前橋城
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厩橋城(まやばしじょう)
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西暦 |
年号 |
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中世
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平安時代
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1、086 |
応徳 3
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院政始まる。 |
1、185 |
文治 1
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屋島の戦い。壇ノ浦の戦い。安徳天皇入京。平氏滅ぶ。 | ||
鎌倉時代
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1、192 |
建久 3
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源頼朝、征夷大将軍となる。鎌倉幕府を開く。上野国へ鎌倉幕府の御家人、安達氏入国。 安達盛長-景盛-義景-景村 -泰盛-宗景 -女子(北条時宗の母) | |
1、285 |
弘安 7
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北条時宗(34)死亡。安達泰盛の一族、北条氏の御内人(得宗被官)中の権勢者平頼綱と争い滅ぶ。北条氏の支配。
(霜月騒動) | ||
室町時代
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1、333 |
元弘 3 |
新田義貞、北条氏討伐の兵を挙げる。 足利尊氏、六波羅を陥れる。 法然上人の浄土宗が広まる。(南無阿弥陀仏) | |
1,335 |
建武 2
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足利尊氏、直義兄弟の母清子の兄である上杉憲房が関東支配の重要な一翼として上野守護に任命される。 上杉憲房、建武3年正月、京都の四条の合戦で戦死。 | ||
1,336 |
建武 3 延元 1 |
足利尊氏入洛。ついで鎮西にはしる。 湊川の戦い、楠正成(43)戦死。後醍醐天皇、吉野に還幸。 上野国府の地に守護代の長尾氏が入る。 | ||
1、338 |
暦応 1
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足利尊氏、征夷大将軍となる。 北条高時(31)自殺。鎌倉幕府滅ぶ。 | ||
1、351 |
観応 2
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足利尊氏、直義兄弟の争い激しくなり(観応の擾乱)。 上野国では、直義方の有力者、上杉憲顕と尊氏方の宇都宮氏綱、畠山国清の対立となり、観応2年の暮に駿河の薩すい山合戦で激しく戦い、 尊氏の勝利となり、直義は捕らえられ翌春に鎌倉で殺される。 その後、直義方の上杉憲顕は南朝方の新田義興、義治と結んで蜂起し戦った(武蔵野合戦)が、敗北し越後に逃れた。上杉なきあと、 上野国の守護は宇都宮氏で守護代は芳賀伊賀守高貞である。 | ||
1、361
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康安 1
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上杉憲顕、ふたたび上野国の守護となる。応永元年、憲顕病死。 | ||
1、410
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応永17
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総社長尾氏の憲明及び瀬下成忠のために梵鐘が作られ群馬町引間の妙見寺に奉納される。 | ||
1、427
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応永27
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古利根川が大洪水により変流、ほぼ現在に近い位置になる。 | ||
1、429
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永享 1
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長尾景行蒼海城を築城。 | ||
1、489
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延徳 1
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固山宗賢(長野左右衛門尉方業(まさなり)、厩橋城を築城(前橋風土記)。 政治的、軍事的に総社長尾氏から厩橋長野氏に勢力移行。 |
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1、560
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永禄 3 |
上杉輝虎(後の上杉謙信)、関東に進出。関東管領、上野守護上杉氏、勢力を失いながらも、依然として残存。 総社、白井、足利の三長尾氏と、新興勢力である由良(横瀬)、長野氏等が対抗しながらも、相模から武蔵にかけて進出しつつある 大勢力(後北条氏)の脅威のまえにはル-ズな共同戦線をはらさるをえない。上杉輝虎(後の上杉謙信)は最後の関東管領上杉憲政の要請をうけて、 大軍を率いて三国街道を南下して関東に出て、上杉の名跡を嗣いで上杉政虎となり、上野を中心にした北関東の諸士を服従させる。 以来、天正6年(1,575)に死去するまでの18年間に、三国峠を越えて関東に進出する事10数回、関東在陣中に越年することしばしばに及んだ。 このうち厩橋で越年したと思われるのは、永禄3年同4年ごろである。この間に沼田(倉内)に松本景繁等、厩橋に北条(きたじょうょう)高広を常駐させ、 関東経営の基軸に据えた。 |
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1、563
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永禄 6
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武田信玄、箕輪城を落とし、次いで蒼海城を攻略し、謙信と厩橋城と利根川を挟んで対峙する。 六供町から天川原一帯の人家は北条、武田軍に焼かれ城の周辺は焦土と化した。 |
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1、567
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永禄10
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上杉謙信、厩橋城に在城。10月6日、北条家軍勢三万五千余人、武田家軍勢二万余人、都合五万五千余人厩橋城に押し寄せ市町に火を放し、 城を十重二十重に取り巻き一息に攻め潰さんと攻める。謙信軍少しも怯まず防戦す。寄せ手は城門を破らんとせしところ、信玄氏康の両將何を思ったか、 早々人数を引き上げる。そして軍勢利根川を渡る頃大風起きて竹木を折、砂飛ばす、白日暗夜のごとし。 野条愛助編著 より。群馬県史、甲陽軍艦、 上毛伝説雑記拾遺、にも同様な事が書かれている。 |
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1、578
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天正 6
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上杉謙信死亡。上杉家に内紛が起こり、北条高広は一時後北条方や武田方に属し、厩橋は武田方の支配となった。 | ||
安土桃山時代
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1、582
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天正10
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武田氏、織田信長に滅ぼされる(勝頼37才自殺)。厩橋城に滝川一益入城する。 織田信長、明智光秀の謀反により本能寺で自殺(49才)。 滝川一益、神流川にて後北条氏と戦う。敗走。厩橋城は後北条氏の直支配となる。 |
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1,590
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天正18
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豊臣秀吉、小田原城を攻める。鉢形城の北条氏邦はこの地方一帯を守備していたが松井田城が落ちると上野の諸城は雪崩のように落ち、厩橋城も石倉城、蒼海城とともに前田利家の率いる豊臣方に降り、天正18年7月5日小田原方は豊臣方に降伏した。秀吉は徳川家康に関東を与え、厩橋城には旗本16人衆の一人、平岩親吉が入城し、以後10年間在城する。 |
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近世
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1,600
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慶長 5
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関ヶ原の戦い。 論功行賞により徳川家康の地盤固まる。 |
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1,601
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慶長 6
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厩橋城主平岩親吉は甲府城代となり、徳川氏譜代の重臣酒井重忠三万三千石にて城主となる。(在任年数16年.4ケ月)。 酒井氏の菩提寺の龍海院は厩橋城祉の北にあり、酒井氏に従い、西尾(愛知県)、川越(埼玉県)そして厩橋と移った。 | ||
