くうをつかむ。 日日のきれはし。 ダンス情報 WORKS1999〜2001

走りながらおもうこと「題詠マラソン2003」参加日記


題詠マラソン2003に投稿した短歌と、走りつつ思ったことのメモノートです。
結社にも所属せず、ろくに歌歴も積んでないのに、去年からダンスにのめって短歌とすっかり疎遠な
わたしは何と無謀にも!言葉方面の体力をつけたい一心で、このマラソンに参加してしまいました。
ダンスとの両立、言葉とからだの良好な循環回路構築をめざして、ちんたらと走ります。
ということで、11月20日、無事100首完走しました。
完走後のわたしときたらすっかり惚けきってしまい、
忙しいようでぢつは何もしてないような師走をぐるぐるしているうちに、
題詠マラソン2003が本になるとか、
またひきつづき2004年度も題詠マラソンが開催されるとか、
もうすっかり
世界はGO NEXT!
なのでした。

ということで、

● ● ●

††† 題詠マラソン2004 †††
 

「題詠マラソン2004」は、参加者全員が、1つのお題につき1首、
合計100首の歌を、1年間かけて詠んでいくという催しです。

【日程】
2月1日(日)〜2月29日(日)正午:参加受付、お題決定
3月1日(月)〜10月31日(日):参加者による100首題詠
11月1日(月)〜11月30日(火):感想・反省会

【場所】
参加受付と題詠は、本会場にて行いますが、
1月中にご質問等がある場合は、給水所までお願いします。
(給水所での参加申し込みは、受付けていませんので、2月1日までお待ちくださいね)

【参加資格】
特にありませんが、強いていえば、100首完走をめざす意気込みのある方。
昨日短歌を始めたばかりという方でも、自由にご参加いただけます。
昨年、惜しくも完走できなかった方のリベンジ(?)参加も大歓迎です。
なお、参加申し込みの先着20名様には、お題の決定権(決定義務)が与えられますので、
お題を決めたい方はお早めに、そうでない方は21番目以降に参加申し込みをお願いします。

● ● ●


2004年1月29日(木) せめてもうひと皮。

そんなこんなでひと月空いてしまいました。
どうも最近夜起きていられず、12時前にはまぶたが重たくなってしまう日々です。
仕事と家事しかできないことに苛つきつつ、睡魔には全面降伏。
なんだかバランスとれてません。
ぶつかったりひっかかったりぶちまけたりかたまったりしてます。冬の乾いた青空の下。

2004年の1月はだいたいこんな感じでした。

1/1  誕生日。実家に帰ったら、去年は首もすわっていなかった姪が立って歩いていた。
1/2  深夜、地名をしりとりしながら日本中を放浪する(目的地はあるのだが、全然たどりつけない)お笑い芸人の番組についハマる。
1/3  昔すりきれるほど読んだエラリー・クィーンの『Yの悲劇』をまた読む。
1/4  松本清張の『砂の器』上・下巻を一気読みする。
1/5  年賀状を書く。
1/6  仕事始め。都筑道夫『猫の舌に釘を打て/三重露出』を読む。喉が痛い。
1/7  菅原雅雪『暁星記』4巻を読む。だんだんへヴィになってゆく。小学3年生はわかって読んでいるのか?
1/8  銀座の伊東屋でベージュの布の小さな手提げを買う。
1/11  今年初の麻婆豆腐を作る。ちょっと辛くし過ぎた。
1/12  「人体の不思議展」を観にゆく。「本物の人体標本」と「死体」との乖離ぐあいに混乱する。
1/15  ユニクロでルームシューズを買う。
1/17  この冬はじめての雪。
1/18  「仮面ライダー555」最終回。たっくんは死んだのか?
1/19  今年初めての小学校での本の読み聞かせで『スーホの白い馬』 を読む。
1/22  新月。
1/23  藤枝静男『悲しいだけ/欣求浄土』を読む。『一家団欒』に笑い泣く。
1/25  今年初の餃子を作る。家族3人それぞれ10個以上食う。
1/27  すごくへこむ。ピンク・フロイドの『アトム・ハート・マザー』を聴きつつ眠る。
1/28  とても美味しいサンドイッチを食べてしあわせ。
1/29  夕方空を見上げれば頭上に半月。藤枝静男『田紳有楽/空気頭』を読む。しばらくカレーは食えん・・・

でもって、題詠マラソン2003をきっかけに作ったこのHP、
来月で1年になります。
最初はマラソンをしながら思うことを書いていければと作ったのですが、
そのうちダンスのこととかも書くようになって、
ほとんどまるっきり普通の日記になっちまって、
って、何よりもう2004年なんで、
ここはもう区切って、新しく違うページを開こうかと思ってます。
短歌もダンスもまだまだ先はわからないし、
めげたりへこんだりばかりですが、
せめてもうひと皮剥けたいと思う今日この頃なのでした。
ということで、今年もひとつよろしく(笑)。


2003年12月30日(火) そして年末。

昨日はC.I.co.の「大蒟蒻とエンペラ」で躍り納め。
無法者の小学三年生を連れていったけど、主催者参加者の皆さまのあたたかいお心に支えられ、
いつもにまして自分中心に世界を回す小学三年生。
子どもだからって何でも許されると思うなよな。
ちょっと来年は考えないとな。
来年に。

もう今日は帰省の準備をしなくてはならず、
なにもかもギリギリになってからあわてだし、
(毎年のことさ)
ひらきなおって投げたりして、
(毎年のことさ)
結局ろくに大掃除もしないままである。
(毎年のことさ)
年賀状だって書いてないし。
(毎年のことさ)

はあ・・・

ちょっと来年は考えないとな。
来年に。


2003年12月20日(土) 見当違いなことばかり。

それにしてもあっという間に誕生日まであと約10日となってしまいました。
吹き荒れる冷たい風、よく磨かれた金属のような青空と、乾きに乾く大気。
典型的な関東太平洋側の冬です。
静電気の季節です。
ドアノブやロッカーにうかつに触れると静電気ショックが走ります。
特に今年はOA機器やスチール製のモノに囲まれているので、いつもにまして帯電しそう・・・
気休めに静電気ショック防止用のブレスレットなどつけてみました。
毎年この季節になるとこの手のものを見かけますが、効果あるのかしら・・・
と思いつつ、2本買って2本つけているわたし。

今週はちょっと疲れがたまっていて、
夕ごはんなどちょっと手を抜こうかと考えて、
そうだ、精進揚げにすれば、野菜切って衣つけて揚げるだけじゃん、と思って作り出したら、
材料の量の目測を誤って、大量の揚げ物をしなくてはならなくなってしまい、
かえって疲れてしまったりとか、
冷蔵庫にごはんがたくさん残っていて、
チャーハンとかさっさと作って食べられるものにすればいいものを、
ドリアが食べたい、と思い込んでしまい、
妙にこだわってホワイトソースづくりから始めてしまったりとか、
何だか見当違いなことばかりしているような日々です。

そういえば、題詠マラソン2003、
先月末をもちまして、無事終了しました。
最終的に完走者は121名。
そしてそして、
参加者でもある邑書林の島田牙城さんの企画で、
なんと本に!なるのだそうです。
うれしいのはやまやまだけど、
選歌に悩んでます。うー。

今月、山田風太郎の『戦中派不戦日記』(講談社文庫)をやっと最後まで読んだ勢いで、
(なぜか読み進むことができなくて、ずっと放ったらかしだったのだ)
『戦中派焼け跡日記』(小学館)を一気読みし、
今は井伏鱒二の『黒い雨』(新潮文庫)を読んでます。
なぜか戦争に関連したものばかりだけど、
自分では、今なら読めそうな気がするのでここぞとばかりに読んでたりするのでした。
現在の情勢とも関係があるといえばあるのかもしれません。
振り返ってみると、今年はあんまり本を読んでないですね。
去年の半分程度しか読んでない。
特に小説を読んでない。
というか、小説はほとんどミステリというかほとんど鮎川哲也さんばかり。
それも創元推理文庫から発刊中の『三番館シリーズ』だけ。
あと都筑道夫さんの『退職刑事シリーズ』とかね。
そういえば、都筑さんも先月亡くなられたと聞きました。
ショートショートでは星新一さんに続く書き手で、中学の頃よく読んでいたけど、
その頃はミステリの作品まで目が向かなかったんだよね。
最近ミステリの方も読む機会があって、またあたらしい魅力を発見したような
気持ちでいたので、ちょっとショックでした。
しかし、世の中のベストセラーに思いっきり背を向けているなー。
本屋を辞めてから、ますますその傾向が。


2003年12月11日(木) 師走ですから。

師走だよ師走。
誕生日まですでにひと月きりました。ぎゃー。
ずいぶん更新もせずにいましたが、
まあ体調が悪かったのと、先月終わり頃から新しくアルバイトを始めたというのとで、
なかなかパソコンに向かう暇と気力がなかったのでした。
もうお金もないし(切実)、
とりあえず人前で踊る予定もないし(しょぼ)、
やりたいことをやれる時間は最低確保した上で、
とりあえず、
週5日真面目に働いてます。
ええ、それはもう。
子どもの学校の個人面談まで忘れてしまうくらいに(おいおい)。
しかし働き出したのはいいけど、働き出したらそれはそれでお金を使ってしまってますね。
靴買ったり(だってスニーカーしか持ってなくて、さすがにオフィス、ってとこには履いていけない)、
鞄買ったり(だって唯一まともなバッグ、もう10年使っていたけど、とうとう持ち手がとれた)、
毎日ミネラルウォーター買ってるし
(すごく乾燥している職場なのでこまめに水分補給しないと血がどろどろになりそう)。
日々のお昼代もなかなかバカになりません。
ううむ。
外に出ると誘惑が多いし。
ううむ。
帰ってくるとビール飲みたくなるし。
ううむ。
刺激される物欲。
いえ、基本的にはつつましい日々を送ってます、もちろん。
師走ですから。
そんなこんなで。
またあした。


2003年11月20日(木) I got it!

