかなり鈍感で、皆にも「口は災いの元」と言われまくった方だから、傷つきやすい人に何かを言うなんて
とんでもない事だと思うので、そこには何も書かない方が良いかなと思っている。
でも、ちゃんと読ませてもらおうかな。

僕は中学高校とはあまり友達もいなくて、楽しい生活をしていなかった様に思う。でも、特になんとか友達を
作らなくちゃ・・・と言うような方向には考えなくて、気の合う奴がいないならそれで良いや、位に考えて
いたように思う。大学に入って体を壊した時は、世の中の人から置いて行かれてしまう喪失感を感じたが、同時に
励ましや慰めの言葉を貰った。でも、この頃から自分は一人で生きて行くんだよな、という自覚を持ったように
思う。善意ある、でも特に何をしてくれる訳でもない第3者に囲まれて、それなりに幸せに暮らせるのだと。
特に理想を持つ訳でもなく、だから挫折感も無く、失う物の無い強さを得たのかなとも思う。
第3者の善意を信じられるというのは、いじめに遭った方には持てない感覚なのだろう。とても恵まれたことなの
かも知れない。助けてもらえない絶望感は第3者への失望につながってしまうのだろうから。特に何もしないけれども
”見捨てる”悪意を持った第3者が世の中にたくさんいるなんて思い始めたら、生きて行くのは辛いだろうな。

かつて親に教え込まれた話の一つ。「念仏を唱える事で救われる」という教えは、何の力も無い様に思える言葉を
信じ切る事の難しさを乗り切れといっているのだという。人の心は疑い深い。信じる事で救われるというが、容易に
何かを信じる事はできない。すこしでも裏切られたと思ったら、逆方向に向いて、憎悪にすら変ってしまう。
何度裏切られても、不幸に見舞われても、私はこれを唱える事で救われるのだと、信じて生き続ける、そういう事が
出来る人であれば、そりゃもう、必ず幸せになるよね。
だから念仏は「あいうえお」でも、なんでも良いんだと言うのが僕の理解している浄土真宗なのだ。
多分本当は間違っていると思うけど、別にそれで構わないと思っている。これも一つの開き直りだな・・・

でも、やっぱり、本当に不幸にあっている人から見たら、僕は恵まれた中でぬくぬく育っているのだろうな。
それはありがたい事だと素直に喜ばせてもらおう。


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