|
前橋城 |
|
|
|
場所 群馬県前橋市大手町 前橋は十七世紀初めころまで厩橋(まやばし)と呼ばれました。まやばし陣、まやばし衆などと戦国時代の文書には書かれています。慶安二年(1649)からは正式に前橋と改称されました。天正十八年(1590)からは平岩主計頭親吉(ひらいわかずえのかみちかよし)が前橋城主となりました。初代城主については笠間明玄や太田道灌などの名が記されていますが、「前橋風土記」では、初代城主は固山宗賢(こざんそうけん)としています。厩橋城は箕輪長野氏の境目城としてその勢力圏の東端に築かれた城で、 固山宗賢(法名)とは長野左衛門尉方業(ながのさえもんのじょうまさなり)です。厩橋城は慶長六年(1601)酒井氏第一城主重忠により近世の城郭として拡大整備されたと考えられます。城の本丸は東西七十メ-トル、南北百三十メ-トルで、南の部分の天守台は東、南、西を堀で囲み、三層の天守閣が建てられました。
前橋城天主閣推定復元図
前橋城跡の碑 残っている土塁は比高5メ-トルはあろうか、すばらしい。
ネズミ門跡にある水堀跡
県庁を中心とする周辺は前橋城の「かなめ」であった。風呂川は広瀬川から分水し、 前橋城のために造られた川である。伝説では上杉謙信の沐浴の用として掘削したもので、柳原の堤は土質が砂れきであることから、厚さ約九十センチメ-トルの粘土で樋状の水路として造ったと伝えられ、落ちると流れが速く粘土ですべるためあがれないので、命を落とすことから「人とり川」とも云われていた。風呂川はいく筋にも分水され、かっては生活用水や防火、水田等にも利用され大切な用水であった。なお、岩神町にある観民稲荷神社は、前橋城主酒井重忠が風呂川の改修にあたり守護神としてまつったのが最初といわれている。
大手門跡 現在は安田火災
幕末になると、生糸貿易で財を成した前橋の町民や領地内 の村人の協力を得て、前橋城三の曲輪を本丸とする城を 再築した。現在の群馬:県庁は、その本丸跡に立っている。
車橋門跡の基台(城内より) 右側の石垣は当時より8メ-トル左(東)へ移動してある。 前橋城の中で最も重要な門である。昭和63年に西の 基台の基部と石垣が発見され、現在日本経済新聞社 の地下に建物の設計を変更して保存されている。
訪問記 遺構としてはそれほど多くはないが、県庁北側にある子の門跡にある 土塁は見事である。又上に掲載してある風呂川の土塁は良く整備されていて、 見事である。
|
---|