いったいいつまでつづくのだろうこのふらふら状態。
もはや本番も終わってしまったので、テンションもとっくに去っており、
集中力が散漫でいいことなし。
家人に言わせると、わたしは毎年この時期具合が悪く、げほげほしているらしい。
そういえば今日、セッションハウスで大樹さんのクラスが終わった後、
月曜日倒れそうになったことを大樹さんに話したら、
大樹さんにまで「更年期障害じゃない?」と言われてしまった。がーん。
でも、彼もたまにそういうことがあるらしく、
うぇるかむ・とぅ・更年期障害!とか祝福されて
まったくうれしくないわたしであった(そりゃあタメ年だけどさあ)。
だいたい女性の更年期障害って、閉経後にやってくるんじゃないの?
さすがにまだそこまではいってないんですけどもー。


題詠マラソン、本日をもって完走しました!!!!
いやー、思えば長かったです。
夏など、なかなか詠めなくて、やっぱり踊りながら歌を詠むのはできないのかな、
とか思ったりしましたが、10月11月と本番が続いていた時に歌を作ってないと落ち着かない自分がいて、
歌を作るということが体質になりつつある、ということがうれしかったです。
ひさしぶりに言葉をからだにひきよせて、くぐらせることをして、
いったいどこから何がやってくるのか、まったく見当がつかない時の、
あのなんともいえない不安、
自分でも予測しなかったものが突然姿を顕わした時の、
つきぬけるような快感、
これってダンスだよなあと思う瞬間が何回もありました。
100首詠む前と詠んだ後では、自分の中で全然何かが違っている。そんな気がしています。
今自分が立っている場所をまたあたらしい出発点として、またはじめていく。
わたしの短歌もダンスも、ここがゼロなんだな。

《傷》      「いい子なら愛してあげる」ふぞろいの傷んだ苺にしみゆく砂糖

《かさかさ》    かさかさと頭蓋の中で音がする朽ちた言葉を踏んでゆくひと

《短歌》      またひとつ拙い短歌(うた)を瓶に詰め海にあずけて朝焼けを待つ


2003年11月19日(水) ながびいてます。

先週末、体調回復したかと思ったら、また風邪がぶりかえってしまい、
喉の痛みと微熱、そしてその後咳と鼻水がどうにもとまらない状態。
月曜、ダンスのクラスに行った帰りの電車の中で、いきなり具合が悪くなり、倒れそうになった。
立っていると急にイヤな感じの脂汗が出てきて、呼吸が苦しくなり、吐き気まで。
なんとか深呼吸しつつ耐えていたけど、そのうち耳鳴りがして、視界がかすみだして、
ああもう倒れる、と思った時、近くの人が気づいてくれて、席に座らせてくれた。
座っていると少し楽になって、なんとか最寄り駅で降りることができ、無事帰宅してほっとする。
しかし、こんなこと人生初めてで、本当にびっくりしたし、パニックになるかと思ったですよ。
ちなみに夜、このことを家人に話したら「更年期障害じゃないの?」と言われ、
思わず首をしめてやりたくなったわたしであった。

題詠マラソン、2首アップ。
いやー、ゴールが近づくにつれ、くるしくなってきましたな。ぜえぜえ。

《石鹸》     一日の贖罪を終え石鹸はしろく冷えゆく、夜半の浴室

《支》      雨だから傘を支えているのですじぶんがだれかおぼえてなくても


2003年11月14日(金) 石榴、割れたり。

体調が悪く、ダウン中。
やはり先週の無理がたたったか。つーか寝不足。あうー。いかんなり。

題詠マラソン、3首アップ。あと5首かあ。うーん。
満ちてゆく、は、満ちてくる、ですね。あーあ。まーたやっちまっただよ。

《恋》      ぬばたまの蜜にとぷりと葛切をくぐらせながら思いだす恋

《時》      独房の闇に鼓動を数えつつ元時計工T.O、ねむれ

《満ちる》    疑いもなく満ちてゆく裡からの力に負けて石榴、割れたり。


2003年11月9日(日) 自分を知るということ。

シアター21・フェスvol.42(2日め)、本番。
生まれて初めて、舞台上で、お客さんの前で、バナナ食べました。
美味しゅうございました(笑)。
起こしたことにくらべて起こせなかったこと、
拾えたことにくらべて拾えなかったこと、
質的にも量的にもまったく未熟で、
全然満足なんてしちゃいないので、
ここを出発点にまた新しく始めないとね。
「育ての親」企画じたいは去年の6月から始まって、
1年以上WSとショーイングをして、
今回初めて外に向けてのパフォーマンスに挑戦したわけですが、
いま考えたらすごく思い上がってましたね。
全然自分はたいしたことできちゃいないのに、
できる気になっていた。
自分より経験も能力も豊富な人たちと一緒に踊ることは
それはそれで大事なことですが、
全体としていいパフォーマンスができたとしても、
それを自分の力と錯覚して自惚れていたら、
ただの愚か者ですから。
本当に自分ができることはどの程度の事でしかないのか、
それを身にしみて知ることができて、よかったと思います。
(つづく?)


2003年11月7日(金) たのしい微熱。

あいかわらず微熱。夜、最後のリハ。
微熱状態で動くことにすっかり慣れてしまった感じなので、
もういっそこの微熱のままで本番を迎えた方が
楽しいことになるかも、などとこれまた微熱を帯びた頭で考える。
口よりも雄弁なからだでありたい・・・と切におもう。

日付変わって、題詠マラソン、2首アップ。

《煙》      よじれつつ風にほどけるマルボロの煙のかなた 言葉がきえる

《人形》     テーブルの下のゆうぐれ人形の髪切りきざむ遊びはじまる


2003年11月6日(木) 見せる側として。

夜、シアター21・フェスのスタッフ下見@セッションハウス。
ぢつは子ども祭りの翌日から風邪をひいたらしく、ずっと微熱が続いている。
動くには特に支障はないのだけど、動き終わったとたん、どっと来る。
20分のグループインプロ。
セッションハウスでは振付作品を踊ったことはあっても即興では初めて・・・
てなことは言い訳にはならず、
振付だろうが即興だろうが、
要するに、パフォーマンスとして、ダメなものはダメ!
でしかない。観てる側にとってはそういうことだ。
見せる側としての自分のありかたを猛烈に反省しつつ、帰路につく。


2003年11月3日(月) 割り箸を持て。

小雨が降ったりやんだりの寒い天気。
今日は地元の子ども祭りの手伝い。
学童保育所と地域の交流、といううたい文句で、毎年秋に開催されるもの。
各学童や地元団体による遊びのスペースやデモンストレーション、
保護者たちによる模擬店、など。
そういうわけで、今日はわたあめの鬼!でした。
たえず指先で割り箸を回転させながら、
あの機械の真ん中から出てくるわたあめの雲を無駄なく割り箸に巻き付けて、
まあるくなるように作ってゆくのですが、
これがなかなかムズカシイ。
わたあめの雲の動きをうまく見きわめることがコツのようです。
それにしても、1本50円ということもあって、子どもには大人気。
ずっと行列が続いてました。
おかげで、夜ねむるとき目を閉じると、
目の前でわたあめの雲がまだぐるぐるぐるぐる・・・・
わあああ。割り箸を持てえ。


2003年11月1日(土) 毛糸玉ころころ。

オルゾーダンス@大倉山記念館、本番。
朝方、雨が降っていたが、出かける頃には上がっていて、ほっ。
大倉山には12時頃到着。地面は生乾き、という感じで、
とりあえず濡れることはなさそう。
佐藤里緒ちゃんと久々の再会。
去年の3月のコントンカオス以来である。
オトギノマキコさんは、この前の「川下り」を観に来て下さった時に
初めてお会いした方。
音を出して下さる星衛さんは、お噂はかねがねうかがっていたけれど、
やはりお会いするのは初めて。
フジソノぱんち嬢はカジュアルな着物姿で登場。
それぞれ準備を終えて、予定通り13時から即興パフォーマンス開始。
大倉山記念館は昭和7年に建てられた西洋風の白亜の建物で、
アクティングエリアとなる玄関前のスペースは、こんな感じ
石造りの階段と6本並んだギリシャ風の円柱が素敵。
毎年恒例の秋の芸術祭の期間中ということで、中ではコンサートや美術展などが催されており、
玄関ということで当然人の出入りがかなり激しい。
人が行き来する空間、ということを意識して今回は踊ってみたいとたくらみ、
小道具に赤と白の毛糸玉を用意して、階段の上からころころっと転がして、
いろいろできるといいなー、とか漠然と考えていたけれど。
まあ、たくらみというものは、往々にして予想外のところへころころっと転がっていくものですね。
それが即興の面白みでもあるのですが。
この、いろんなものが通過してゆく空間の中、
見たり見られたり、行き来したりされたり、
星さんの奏でる笛やチェロの音色、鳥の声、木のざわめき、人のお喋り、子どもの歓声、
異質なものやことがみんな、いま共にある、起こっている、ということが、すごくおもしろくて、
(それはどんどんひろがってゆく・・・)
それをわたしのからだがちゃんと掬いあげて表出できていたかどうかは謎ですが、
ああ、こういうダンスもありうるんだなあとひさしぶりに実感できたのが、うれしかった。
このうれしさを共有できたらもっといいのにね。
ただただ感謝!


2003年10月31日(金) なみだとあせとよだれ。

ここ数日あたたかくて。
でもまた宮城で震度4。
こちらも少し揺れた。

明日の大倉山にそなえて、小道具の準備。


泣いてしまうのは、できなかった自分に腹を立てているからだよね。
そんなに自分を責めなくてもいいのに。
でも、それもまた人生経験。
なみだとあせとよだれはおしみなくながしなさい。
と、はははおもうのであった。

日付変わって題詠マラソン、3首アップ。あと10首。
ここまで来たか、と思うけど、
うーん、やっぱりまだ完走するまでよろこべないわたし。

《象》      ちらばったまーぶるちょこを象が踏み潰シテナニヲワスレタンダロウ

《開く》     青空へきりんの耳は開きゆく風に裂かれる落葉松のこえ

《ぶつかる》   自転車のベルを鳴らせばりんりんと冬のひかりにぶつかって、虹


2003年10月30日(木) からだを信じること。

ひさびさの松本大樹さんのテクニッククラス@セッションハウスに参加。
ある運動を起こすための体の使い方を丁寧に教えてくれる、コンテンポラリーダンスのクラス。
最初のウォームアップ以外はすべてフロアから高い体勢の動きばかりなので、
すぐ寝技フロアごろごろパターンに逃げてしまうわたしにとっては、
自分の体に挑戦(まあ大袈裟)、って感じである。
13日の「川下り」も観に来て下さっていて、クラスの後その話になり、
三浦香織ちゃんも交えて3人でお茶しつつよもやまダンス話。
ダンス作品を作るときって、やっぱりかなり自分の思い入れが激しくなってしまって、
もちろんそれは作る上でとても大事なことなのだけど、
作品として見せるときには、そういう思い入れから少し手を離してやらないと
観ている人が共有できない、ということが、ようやく腑に落ちてきた気分。
何も考えないで動く、ってことだって、そんなに軽々しく、簡単なことではないということも。
からだを信じてまかせてしまうのは、結構不安を伴うことで、なかなかできることではない。
またそれは動いたら動きっぱなし、ってことでもないし、
自分のやっていることが意識できなくていい、ってことではない。

からだに記憶させること、筋肉に記憶させることがだいじなのだと大樹さんは言う。
「あのときのコレ!」がすぐに出せるからだかどうか。

余計な思考やイメージから自由になったからだは、どんな響きを放つのだろう。
「ただ動いているだけ」の域を越えて、何かの媒体であるような、からだ。
そこに行き着きたいのかどうかは、まだよくわからないけど。
からだを信じるということを、ただのお題目だけでなく、本当に全身で感じられたなら、
絶対それはすごいことだよなー、って思う。
そして、それを信じているひとの存在は、本当に強くて、pureで、
透きとおるくらい、きれいだ。


2003年10月29日(水) ものじゃなく、かたち。

題詠マラソン、4首。
今回、《円》が意外に難しかったです、わたしには。
円、って抽象的な響きがあるからかな。ものじゃなく、かたち、なんだよね。
具体なようで具体じゃないというか。
まるでダンスのようだ(どこが?)。
にしても、全体的に皆さんさすがにペースが上がってきましたねえ。
あと1ヶ月とちょっとだものねえ。
あと3首で90首だけど、今月中は無理かな・・・
そう、ダンスといえば、
11月1日の「オルゾーダンス」の衣装とか考えないとな・・・
屋外だしね。防寒対策。
観に来て下さる方々もあったかくしておいでください。
去年の映像が見られます→こちら
って、今週の土曜日かい!?やば。