江戸時代
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1,603
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慶長 8
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徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
秀忠の長女千姫を秀頼の妻とす。 |
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1,615
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元和 1
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1,605年,秀忠征夷大将軍となる。 大坂夏の陣。 秀頼(23)、淀君(49)自殺し、豊臣氏滅ぶ。 |
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1,616
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元和 2
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徳川家康75才、本多正信79才にて死す。 |
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1,617
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元和 3
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酒井忠世(ただよ)厩橋城の二代目城主となる。(在任年数18年.8ケ月)。雅楽頭(うたのかみ)。老中。15万2,500石。 |
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1,635
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寛永12
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参勤交代制の確立。 | ||
1,636
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寛永13
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酒井忠行(ただゆき)厩橋城の三代目城主となる。(在任年数6ケ月)。老中。15万2,500石。 | ||
1,637
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寛永14
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酒井忠清(ただきよ)厩橋城の四代目城主となる。(在任年数44年.1ケ月)。大老。15万石。 | ||
1,649
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慶安 2
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厩橋城(まやばしじょう)を正式に前橋城と改称する。 |
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1,651
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慶安 4
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徳川家光48才にて死す。家綱、征夷大将軍となる。 | ||
1,657
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明暦 3
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江戸明暦の大火。江戸城本丸焼失。(翌年再建) | ||
1,680
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延宝 8
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徳川家綱40才にて死す。綱吉、征夷大将軍となる。 |
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1,681
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延宝 9
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酒井忠明(ただあき)、後の忠挙(ただたか)前橋城の五代目城主となる。(在任年数26年.8ケ月)。老中主座。15万石。 城下町の整備に力を注ぐ。 | ||
1,687
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貞享 4
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綱吉、生類(しょうるい)憐れみの令発布。 | ||
1,707
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宝永 4
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酒井忠見(ただみ)前橋城の六代目城主となる。(在任年数 2ケ月)。帝鑑間詰(ていかんのつめ)。15万石。 |
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1,708
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宝永 5
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酒井親愛(ちかよし)前橋城の七代目城主となる。(在任年数 12年2ケ月)。 | ||
1,709
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宝永 6
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徳川綱吉64才にて死す。生類(しょうるい)憐れみの令廃止。3,800人恩赦。徳川家宣、征夷大将軍となる。 | ||
1,709
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正徳 2
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徳川家継,征夷大将軍となる。 | ||
1,716
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享保 1
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徳川吉宗,征夷大将軍となる。 | ||
1,720
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享保 5
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酒井親本(ちかもと)前橋城の八代目城主となる。(在任年数 11年1ケ月)。 | ||
1,731
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享保16
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酒井忠恭(ただすみ)前橋城の九代目城主となる。(在任年数 17年2ケ月)。老中主座。15万石。 | ||
1,745
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延享 2
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徳川家重,征夷大将軍となる。 | ||
1,749
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寛延 2
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酒井忠恭(ただすみ)前橋城から姫路へ移り、松平氏入城。 | ||
1,767
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明和 4
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四月、前橋柳町より出火、堅町(現千代田町)、桑町(現千代田町)、本町、連雀町(現本町)など、500軒と町屋の大半が焼失。 この年,松平氏は川越へ移り、前橋城は廃城となる。 |
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1,783
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天明 3
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浅間山の大噴火。天明の大飢饉、奥羽より全国に及ぶ. 生活苦に追われた人々は町屋の富豪や米屋などを襲い乱入 を繰り返す。 |
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1,863
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文久 3
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前橋城の再築始まる。献金は荒井久七ら96人から約一万両、有力農民や有力商人などの献金も入れて総額七万五千両にのぼる。 |
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1,867
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慶応 3
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前橋城に松平氏が再び入城。藩士の屋敷も140軒も出来,再び城下町として昔の姿を取り戻す。 | ||