《円》      食卓に卵を置けばかなしみは楕円の影となりてひろがる

《銀杏》     恐竜の背の滑り台冷える地にさえずりのごと舞い散る銀杏

《とらんぽりん》 おかあさんのおなかのなかのとらんぽりんはずませているあかちゃんのあし

《朝》      ひと切れのりんごが皿に残されてひえびえと雨降りしきる朝


2003年10月28日(火) 夢の夕餉に。

朝から雨。
雨のせいか、夢からさめても夢のような気がしない。
つれあいが買ってきたはずのめずらしいお酒が見当たらない、と思ったら、
それは夢の話だったとか、
何回も行ったことのあるはずの場所にまた、と思ったら、
それはぜんぶ夢の中だけの体験だったとか、
何だか自分の記憶を疑ってしまう。
うーうー。


夢と現実、というけれど、
どちらも自分の体験であることには違いなく、
夢にも現実同様、
リアルである可能性はひらかれているような、
(「現実逃避」といういう意味ではなく)
そんな気がしてしまう。
内田善美の『星の時計のLiddell(リデル)』をふと思い出し、読み返している。

こんなところにあったと言って家になき大皿取り出す夢の夕餉に 花山多佳子


2003年10月27日(月) 反転地。

Esquire日本版12月号「アートは公園を求めている。」を買う。
屋外美術公園の特集。
気持ちよさげな場所ばかり。
ああ、こういうとこ行ったらきっとからだが勝手に踊ってしまう。
とか思いながらページをめくる。
岐阜県養老の「養老天命反転地」は、
実家からそれなりに近い場所なのだが、まだ一度も行ったことがなかった。
今度帰省して時間があれば、行ってみよう。


体調がよくない。
食べものにやや拒否反応。肉や米のことを考えるだけで吐き気がする。
そういうこともたまにある。
さからわずに、やりすごすだけ。


2003年10月25日(土) It takes strength to be gentle and kind

新月。
ひっさびさにTHE SMITHSの『The Queen Is Dead』など聴いている。
THE SMITHSのアルバムの中ではこれがいちばん好きで、一頃はしつこく聴いていたのだけど、
最近は忘れてた。
こういう、シンプルなやつがもともと好きだったんだ、ってことも。

It's so easy to laugh
It's so easy to hate
It takes strength to be gentle and kind

(THE SMITHS『The Queen Is Dead』〜「I Know It's Over」)

ああ、そうだよねえ。
って、昔もこのフレーズを聴くたびうるうるしていたのだが、
全然成長してないね、わたしって。とほほのほ。


短歌のアンソロジーをめくっていて、今さら葛原妙子の意外な歌を発見。
昭和25年の『橙黄』より抜粋されたものだから、初期の頃の歌なのだけど、
「幻視の女王」と呼ばれた彼女が・・・と思うと、
自分独自のものを獲得することの困難をあらためて感じる。

わがうたにわれの紋章のいまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる 葛原妙子


2003年10月23日(木) こっそりすみっこ。

きっとわかってないんだろうなあ、あのひとは。

一度は声をかけておきながら、
裏切られた、とは、思わない。
期待した自分がバカなのである。
というよりも、
そこまで軽々しく扱われていたことに、
そして、それを認めざるを得ない自分の現状に、
腹が立って、くやしくてかなしくて、
どうしようもない。それだけ。
でも、もうこれ以上引き摺ってはいけないのだ。


日付変わって、題詠マラソン、3首アップ。
突如ハイペースで駆け抜けてゆく人たちが現れ、こっそりすみっこを走る気分(笑)。

《ノック》    ノックしてドアの向こうの沈黙の深さを測る (おやすみなさい)

《ほろぶ》    <明日ほろぶ世界>という設定のもと日の暮れるまできみとままごと

《予言》     トンネルを抜ければあかるい海という予言の後のながい暗闇


2003年10月20日(月) 信じようと信じまいと。

今朝の新聞で、舞踏家の元藤あき子さんの訃報を見て驚く。
夫、土方巽亡き後、暗黒舞踏の拠点であるアスベスト館を守り、
魂の継承者たらんと精力的に活動を続けておられた。
今年に入り、目黒のアスベスト館は彼女の手から奪われて競売にかけられ、
それに伴う肉体的、精神的疲労はかなりのものであったと思う。
アスベスト館を失っても、踊りつづけようとみずからを奮い立たせ、
今まで以上の活動を企画されていたのだが・・・
最後にお会いしてからもう1年くらいたっているが、
亡くなられたということが、どうにもまだ信じられない。

題詠マラソン、80首到達。
でも、まだ完走できそうな気がしないのは、
自分を信じてないから。
完走したら、ちったぁ信じてやれるのだろうか。わからん。
それぐらい、自分にとって自分は不確かな存在である。

わたしが信じようと信じまいと、わたしを含めて世界は動いてゆく。それはそれは勝手に。

《殺》      殺虫剤の缶のつめたさ残る手をぬくめるように降れ酸の雨

《眼薬》     ひとしずく眼薬たらしまなうらの砂地に青きすみれを咲かす

《織る》     さみどりの丘を裸足で踏んで立つ わたしのかたちに織られた、わたし


2003年10月16日(木) もう。

やっと秋晴れがもどってきた。
ふとんを干して、シーツやカバーも洗濯して、部屋の掃除もする。
図書館へ借りていた絵本を返す帰りに、ブックオフに寄る。
新潮文庫の『萩原朔太郎詩集』が100円の棚にあったので、思わず買ってしまう。
ここのブックオフには、あまりわたし好みの本が出回らないようで、
寄っても何も買わずに帰ることが多い。今日も素通りしようかと思ったのだが、
時々こういうことがあるからなあ。
もう(笑)。
家に帰り、100円のシールを慎重にはがす。


2003年10月15日(水) 「川下り」翌々日。なのである。

寒いのである。足先が冷えて困るのである。
とうとうくつしたの手放せない(足放せない?)季節がやってきたのである。
今はまだいいけど、これから寒くなるにつれ、ふとんに入る時もくつしたを穿かなければ
足が冷えて眠れないのである。裸足でいることが好きなわたしにとっては、かなしいことなのである。
くつしたといえば、うわさの5本指くつしたをぜひためしてみたいのである。
早く買いにゆくのである。
でも昨日今日はパソコンの前から離れられなかったので、また今度なのである。
夕方近く、地震があったのである。
わたしの住んでいるところは震度3だったのである。
いつもより揺れたが、幸いにして物が落ちたり倒れたりということはなかったのである。
だが、さすがにちょっと心配になってきたのである。
今日も整骨院に行くのである。
少しはよくなっているようなのだが、膝がまだ痛むのである。


観に来てくださった方々から、いろいろメールをいただく。ありがたい。
自分がめざしたいパフォーマンスって、どんなものなんだろう。
7月から考えていることだが、なかなか答えは見つからない。
きっと人前で踊ることをくり返しながら、見つけていくものなんだろうな、と思う。
次回は、11月1日、「オルゾーダンス」@横浜・大倉山記念館、です。


2003年10月13日(月) 「川下り」当日。

とうとうその日がやってきてしまいました。
まず朝起きてお弁当をつくりました。
2種類おにぎりをつくって(梅干と塩鮭)、あと、卵焼きとかウィンナー。
昨日の晩に作っておいた煮物も入れました。
外に出ると空気が何だか生あたたかくて、変な感じです。
小屋に入ると、もう仕込みが始まっていました。
順調に進み、お昼近くには受付をやってくれるひとたちも集まって、
昼食後は照明チェック、ランスルー。
昼頃から外はいきなりすごい雨と風です。
ゲネが終わったらもう17時過ぎていて、慌ててメイクをしている馬鹿者のわたしです。
18時を少し回ったところで、開演。
悪天候にもかかわらず、予想以上にお客さんが入っていて、おお、という感じ。
今回は全体的にあまり和んでもらえるようなシーンはなく、リハの時もフジソノ嬢と
「わたしたち、悪い人みたいだね、嫌われちゃうかもね」とか話していたのに、
なぜか後半、2人が歩きながらぶつかりまくる、というシーンで笑いが生じ、
フジソノ嬢が紙袋を被って「牛」になるところで爆笑され、
「牛」になった彼女をわたしが鎖で縛って、ばしばし尻や背を叩くたびに笑いが噴出し、
ラストの「フジソノ嬢ひとりラブシーン」も大受け。
ラストはともかく、ぶつかったり叩いたりするシーンで笑いが起きたのはホントに予想外で、
わたしの頭の中は「???」だらけでしたが、笑ってもらえてありがたかったです。
救われました。
しかし、一番受けたのは、
カーテンコールの際のフジソノ嬢の「なんともいえない妙な隙間の空くしゃべり」
ではなかったでしょうか。
お客さん全部と話したわけではないのでわかりませんが、
まあ全体的には好評のうちに終わることができたようで、よかったです。
毎度のことながら、パフォーマーとしての自分には反省点いっぱいですけど。

ご多忙中、遠くから、そして悪天候の中、足を運んでくださった皆さま、
誠にありがとうございました。
それから、スタッフを引き受けてくれた方々、
舞台監督の武田賢介さん、照明の三枝はなちゃん、音響のcritchこと栗田秀紀さん、
当日お手伝いに駆けつけてくださった、
石原直奈ちゃん、ヤスキチさん、服部弘敏さん、三浦香織ちゃん、
手塚夏子さん、そしてSTスポットのスタッフの皆さま、
お疲れ様でした。そして、本当にありがとうございました。
最後に、一緒に踊ってくれたフジソノ嬢に、
リハに行っている間、しっかり家を守ってくれた家族に、
心から感謝します。

Thanks a lot!!


2003年10月12日(日) (ネエ、海ハドコナノ?)

本番前日。
やることはいっぱいあるのだが、ついくだらないTVをみたり、子どもと白玉だんごを作ったり、
せっせとセルフマッサージをしたり、本を読んだり、歌を作ったり、してしまう。
こんなことだから、夜になってあわてて衣装の直しをしたり、買い物に走ったりしてるのだ。
あほです。

題詠マラソンに歌をアップする頃には日付けが変わってました。
「川下り」、いよいよです。
 

《てかてか》   夕映えにてかてか光る教室の机に溜まるしずかなる傷

《落書き》    地下道に水蛭子(ひるこ)のような落書きはひしめいて(ネエ、海ハドコナノ?)


2003年10月10日(金) 満月。

雲の向こうから清々しい月の光がこぼれている。
見ているもののからだにしみこんで、透きとおらせてゆくような光だ。

昼間、伸びすぎた髪をカットしてもらう。
近所の施設で、自主練。明日は最終リハ。

ついに耐えかねて、近所の整骨院へ行く。
予想通りの座骨神経痛であった。10年ちょっと前に傷めたのと同じ。
整骨院、というので、骨の歪みを矯正してくれるのを期待していたのだが、
電気治療と超音波治療と手によるマッサージ少々。
こういうのは安くていいけど、どうもやってもらったという気がしないのが難点。
そりゃあ1回通っただけで治るわけないのはわかってるけどねー。

題詠マラソン、2首アップ。できたら今月中にお題90まで詠んじゃいたいなあ。
って、本番前なのに、歌を作っている。何やってるんだか。

《キャラメル》  萩のあか闇にふるえてキャラメルの味も知らずに死ぬ子らの舌

《痒い》     カイワレのむず痒きほど繊き根に吸われて水はひかりをこぼす


2003年10月7日(火) 雨だれにくずれゆく。

いよいよ「川下り」本番まで1週間をきった、というのに、
ここへきて今までになく左の腰と膝が痛みだしてくる。
ついに疲れが限界に達したのか。
先週末からちょっと気分が滅入ってきてて、良くない気を呼び寄せてしまっているかも。
周りでも風邪をひいて、なかなか抜けない人が多い。
季節の変わり目、普段以上に体調管理や温度調節に気をつけなければ。

題詠マラソン、2首アップ。

《席》      終バスの後部座席にひとりきり宛名の滲んだ手紙のように

《資》      「資本論」読む声やがて教室は雨だれにくずれゆくシフォンケーキ


2003年10月2日(木) 金木犀の。

ここ数日、秋晴れの気持ちよい日が続いている。
9月29日、わたしの鼻は今年初めての金木犀の香りをとらえたが、
その時まだかすかだったそれはどんどん強くなり、今は家の中にいてもわかるくらいである。
空気が澄んで、少しずつ濃度が薄くなってゆくのを感じる。
夜、日付けが変わる頃にはもう冬の星座が昇りだしてくる。
昂が美しい。

題詠マラソン、3首アップ。

《コイン》    夜のコインパーキングエリア はみださぬようにさみしさ重ね合わせた

《玄関》     塩こぼしつつ入る夜の玄関に金木犀の微かな匂い

《待つ》     日盛りに草の匂いのひと待てば閉じたまぶたにはじける滴


2003年9月24日(水) 時間は残されている?

題詠マラソン、8首アップ。ぜえぜえ。
「完走」が見えそうで見えない。って、今どのへんにいるのかしら?

《祈る》     手でしぼる檸檬のしずく尽きるまで祈る時間は残されている

《渡世》     たそがれの水にしずめた色がある渡世に似合う色纏うため

《海女》     海女の濡れそぼったからだあたためる炎(ほむら)の芯の暗いゆらめき

《ド−ナツ》   ドーナツをふたつに割って空しさも甘さもわたしが多く味わう

《光》      八月の地上の光くずしては巣穴へ運ぶ黒蟻の列

《僕》      みずいろの絵の具で風を描くように自分を「僕」と呼びたき少女

《化粧》     からっぽの化粧水のびん鏡台に置かれたままで 夜明けの驟雨

《似る》     煮くずれる肉じゃがのつぶやきに似てねむたい雨の ほろびの雨の


2003年9月23日(火) みんな猿になってしまえ。

森下スタジオにて、ジャムに参加。
ひたすら踊る阿呆となりはてる快楽。
人と一緒に踊ることで、今まで気づかなかった動きが自分の中からみちびきだされてくる。
人と一緒に踊ることで、その時だけの空気が人のあいだにたちあがってくる。
これって、ほんとに、すごいこと。


2003年9月22日(月) アルキメデスメタル。

初めてコンドルズをみる。
シアターアプルの前から6列めのど真ん中。
直前にもかかわらず、いい席を用意して下さったOさんに感謝。
ノンストップで約2時間の舞台、映像、ダンス、コント、てんこもりー、って感じで、
余計なことは何も考えず、笑えた。
笑い過ぎとスモークのおかげでちょっと喉が痛いっす。
ツボにハマったもの:アルキメデスメタル、お坊さんのシルエット変化、面影先輩。


2003年9月21日(日)  からだにくる。

台風の影響で、昨日から風雨が強く、気温も低い。
家の中でも、半袖じゃ寒いくらいだ。
この急激な変化、いったいなんなのよ。
昨日は地震もあったらしい(屋外にいたので気づかなかった)。
日野啓三『流砂の声』(読売新聞社)を読み終わる。
1996年発行の、エッセイ・評論集。どきどきする箇所がいっぱいある。
何を読んでも、この人の発する言葉は、からだにくるのだ。
頭じゃなくて、からだが、細胞が、何かを知って、動いてゆく。

人間同士の関係からではなく、世界と人間の悲劇的な関係から言葉は生まれたのだといま私は思う。
本能の壊れた動物として、混沌をどうにかして意味のあるイメージの世界にしなければならないために。
(日野啓三『流砂の声』(読売新聞社) 「言葉とは何か」)


2003年9月18日(木) ケチャップにケチャップつけて。

突如、ジャンキーなものを、食べたくなる。
たとえば、ファミレスのハンバーグとかでつけあわせに出てくるような、
ケチャップまみれのスパゲッティ。
具なんて入ってない、それ、だけを急に、一皿、食べたい、と欲する。
欲しても、与えられるわけではないので、自分で作る。
スパゲッティを半分に折って茹で、フライパンで軽く油と合わせて、ケチャップをどばどばっ、
っと、かけるには、ケチャップがたりなくて、いっしょうけんめい、ぎゅうぎゅうと、
しぼりだして、それでも、目指す色にはちょっと遠いが、しかたなく、
このへんでかんべんしてやることにする。

ところで、
わたしの思考回路では、
ケチャップといえばオムライス、
オムライスといえば『コインロッカー・ベイビーズ』、
なのですが、
『コインロッカー・ベイビーズ』を思い出しながら食べるオムライスというのは、
なかなか、消化がよくないです。
『蟹工船』を思い出しながら食べる蟹味噌には、
かなり、負けるかもしれませんが。

あたまとからだとたべものがうまくかみあわない。
かんかんと日射しの強い真昼のこと。


2003年9月15日(月) 特別な買い物。

昼間はリハ。
ビデオを撮って後で見てみると、結構同じ動きにはまっていて、
ああ、困ってるんだなあ・・・わたし。と、思う。
頭の中でしか回ってないんだよね。もっと頭の上の方で回ってないと。上、っても、above、な方で。

リハの場所がだいたい世田谷区内なので、電車に乗っている時間が結構長い。
読む本はかばんの中にいつも入っているのだが、ここんとこどうも読めなくて、
ぼーっとしたり、寝てしまったり。
今年も残りあと3ヶ月半になってしまったというのに、驚くほど本を読んでいない。
いかんです。
どうしてこう、頭の切り替えが悪いんだろう。ああ。

リハの帰り、誕生日のひとのため、自由が丘駅そばの無印でくつしたを買いました。
あと、家の近くで、エビスビールと、チーズケーキ。
値段は全く大したものじゃないけど、特別な買い物でした。


2003年9月14日(日) 時々やってくる。

毎日毎日、暑い。
洗濯物がぱりぱりに乾くのはうれしいけど。
時々、ずんずんと偏頭痛がやってくるのには、困る。

10月の「川下り」公演まで1ヶ月をきった。
今週、何度か自主練もして、動いてはいるけど、何だかうすいどろみずのなかにいるみたい。
動いていて、不安を感じてしまうような、そんな動きが時々やってきて、
今までクリアな動きの連続を構成することを考えてきた自分の視界を覆っていくみたいな。
それもだいじなものなのかもしれず。

些細なことなのにそれが解決されないままでいて、
こっちは確認待ちでただ推測することしかできない状態だったりすると、
悪い想像ばかりがエスカレートする。
本当に些細なことでしかなく、
ただ真意が聞きたいだけであって、責めているわけでもなんでもないのだが。
こういう時だけ、待てないのはなぜだろう。
肝腎なことは引き延ばしにするくせに。


2003年9月8日(月) いろいろ出会う。

題詠マラソン、4首アップ。60首到達。あと40首。

約2週間で10首詠めたから、このペースでいけば・・・と思うけど、・・・うーむ。
きっとそううまくは運ばない、だろうな。
でも、とりあえず今の処いい調子で詠えてきているので、
できれば今のうちに作っておきたいんだけど。
言葉をからだに通してみて、リアルな感触が掴めた時は、いつもすごくうれしくなってしまう。
出会えた、って感じだろうか。あと40首作るうちにいろいろ出会いたい。

《蛇》      草蔭でわたしの皮を脱ぐ蛇の鱗は月のひかりに濡れる

《たぶん》    たぶん明日も雨 しずみやすいあのひとのからだに蔓をからませておく

《夢》      もう戻れないことだけを確かめに夢で訪ねるとうきび畑

《奪う》     薄明のなか奪いあう乳房 まだ仔猫らは爪も牙も持たない


2003年9月7日(日) 健康第一。

題詠マラソン、4首アップ。

《サナトリウム》ってねえ(泣)。
なんか「愛と死をみつめて」ってイメージから脱却できなくて。
サナトリウムを舞台にした恋愛妄想がぐーるぐる。
『立原道造詩集』までひもといてしまった。
それにつけても、秋刀魚が美味しい。
健康第一。

《サナトリウム》 晩秋のサナトリウムにそれぞれの肺を燃やしてうたう讃美歌

《麦茶》     めざめればだれもいない午後 飲みさしの麦茶の底の翳りに沈む

《置く》     鍵盤に置いたその手は羽搏きをくり返し今、放たれる鳥

《野》      真っ白な画面に点滅するカーソル、夜半の荒野を越えられなくて


2003年9月3日(水) 東京横断。

10月13日の「川下り」で一緒に踊るフジソノ嬢と、舞台監督をやってくれるタケダ氏と共に、
横浜のSTスポットでリハーサル。
ここへダンスを観に来たことはあるけど、自分が踊るのは初めてである。
本当に「箱」って感じの、こじんまりした空間である。地下ということもあり、
外界との隔絶感が強いような。
2時間リハを終えて地上に出ると、日射しが強くて、くらっとする。
遅い昼食をとって、田園調布駅へ移動。夜は夜で地区会館でリハーサル。
歩きながら蒸すなあと思っていたら、建物に入った直後に雷雨になる。
わりと早く上がったような気がして安心していたけど、電車が止まったりして実は大変だったらしい。
音響をやってくれるcritch氏もリハを見に来てくれた。
先月の中頃あたりから自分に飽きてきて、なかなか破れ目が見えてこなかったのだが、
今日久々に、持ち直したような気がする。
それにしても、移動はそれだけでエネルギーを消費する。電車に乗っているだけでも。
東京横断、疲れましたわ。


2003年9月1日(月) 空腹との関係。

長月。今年も残4ヶ月。考えたくないな。
べたっとへばりつくような蒸し暑さである。
題詠マラソン、2首アップ。なぜか食べもの(しかも甘い)が連続してしまった。
お腹が空いていたのかな。

《敵》      敵を追いつめる快楽ゆっくりと銀のフォークでミルフィーユくずす

《冷蔵庫》    冷蔵庫のひかりの中に瓶は立つマーマレードをこびりつかせて

食べものといえば、
リハやらワークショップやらで半日潰れる日って本当にろくなものが食べられない。
もちろん家族には何かしら作ってから出かけるが、
自分は昼も夜もコンビニに頼ってしまう。
動く前にあまりたくさん食べると動けなくなるので、
おにぎりとか、パンとか、そういう軽めのものばかり。
で、終わった後やっぱりお腹がすいてしまい、どこかへ食べに行く時間があればまだいいのだが、
それもできない時は、駅から家へ帰る途中でまたコンビニによることになってしまう。
でも最近はあまり食べたいと思うものがなく、何も買わずに帰って、発泡酒だけ飲んでいる。
おかげで口内炎ができちまいました。痛。
とにかく、とりあえず、空腹を満たす、という必要に迫られて、
一番手っ取り早い選択をすることは仕方ないにしても、
今の自分の環境だと、手っ取り早さはどこまでも加速していきそうだし、
どこかでストップをかけないと、からだの方が悲鳴をあげる。
からだの表現に関わっているってのに、何やってんだかである。
だけど空腹には勝てない。
そのへんからまず考え直してみる必要があるのかも。


2003年8月26日(火) 越えてゆく距離。

6万年ぶりの火星大接近。
夜空を仰ぐとひとつだけオレンジ色の明るい星がでかでか光っているので、あれが火星なんだと思う。
こうして見てると、近いったって、やっぱり遠いんだね。まあ星相手じゃ当たり前だけど。
物理的に到底越えてゆけない距離は、心で越えてゆくしかないのか。
そのときからだは動くだろうか。心を投げた場所へ辿り着こうとして。


2003年8月24日(日) やっとこやっとこ。

暑。
やっとこ夏気分です。なんて優雅なことを言ってられるのも結局は冷夏だから。
立川昭二『からだことば』(ハヤカワ文庫)を先日やっとこ読了。
以前『からだの文化誌』(文藝春秋)を読んで以来、結構好きな書き手だ。
主に歴史をモチーフにして、病気や生死などからだに関わることを分析しており、本もいろいろ出ている。
「からだことば」とは、「手」や「足」などからだの部位の名称を含んだことばのことで、最近そういったことばが使われなくなってきている現象と日本人の身体観や身体感覚の変化をからめて論じている。ことばが使われなくなるということは、その言葉があらわしていた微細な感覚が人のからだから失われつつあるということなのだ。
だからといって、別に著者は昔のことばを復活させろと主張しているわけではない。ただ、知らないうちに何かを失って、何を失ったかもわからないままよりは、何を、どうして失ったかを考え直してみたほうがいい、という考えなのだと思う。
失ったものを介して、からだを響かせる新しい(あるいは忘れていた)感覚。

「こころの問題を考えるには、まず、からだの問題から入っていく必要がある。
そして、からだの問題は必ずことばと結びついているのです。」
立川昭二『からだことば』(ハヤカワ文庫)

大事なのは、ある感覚なり感情なりを言葉で表現する、
その作業をどれだけ自分のからだにくぐらせているかだと思う。
この3ヶ月ほどホントに言葉と疎遠になっていて(ダンスまみれで)、
歌を詠むどころか、本もろくに読んでいない。
ダンスをするからこそ、言葉ともよく通る身体でありたいと思っているのに、
結局言葉は放ったらかしの荒れ地状態。
いかんです。
今日みたいに暑い日は、プールにでも行きたいところだけど、月1回のコンタクトインプロのジャムの日なので、
わざわざ汗だくになりに行く。汗だらだら流しながら踊るのは、いい。
ダンス情報のページを更新。
題詠マラソンもやっとこ50首到達。あと3ヶ月で残り50首。詠めるのか?

《死》      ひび割れた卵をそっと渡す手のつめたさ 若き医師は死を告ぐ

《嫌い》     この家の女が嫌い 熟れすぎたメロンの種を指で掻き出す

《南瓜》     帰る家さがす老婆の煮くずれた南瓜のようなおもいでばなし


2003年8月13日(水) 逃げてゆく海。

お盆です。
なぜかいまさら両太腿前面が筋肉痛で、一体どういう体の使い方をしてるんだろうと思います。
最近りんごジュースに黒酢を入れて飲んでます。体やわらかくなるかな。
大切なことを教えられて覚えていたつもりなのに、実は忘れてしまっていて(というか身についてなくて)、また違うひとに同じことを教えられた。ホントにばかみたいだけど、そのたび違う人を通して何度もわたしにやってくるその「大切なこと」は、本当はわたしに何を伝えようとしているのだろうか。掴めそうで掴めない感覚。
今の自分よりちょっとだけ先のことをやってみること。

題詠マラソン、3首アップ。「がらんどう」と、なぜか「沿う」に苦戦。★蒟蒻と眼薬★もぼちぼち。

《がらんどう》  笛が鳴りフィールドに四肢投げ出せば空に充溢するがらんどう

《南》      ふるさとを出てゆくきみの鎧戸のような背中へ吹く南風

《沿う》     黒い水ねばつく夜の川に沿う歩みの先を逃げてゆく海


2003年8月3日(日) まだ変わっていける。

先月のラッキービンゴ・プロジェクト2のビデオが出来上がったと渡されたが、
恐くて見れずにいる。
しかし、人前で踊るたび、凹んでいるような気がする。
ま、それだけ足りないことが多いってことだからね。
唯一の救いは、去年より、前回より、良くなっていると言ってもらえること。
まだ変わっていけること、変われる余地が自分の中にあるということがうれしい。


2003年8月2日(土) 蝉たちの事情。

もうすっかり梅雨明け。
あちこちから蝉の鳴き声が聞こえてくる。
今週始めあたりから鳴き始めていたのだが、
早く出てきた蝉が一匹だけ仲間を探して鳴いている、という感じで、
鳴き声が止んだあとの静けさがどうにもさみしかった。
ちゃんと生きている間に仲間に巡り合えただろうか。
逆に最後に生き残った蝉というのも、さみしい。
地上に出て、自分と同じ種に全く巡り合えなかったらと思うと・・・
って、いろいろ妄想を膨らませてしまうのは人間だから、なんだろうね。
夏になると、どうしても蝉たちの事情をいろいろ考えてしまう。
去年は、アスファルトの上をさまよう蝉の子や、脱皮しそこなった蝉の子の死骸を見た。
地上に出られずに死んでしまう蝉の子もいっぱいいるのだろう。

六月の雨打ち叩く土の中眠る幾多の蝉の子の夢/岩崎一恵


2003年8月1日(金) ....dance goes on. 

長かったような文月も過ぎ、葉月。
先月半ばから10月の公演のリハも始まり、まだ少し凹みながらではあるけど、次へ向けて走り出す。
ここんとこずっとひとりで作る作業ばかりだったので、誰かと一緒に動くだけで本当に楽しい。
相方のフジソノ嬢がまたいろいろ笑わせてくれる人で、
この前一緒に即興で動きながらいろいろ試していた時、
ずいぶん長いこと壁際にひそんで窓から外を覗いているので、そういう動きをしているのかと思ったら、
ぢつは外でいちゃついているカップルを盗み見していたのだった。
何やってんだか、もう。
でも彼女は彼らの仕草にインスパイアを受けていたらしい。
後で何やらノートに書きつけていた。謎。

題詠マラソンも少しピッチをあげていかなくては・・・
ということで、4首アップする。焼け石に水。

《場》      月光をふくませられて呼吸する浄水場のまっくろな水

《クセ》     (学童保育所にて)犬っころみたいな少女も雨の日はビーズのアクセサリーをつくる 

《鍋》      日曜のモデルハウスのキッチンにつめたくひかるからっぽの鍋

《殺す》     蝉が鳴く魚が跳ねる子どもらはみな青空に殺されにゆく


2003年7月15日(火) くるしみかたがぜんぜんたりない。

7月12日、セッションハウス「ラッキービンゴ・プロジェクト2」本公演、終了。
それに先立った7月4日の公開リハーサル、5日の照明音響WS(通称「テク・スタ」)、
11日のリハーサルを含め、密度の濃い4日間だった。
この企画の特色は、公開リハーサルと本公演で、観客の皆さんに各作品(5分以内)についての
アドバイスや感想を記入してもらい、ダンサーにそれがフィードバックされるという点である。
普段孤独な作業ばかりしているので、作品過程に他人の目が入ることにそそられて参加した。
終えてみて、作品としての弱さ、パフォーマーとしての弱さが、自分のダンス、身体(及び日常)に
対する意識の浅さ、狭さから由来するものであることに気づいて、へこみ中。
この1ヶ月あまりやっていた作業は一体なんだったのか。とても大事なことを見落としていた気分。
全てが全て無駄だったわけではないが、
いろんなものから自分やダンスを遮断していたのではないかと今更になって思う。
結局やりやすいところでしかやってなかった。
自分を越えていくところにまで行きつけなかった。

いい加減、自己愛ばかりじゃしょうがないのよ。


2003年6月19日(木) 積み重なる断片。

予想通り6月に入ってからは忙しくなり、歌を作ることもままならなくなっている。
当然この日記も滞り気味で、という理由からだけではないが、
トップページや、ダンス情報のページを作ったりして、
ちょっと「らしく」してみた。でも、テキストだけで殺風景であることには変わり無し。
7月12日の舞台に向けて、作品つくりのまっただなかである。
空間認識とか感覚とか、あるいはイメージとか世界観みたいなものがつかめないまま、
ただ動くだけなのはつらいなあとずっと思っていて、でも今回はあらかじめイメージに縛られたく
なくて、動いている間に生まれてくるものをつかみたい、それによって動かされたい、
と欲しているのだが、・・・・・つらい。
本当にこれだ!という強い感覚を引き起こす動き、あるいは動きのフレーズというものは、
そう簡単には手に入らない。
積み重なるのは断片ばかりで、強い風が吹いたらあっというまに崩れてしまいそうだ。
それでも動きを作っていくしかなくて、受動的なのか能動的なのかよくわからない。
ただ待っているだけのつもりではないんだけれども。


2003年5月28日(水) まぼろしの飛脚。

来週から何かと忙しくなるので、今週中にやれるだけの雑事を終わらせておこうと思いつつ、
なかなかやれてない自分。
換気扇やレンジ回りの掃除(考えたくないくらい放ったらかし)、
ベランダの掃除に種蒔きに衣替え(考えただけで力が抜ける)、
・・・・・と書いているうちに、放ったらかしていたのを忘れていたもろもろの雑事が、
芋蔓式に出てきそうなのでやめとくことにする。
あー、髪切りたい。

題詠マラソン、3首アップ。やっと40首到達。ギリギリである。
しかし、《贅肉》・・・推敲不足。またやってもーた(泣)。

《明日》     もし明日雨が降ったら会いにゆくあなたの水の匂いをたよりに

《贅肉》     ワイシャツの襟をはみだす贅肉が目の前にある満員電車

《走る》     旅便りの返事も書かず八月の空、まぼろしの飛脚が走る


2003年5月24日(土) 地下なだけに。

★蒟蒻と眼薬★、再開しました。
いつのまにか題詠マラソンのリンクからのアクセス数が1000を突破して、
いやもうなんというか。
おまぬけな感想を読んで下さっている方々、ありがとうございます。
感想を書きつつ、自作の歌のネタとダンスのネタを拾わせてもらっています。

7月に踊るセッションハウス地下スタジオでは、一昨年から1年に1回ペースでソロ作品を発表させてもらっているのだが、地下なだけにいつもイメージがそっち方面に引き摺られ、どうしても作品が重くなってしまいがちで、今回は何とかそれを覆したいところであるが、ううむ。
かといって、場所のパワーやエネルギーは侮れないし、無視できない。まして敵対したり征服したりするものでもない。場所が支えてくれるからこそ踊れるのだから、場所からぶちきれて存在したくはない。さてさて。

題詠マラソン、今日も3首アップ。

《駅》      ホームレスの男が鳩にパン屑をまく冬晴れの駅前公園

《遺伝》     地(つち)に咲くいぬのふぐりの遺伝子が憶えているのはいつの日の空

《とんかつ》   蝉の聲ふっと途切れてどこからか夕餉のとんかつ揚げている音


2003年5月22日(木) すべて血肉に。

ずいぶん間があいてしまったのは、GW明けの2週間ワークショップ続きだったせいと、7月に踊る作品のことを考えていたからです。
ほんとにダンスしてると作歌も感想も滞って仕方がありません。
そのうえ、6日から体調を崩し、喉は痛いわ微熱は出るわちょっとした切り傷が悪化して腫れあがるわ・・・でもワークショップに行くとつい踊ってしまって・・・ははは。結局抗生物質のお世話に。すごい。あっというまに楽になりました。
ワークショップは凹むことも多々あったけど、ここで学んだことすべて血肉にしたいと切に思うことばかりで、とても有意義で楽しく、贅沢な時間だったと思います。
さあ、次は7月に向けて作らなくちゃ。

題詠マラソン、久々に3首アップ。難しいお題ばっか。

《星》      眼鏡ごしに見つけた星の瞬きを真実として 離れる岸辺

《中ぐらい》   中ぐらいの大蟻喰だ この夢の暗き砂地を嗅ぎまわるのは

《誘惑》     誘惑に乗りそこなった夏の夜のぬるくなるのも早いカクテル


2003年5月5日(月) 言わなきゃ何も始まらない。

神楽坂セッションハウスにて、マイケル・シューマッハ&C.I.co.、他ゲストパフォーマーによる
即興ダンスパフォーマンス「Here and Now」を観にゆく。
マイケルさんは主にオランダで活動しているパフォーマーで、
毎年C.I.co.が海外から招聘してくれる素晴らしいパフォーマー達の中でも特に人気が高い。
パフォーマンスは1時間ほどだったが、そんな長さを感じずに楽しむことができたし、
そのへんは、さすが手練れ揃い!、という感じ。
参加パフォーマーはみんなそれぞれ自分の得意なことをやっていて、豊富なボキャブラリィを駆使して、
あちこちでいろんなことが起こっていて、いい瞬間がいくつもあって、
それはそれでとても楽しかったし、魅せられたのだけど、ちょっと物足りない感じもした。
なんというか、いい意味でも悪い意味でも「大人っぽい」というか、「表層的」というか・・・
「技術」には驚くものが数あったけど(それだけでもすごいことなんだけど)、
「在り方」「居方」には驚くものが少なかったというか・・・
「熱中と冷静」というのがあるならば、
やや「冷静」に片寄り過ぎて「熱中」が足りなかったような・・・
うまく書けないのだけど、もっと人間や空間が根本から変容しちゃうような、
「なんかこいつらすっげぇ変!」という瞬間がもっと見たかったなあ・・・
なんてわがままな観客なんだ!と自分でも思うし、
そんなこと言えるほどお前は偉いのか!と言われたら身も蓋もないし(笑)、
自分がやる時にそこまでできるか、って問題ももちろんあるけど、
言わなきゃ何も始まらない(自分にも他人にも)、と思う。だから言う。だから動く。だから踊る。


2003年4月29日(火) 断片が意味を持ちはじめるとき。

話は前後するが、先の25日〜27日に、松本大樹さんというダンサーのワークショップに参加した。
参加者全員で、3日間で小作品を1つ作って踊ろう、というのが、今回の目標である。
普段のクラスが、ウォームアップはさらっと済ませてじゃんじゃん動く!踊る!というヤツなので、今回もそうなのかなと思っていたら、初日いきなり音楽を聴きながらのイメージワークっぽいことから始まって、ちょっと拍子抜け。後半は、大樹さんが提示するばらばらな4つの言葉について、それぞれ4つの短い動きのつながりを作る(短歌の題詠にちょっと似ているかも)、という作業に各自入る。その各自で作った動きを、舞台上のシーン(方向や位置を決めたり、他の人と組み合わせてデュオやトリオの動きにしたり)として大樹さんが構成していく。
2日めは、全員でからだのパーツから動きを作っていく、他の人が作った動きを動いてみる、ということをした。1つは、その場で1人ずつの小さな動きを順番につなげていくもの。もう1つは、くじ引きみたいなもので、まず全員が「普段あまりダンスでは動かさない(意識しない)からだの部位」と「形容詞・形容動詞」をそれぞれ紙に書き、シャッフルして配られたそれらに基づいて各自短い動きを作り、さらにその動きを「参加者の誕生日順に」(!)つなげていく、というもの。
初日は明らかにあまり動いた気がせずくすぶり感が残り、2日めはいろんなことをやったけどその割にはやっぱり動いた感じがしない・・・と思ってしまうのは、体先行で内的必然がないところから始めているせいだろう。正直なところ、あんまり面白くない・・・と思っていた3日め、大樹さんは突貫工事のごとく構成を進め、あれよあれよという間に形になった瞬間、それまで何の意味も持たなかった断片的な動きが急速に自分の中で生き生きし始めた。何かが1つのはっきりした形を成してゆく時の緊張とわくわくする感じ。1つ1つの動きはほとんどでたらめ(笑)に近い状態で、関連性もあまり持たずに作られたのに、それらがある流れの中で意味や関連性を持ち始め、動いている自分が逆に動かされていくような感覚。今、1つの作品世界が生まれているという、まさに「なまもの」に触れている感じ。まさかここでこんな感覚に出会うとは思ってもいなかったので、驚きも面白さもより一層大きかった。
でも、これはきっと大樹さんの力によるもので、今回はそれに乗っかっていただけ。本当は自分自身でその驚きや面白さを発見、探究していかなければいけないんだよね。内的必然があって動きがあるだけではなく、動きが内的必然を生むことができることを確認できたのが今回最大の収穫。そのへんは題詠も一緒だなあと思う。今回のワークショップは3日で終わりだけど、この後の作業はもっと自分の中で深めていきたい。


2003年4月28日(月) 絵本の読み聞かせをやってみた。

今朝、家の目の前の小学校へ、初めて絵本の読み聞かせをしに行ってきた。
だいたい毎週1回、始業前の10分くらいの時間をもらって、1冊絵本を読む。
今回読んだ本は、エリック・カールの『はらぺこあおむし』(偕成社)。
子どもたちもよく知っている本だし、今さら、という感がないわけでもなかったが、
実際読んでみると意外に反応は上々。
でも、考えてみると、何回も読んでしまう、何回読んでもなぜか飽きない、というのが絵本のいいところだよね。
絵本にロングセラーが多いのも、うなずける。
しかし、読み聞かせもつくづくインプロだなと思った。
子どもたちはしばしばこちらが予期しない反応を返してくるので、それにどう返すかというのは考えさせられることである。
あまりこっちの価値観を押し付けたくもないし、かといって、勝手に言わせておく、反応を無視するというわけにもいかない気がするし。
一筋縄ではいかないけれどこれは結構楽しいかも、と思えてきた。


2003年4月27日(日) 出演者募集情報。

昨年末ソロ作品を発表させてもらった「DANCETHEATER2002  今年の成果。」vol.4のプロデューサーで、ダンサーの船木雅子さんが、この夏、金沢でのイベント《「未来回帰」〜アートの在る風景〜》(仮)を計画しており、現在出演者を募集している。
8月6日、金沢芸術村にて。ダンスだけでなく、音楽や朗読など他の分野の方もOKとのこと。
参加にはチケットノルマを含む参加費用が必要。近隣はもちろん、遠方からの参加も歓迎(ただし、交通費等は自前で)。
自由な表現の場を持ちたい方、作品発表の場をお探しの方は、お気軽に船木雅子さんまでお問い合わせを。

題詠マラソンに2首アップ。

《表》      約束は書店の二階みずいろの背表紙並ぶその書架の前

《猫》      猫よけのペットボトルの輪郭でたたずむ水に映るいちにち


2003年4月23日(水) 振り付けと即興のこと、続き。

ある動きをした次の瞬間、もう次の動きになっていて、動きを選ぶことはいつも瞬間になされ、迷っている暇なんてない。
今、動きながら同時に次のドアを開けて自分を放り込んでゆくことの連続。
選択する勇気と、今何をやっているかclearであること。
振り付けにも即興にも言えることだと思う。
即興は瞬間に振り付けをすることだって、レイ・チャンも言ってたし。
即興と振り付けと両方やることは楽しいし、結構得してると思う今日この頃である。

振り付けと即興、どっちが大変か、どっちがいいものを見せられるか、というのはなくて、
どっちも大変だし、
いい振り付け作品もあればつまんない振り付け作品もあるし、
いい即興もあればつまんない即興もある。
結局はダンサーのからだと意識の問題であるように思う。
わたし自身は、振り付けなのか即興なのか見ていてわからない動きって結構面白いと思うんだけどな。

題詠マラソン、今日やっとこ1首だけアップ。
ちょっとペースが落ち気味で、焦ってしまう。おーちつーけー。

《森》      カウンセリングルームのあかるい森の絵もとぷりと沈むみなづきの闇


2003年4月20日(日) 穀雨降る。

雨模様の肌寒い日。そういえば今日は穀雨なのだった。
この雨は穀物をみのらせる雨なのだ。

というわけで、野和田恵里花さんのワークショップ最終日のショーイング。
参加者8人がそれぞれワークショップで作った短いソロダンスを踊る。
最初渡された「さくらもち」がどんどんからだの中で変わってゆき、どんなかたちになってあらわれてくるのか。
こういうのに立ち会っていると、ひとのからだって本当に奥深いものだと感心してしまう。

わたしはソロを2つ、踊らせてもらった。
ひとつは、ロバート・ワイアットがカヴァーした「Memories of you」という2分半ちょっとくらいの曲をかける間、全くの即興で踊るもの。
これは、あまり余計な事を考えないで踊ることができた。例えばからだが一冊の本なら、そのページを次々にめくってゆく感じで。
しかし、やりやすい動きに頼ってしまった、音楽にかなり助けられた、という反省がある。
もうひとつは、ワークショップで作った振り付けと即興で構成した約7分の作品を、無音で。
・・・どうしてこう、わたしは動きを覚えるのが遅いんだ!?もう、遅すぎ!!
他人の動きにしろ、自分の動きにしろ、覚えるのが遅い、というのは結構問題かもしれない。
からだの意識が甘いことを痛感する。
振り付けというのは、ただ動きをなぞるだけではなくて、その動きが生まれた瞬間の「これだ!」っていう強度とかエネルギーの流れ方とか、そういうものの再現でもあり、またそうでなければいけないと思っている。手順とか段取りの部分にばかり意識や時間を取られていては、いいパフォーマンスなんてできやしないのである。振り付けを踊る時も即興の心で踊りたい、と思うのは、そういうわけだからなのだが・・・ああもう何年やってるんだよぉ。
それとも肝っ玉が小さいのか。集中力に欠けるのか。それもかなり問題・・・。
パフォーマンス中の意識ってのも、見ている人には見えちゃうんだよね。
というわけで、中途半端感の残るパフォーマンスであった。
でも、ワークショップは本当に野放し状態で、好きに動くことができたし、
毎回もっとやっていたい!と思うくらい楽しかった。
課題というおみやげもたんともらったことだし。
何より、いつも1人でこういう作業をやっているわたしにとって、お互いに作った動きを見て、いろいろ言ったり言ってもらえたりってことが、本当に有り難かったし、面白かった。
恵里花さんはじめ参加者の皆さんに感謝。


2003年4月17日(木) 自分の売り。

あったかーい、というかあっつーい、というか、もう初夏の入り口が見えてます。
連休明けから夏にかけて、いろいろ忙しくなりそうです。
今月中にいろいろ済ませておかなきゃ・・・って、もう半分過ぎてるしー。
ちょっと先の話ですが、7月、セッションハウスで開催の
「ラッキービンゴ・プロジェクト 2」
というダンスイベントに出演することになりました。
リハーサル公開、ワークショップを経て、
最終的に公演当日、観客による投票で何作品か選抜されるのですが、
ダンスにせよ短歌にせよ、今までやりたいようにやってきただけで、
「自分の売り」なんて考えたこともなかった(というか、避けてきた)・・・
つまりそれだけ中途半端であった・・・
・・・自己嫌悪に陥っている暇はないので、がんばります。

昨年末に出演した舞台「DANCETHEATER2002  今年の成果。」vol.4
ソロ作品の写真をアップしてもらってます。→こちら
トップページの「アルバムを開く」をクリックしてご覧下さい。


2003年4月16日(水) 三回というボーダー。

昨日は雨の中仕事へ。そういえば先週も火曜日は雨で、仕事だった。
お題#028「三回」。うーむ。何だか難しかった。
状況によって、多いようで少ない、少ないようで多い、とても微妙な回数だと思う。
でも、最初の新鮮さにうっすら手垢がついてきて、安心や慣れがなんとなく生じてきたり、
あるいは、もうええかげんにせーや!と言いたくなるのは、
やっぱり三回めくらいじゃないかなあ。
ダンスの中で同じ動きが三回あるのを見てると、あ、これは何かこだわりがあってやってるのかな?と思う。
でも、強度を持たせるにはちょっと少ないような気もする。
自分が踊る時、同じ動きを繰り返すのって結構不安を呼んだりして
(しつこいとか、くどいとか、つまらないとか思われたら嫌だなあ、など)
そういう時は、だいたい三回くらいでやめとこうか、って気持ちになる。
でも、そういう動きは、そもそも三回以上繰り返す必要性がなかった、自分の中にそこまでの強度を持ちえなかった、ってことなんだよね。これをやる!って強さと明確さを持って踊り手が熱中しているのが見える動きっていうのは本当に素敵だし、見ている側としてはもうずっとやっててほしいって思うもん。
さすがに日常ではなかなかそういうのはない、かも。

《三回》     別れぎわ三回振り向くこいびとよ今宵は獅子座をさがしてごらん


2003年4月14日(月) さくらもちダンス。

今月、野和田恵里花さんというダンサーのクリエーションのワークショップに通っている。
全5回のワークで短いソロダンスを作って、最終日にショーイングをするというものなのだが、
初日に野和田さんから渡されたモチーフは「さくらもち」。
参加者それぞれの「さくらもち」は、今、さくらもちであってさくらもちでないものに変容しつつある。

振り付けを作る時も、即興で動く時も、大事なのは、clearであること。
今、どんな動きを選ぶか、自分が何をしたいのか。
瞬時に選択、決断をする勇気が必要なのである。
そんな選択や決断が積み重なって、ダンスになるんだなあと思う。
今自分にそういう強さがあるかどうかってことを考えると、全然まだまだである。
からだの質感と同時に空間の質感も、見ている人に感じてもらえるようなダンスができるといいのだけど。


2003年4月9日(水) 緊張によわい。

ぢつは結構緊張するタイプだったりする。
案外肝っ玉が小さいのである。
あたらしいことを始めようとする時、いつもびびっている自分がいる。
どうしてこんなにびびるのかさっぱり謎である。
わからないだけに、対処に困る。
びびろうがとにかくやるしかない、という状況が、最近多い。
そういう時期なんだな、たぶん。

《忘れる》    わたしはなにを忘れたのだろうぬばたまの夜の汀で波がくずれる


2003年3月29日(土) どこまでつづくぬかるみぞ。

家の近所でも桜がほころびはじめる。
家にこもって歌作ってる場合じゃないんだけどな。
お題に苦しめられてます。
#025「匿う」と#026「妻」。
「匿う」を考えているうちに、「匿う」と「監禁」のあやうい境界みたいなことを考え出し始めて、
そういやティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』とか、
横溝正史の座敷牢とか、
すごい昔にTVで観た映画で、
タイトルは忘れちゃったけど、戦争で負傷した兵士が女ばかりの修道院みたいなとこに逃げ込んで、
匿ってもらってるうちに男をめぐって女たちの人間関係が歪んできちゃって、
男が逃げ出そうとしたら、女たちは「まだ怪我が治っていないから」と、治療と称して足を切っちゃうし、
逆切れした男は結局殺されて、女たちに埋葬されてしまう・・・
ってのがあったなあ、とか、記憶の押し入れから次々あふれてきて収拾がつかない。
「妻」に至っては、どーしてもジェンダーとか、フェミニズム目線になっちゃうし、
かといって、素直に妻である日常を詠もうとしても、自分らしくない歌になっちゃうし、
「稲妻」で詠もうと思ったけど、イメージがいまひとつ湧いてこないし、
全然歌にならず。
日付けが変わったあたりでやっとこかたちになりました。
でも全然つきぬけられませんでした(泣)。

《匿う》     血まみれの兵士よすでに子宮とはきみを匿う器官にあらず

《妻》      雨音は背中に重くのしかかり白く塗られる妻という家具


2003年3月28日(金) 思い立ったが泥沼。

昨日からパソコン漬け(笑)。
何でそういうことになったかわからないが、思い立ったが泥沼、ということで、
題詠マラソンの他作鑑賞bbs ★蒟蒻と眼薬★ をオープンする。
自作に行き詰まったら他作を読んで感想を書いたりしてれば道が開けるんじゃないか(笑)と、
かなり不純な動機も含まれているが、せっかくの機会なんだから読まなきゃもったいない!
という気持ちになったのも確かである。
感想を書くのは楽しい作業である。
感想を書こうと思って何度も読みかえすと、また違った見方ができて面白い。
でも、この歌になぜ自分が惹かれたのか、それを説明するのはなかなか簡単にはできない。
その説明できないけど惹かれる、っていうところが重要なのよね。
本当はさらっと返歌で返せるといいんだろうけどねー。


2003年3月26日(水) 春の表面張力

あたたかくて少し気持ちのほぐれる1日。
桜のつぼみがうすあかくふくらんでくる時の、表面張力の限界が少しずつ少しずつ近づいてくる感じ。
一気に流れ出す瞬間が、こわいような待ち遠しいような。
去年途中まで読んで放ってあった山田風太郎の『戦中派不戦日記』(講談社文庫)をまた読み始める。
毎日のように警報が鳴り、都内のあちこちが空襲を受けて燃えている。
常に不安と恐怖にさらされ、物資は欠乏し、肉体的にも身体的にも疲労は重なり、人々は活気を失ってゆく。
今、イラクでは同じことが繰り返されているのだとあらためて思う。
人間ひとりひとりが互いに痛みを共有するとか、いたわりあうとか、とても大切な感情なのに、
そういうものは全く無視されたところで戦争は始められる。
戦争を始めちゃうような政権には共感なんて邪魔なだけなんだね、と当たり前のことを確認する。

《きらきら》  密雲へ突きだす舌にきらきらと雪は刺さって 「にがよもぎたべた」

  

2003年3月25日(火) 恐怖と暴力

何だかダンスのことしか書いてない(笑)。
いや、ダンス以外にも就職活動とか1日だけのアルバイトとかしているのだけど、
書くとしょぼい気持ちになるので避けて通っている。
踊っている間に戦争が始まってしまった。
二言目には「大量破壊兵器の脅威」を持ち出して戦争を正当化したり、
武力行使を支持するその口で復興支援などとほざいたり、なんだかなもう、である。
暴力のふるわれる背景には、いつも恐怖がひそんでいるような気がする。
誰だって恐いのは嫌である、とわかってはいても、
他人の安心よりもまず自分の安心を優先したいと思うのが人の常である。
他人の「大量破壊兵器」を否定するためには、自前の「大量破壊兵器」が必要なんですねえ。
いっせのせ、でみんなで捨てるわけにもいかないんだろうし。
いったいどうしたものやら。
とかいろいろ考えていると、やっぱり歌に出てしまうようです。

《窓》    戦争は続く 日本の片隅で14インチの窓閉ざしても

《素》    蒼空に背を向けて春、新しき土を素焼きの鉢に満たしつ

《詩》    幾千の言の葉沈むまっしろの頁にうかぶひとひらの詩(うた)


2003年3月23日(日) よくわからないからだのままで

「からだの学校」ワークショップ最終日。今回はダンスだけでなく音や絵のワークもあって、いろんな方面からからだにアクセスすることの重要さをあらためて思った。ヨークさんのインプロのワークは結構てんこもりなメニューだったけど(おかげであちこち筋肉痛が・・・)、どれもとても面白く、人と一緒に踊るためのいろんなエッセンスが詰まっていた。感謝。

そして最後にショーイング。これまでの自分とは少し違った居方ができたような気がして、不思議に楽しかった。数日間いろんなことを体験して、自分のからだがどんなふうにその体験を吸収したのかはわからないのだけど、そのよくわからないからだのままで、少しいつもと違う場所を通ったのかな・・・と思う。
ショーイング後、少し時間があったので、またジャムに突入。ジャムで始まりジャムで終わった(笑)。
いやー、充実。


2003年3月19日(水) ジャム!

朝、はっと目が覚めたら大寝坊していて、あわてて家族を叩き起こす。
うちの家族はわたしが起きないと誰も起きないのである。

今日は夕方からC.I.co.の連続ワークショップ「からだの学校」のオープンジャムに参加。3時間、いろんな人とたっぷり汗かいて踊る。ワークとは違うので、「挑戦」という意味で結構無茶に走って時には玉砕もしてしまうのだが、こういうことも大事だよね、と思う。今まで自分のやってきたことを、こういうフリースタイルの場所でどれだけ生かせるかが試されるし、何より実戦で人と当たる感覚が鍛えられる、またとないいい機会だ。

今回の講師で、ドイツから来日したインプロヴァイザー、ヨーク・ハスマンさんは、小柄ながらとてもしっかりした体でタフに踊り続ける、かなりおちゃめな人である。どんなワークショップになるのか、楽しみ楽しみ。


2003年3月13日(木) 日々を繋ぎ止めてゆく作業さえ

どうにも最近いろんなことが定まらなくて、その場限りの不安定な流れにのっかっているという感じ。
とにかく今できることをやらなくちゃずっと何もできないまんまだと頭ではわかっているのだが。
せめてダンスくらい腹据えてやれよ!と自分で自分に喝。

《害》    被害者はわたしで加害者は私 スプーンで苺を潰す、毎日。


2003年3月10日(月) 望んでいるものは

強気と弱気の両極の間を行ったり来たり、で、結局中途半端な日々。
自分が本当に望んでいるものがよくわかってないから、いたずらに気分だけがどんよりしていくんだな。

《蒟蒻》   雨の日の眠いふたりを巻いてゆく糸蒟蒻のような夢蟲


2003年3月3日(月) それにしても問題は蒟蒻

昨日行ったダンスのワークショップで話題にのぼった、「からだによいたべもの」。
納豆。黒酢。もろみ酢。プチ断食。
納豆は断固としてパスだけど、酢や断食には少々そそられるものを感じる。特に酢はいいらしい。
最近あんまり食べることに熱意がなくて、いかんなあと思う。
それにしても問題は蒟蒻である。ああ困った。
蒟蒻といえば、鈴木清順監督の映画「ツィゴイネルワイゼン」の蒟蒻ぶちぶちてんこもりシーン、がまっ先に思い出される。
しかし、蒟蒻なんて、いったい何でまたそこまで手をかけてまで作るかねと思ってしまうが、
それはやっぱり、その昔、生では食えない芋類を何とかして食おうと思って作ったんだろうなあ・・・
そうやって芋とか木の実とか食べて、いのちをつないできたんだろうなあ・・・
それに蒟蒻のあのぷるぷるした食感って、快感だったんじゃないかなあ・・・
とか考えてると、気分はもう、ビバ芋!ビバ澱粉!ビバぷるぷる!って大盛り上がりなんだけど、・・・歌にならないのはなぜ?

今日は2首アップ。

《雲》    重吉の眸(め)に映りし空、雲、ひかり 方舟のような詩集をひらく

《泣く》   蔦の葉の重なり風にさわさわと啜り泣くごと廃屋つつむ


2003年3月2日(日) 脳みそから水。

題詠マラソン、今月中にお題#030まで行けるかどうか。
先週2月26日には、いつもお世話になっているC.I.co.つながりで、
京都を拠点に国際的に活動しているダンスグループ
「Monochrome Circus」の公演「Float」を観に、新宿のパークタワーホールへ行ってきました。
ダンサーがピアニカやリコーダーを演奏したり、ギターの弾き語りがあったりで、
楽器ができるのっていいなあと思いましたです。
ダンスは、皆さん職人のようにひたすらもくもくと踊っているという感じでした。
そのせいかどうかはわからないけれど、
それぞれのからだが、「ヒト」と「モノ」の間を行ったり来たりしているようにも思ったり、
どうしても埋められない人と人の間の距離みたいなものがあらわれているようにも思ったり、
最後の方の、背景に激しく移り変わる映像が流され、その膨大な断片の中に舞台上のダンサー
のからだも断片になって投げ込まれていくようなシーンを見ながら、生きるってそういうこと
かもしれないなあって思ったり・・・
明るくて楽しくて笑えて・・・みたいなものはなかったけれど、
ポジティブなさびしさというか、孤独を力強く引き受けてくような、そういうありかたを
素直に受け取ったような気持ちになったのは、やはり、ダンサーのからだの力によるものなん
だろうなと思いました。

その翌日の夜に、教育テレビで舞踏家の大野一雄の特集をみました。
96歳でアルツハイマー病で脳硬塞で、それでも踊る大野一雄。
彼が舞台にある時、踊る身体、というよりも、踊ろうとする意思が身体にあらわれる様を、
観客は目撃するのかなという気がします。
もう存在であるとしかいいようがないです。
番組の中で、彼は公演のため故郷の函館へ赴き、94歳(!)の妹と再会して、亡き母親の
思い出を語り合うのですが、96歳と94歳の兄妹が交わす「なつかしい」という言葉は、
なんかもう凄すぎて、聞いていて脳みそから水がにじみでてきそうな感じですわ。あうー。

今日は1首アップ。

《紅》    吾亦紅風に揺れやまずこれ以上何を捨てるの 何が残るの


2003年2月19日(水) 独りよがりと紙一重

再び走り出す。
お題#011「イオン」は、結構手こずってしまった。
「ライオン」で詠む、と決めてもかなり難渋し、

「狩りはまず狩りの対象を見ることから始まる。
しかし、見ているだけで終わってしまう狩りもある。」

という日々が続いたのであった・・・・

会場の方に1日にアップされる歌の数も、いくぶんか落ち着きをみせつつあるようで。
各自のサイトに自作をアップしたり、他の作品への感想を寄せたりといった動きも活発に
なっている。
たくさんの作品がアップされる中で自分の作品が他者にどう読まれているかということは、
作者にとって当然関心のあることで、自作品への批評を探してあちこちサイトを巡ったり、
というのも当然の心理なのだが、誰も自分の歌に批評を寄せてくれない、という現実にも
当然のことながら直面するわけで・・・・

普通だったら、ああ、わたしの歌はまだ掬ってもらえるほどの強度がないのだな、と思って
新たに精進に励むもんなのだろうけど、逆に逆恨みして「お前は批評や感想を述べるほど偉
いのか?」なんていう匿名の発言をボードに書き込む人もいるようだ。

実際よその感想bbsでそういう発言を読んで、ほんとーに情けなくって、思わずレスを書いて
しまったのだけど、つくづく、短歌に限らず、表現とは孤独ないとなみである。
自分の作品が他人に伝わるように努力することと、他人に媚びるようにして作品を作るのとは
全く別もので、それは、自分の中にコアとなるものがあるかどうかってことと関わるのだと思
う。アプローチの仕方は当然人それぞれ。だけどその作業は作品を作る上で不可欠だ。
表層的なことにばかり気を取られていると、コアを見失いそうな気がしてこわい。
だから、いつもいつも必要以上にわかりやすくある必要はないんじゃないかなぁ、とか思った
りもするが・・・そのへんが独りよがりと紙一重なのよね。

鏡に映った自分の姿ばかり探したって仕方ない。だって実体はここにしかないのだから。
というわけで、今日は5首アップ。

《イオン》    悪役になれずにいつも王様の絵本のライオンああ腹が減る

《突破》     青空の玻璃窓突破した雲雀・・・やや妬ましい檸檬であった。

《愛》      永遠という青い薔薇咲く恋に死にき愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)

《段ボ−ル》   段ボールに返本詰めるもう森に還れぬ樹々の声も封じる

《葉》      なつかしい潮の匂いを連れてくる葉月生まれの女童の髪


2003年2月17日(月) へなちょこダンサー日記

土日月と3日連続してダンスのワークショップやレッスンに参加。
特に土曜日は、去年から連続している月一回のインプロダンスのワークショップで、昼間
はパフォーマーのためのワークショップ、夕方からは継続して観て下さっている観客の方々
を前にしてショーイングをし、その後パフォーマーと観客とのディスカッション、フィー
ドバック、という長丁場だけど、とても充実した時間を持てる日だ。
この日のパフォーマーのためのワークショップでは、その空間に一緒にいる自分以外の人
の体の一部の動きと、自分の体のある部分の動きを合わせてみる(必ずしも同じ動きをす
るということではない)というワークを行い、それをグループでのインプロダンスにつな
げていくということをした。他の人の動きと自分の動きが体の中でごっちゃになってしま
うと何が何だかわからなくなったりもするけれど、そこをクリアにしていけば、動きの選
択の幅が広がって便利かも、とか思う。結局は、パフォーマンス中に自分が何を選択し、
自分のやったことにどう責任とるかってことなんだけど、気弱さとか自信のなさとかが時
折見えかくれしてしまったりして、自分で情けなくなってしまう。
あくまで自分のやりたいことはインプロダンスなのだが、それだけやっていてはからだが
固まってしまうので、普段やっていることとは違うコンテンポラリーダンスのレッスンも
たまに受けているのだけど、どうもうまくできないなぁと思う時がしばしばある。今受け
ているのは、基本的に床に対して体が垂直な動きが多いので、床技に逃げることの多いわ
たしには結構厳しいし、自分の体の癖に気づかされることも多い。別に矯正するとかそん
なんではないけれど、自分の動きについて自覚することは大事だと思う。
動きをするにあたって無駄なエネルギーを使っていると、その動きはやっぱり美しく
なかったりするのよね。できればエネルギーがうまく循環している体や動きを見せたいと
思うし。・・・そのためにテクニックを学びたい。テクニックのためのテクニックではなく。

余談だけど、土曜日に踵の高い靴を履いたら、両足の脛の部分が筋肉痛になりました。
足の甲や裏にも負担がかかって、両足フレックスすると痛い痛い。
普段スニーカーしか履かないので、当然の報いではあるのですが、
もうこんな靴を履く仕事には就けないということでしょうか。
ああまた就職の選択肢が狭まる・・・


2003年2月13日(木) 道は遠い

とりあえず今月ノルマの10首を詠んだ時点で、少し休憩。
先週詠んだ自分の歌を振り返ってみる。まだまだ削ぎ落としと詰めが足りないことを
痛感する。すでに投稿した歌だけど、つい気になって手を入れてしまう。投稿した時はできたと
思っていても、実はまだまだ動く余地があって、それに気づけない自分が情けない。
たぶん自分の感覚に溺れ過ぎて、他人の目で見ることを怠っていたのであろう。
ダンスを作ってる時と一緒である。
どちらも、自分の中を丁寧にじっくり探りつつ、核に近づいてゆく作業なのだ。
その作業にかける時間を短縮かつ濃縮して、さらっとできるようになるといいのだけど、
道は遠い。とにかく、走りながら学ぶ。


2003年2月7日(金) 本質を見失わないこと

あんまり芸がないので正面突破しかできない。
なのに、ちょっとアイデアとか思いつきが浮かぶと、ついそれにくいついてしまって、
本質を見失う傾向がある。
アイデアや思いつきはもちろん大切だけど、それだけになってしまわないよう、
警戒。

《浮く》     胡麻ほどの虫を潰して看護婦の脂浮きたる無表情なり


2003年2月6日(木) 時間のかかる作業

言葉はむずかしい。
いや、身体だってむずかしいんだけど。
短歌を作っていると、自分の言葉に対する選択の幅の狭さを思い知ります。
踊っている時も、いつも同じような動きにはまりこんで、ちっとも破れ目ができないのよね。
嘘ついてるとうまくいかないのも、一緒だと思う。
題詠は、ダンスでいえば、他人からモチーフをもらって自分の動きを作っていくのに似ている。
自分のものじゃないものを自分の中に入れていくプロセスや、いろいろあーでもないこーでも
ないって道草くったりとかして、少しずつたぐっていったりする感じが、似ている。
時間のかかる作業だけど、短気起こさずにじっくりやっていく。

《足りる》    ざあざあとコップに水を溢れさす 「足りない」って言ってごらんよ

《休み》     休みなく晴天の日々 乱丁の白いページで親指を切る


2003年2月5日(水) さらけだされるもの

とはいえやはり他の人の作品が気にはなるわけで。
同じお題でも料理の仕方はホントにそれぞれだけど、なにせ31文字の世界だけに、
否応なくさらけだされてしまうものがある。要は言葉の選択と組み合わせなのだけど、
そこから伝わってくるものの強度というか深度というか奥行きというか、そういうものの
度合い。何であれ、言葉というツールでいかに関わるかってこと。
そして他人は自分を映す鏡。わたしもさらけだされている。びくびく。

《音》      鼓膜からこぼれて耳の底ふかく降りつもるマリンスノーの音は

《脱ぐ》     びしょ濡れの靴を脱ぐ夜 あけがたに生まれる翅はひかりをはらめ

《ふと》     窓ごしの冬の日射しにうつむけばふと前髪というもの重く


2003年2月3日(月) ゆっくりゆっくりマイペース

3日目にしてもう完走者が出たようで、依然としてハイペース状態。
つい焦って中途半端なままアップしてしまいそうになるのを我慢する。
とにかく、納得の行く作品を1首でも多く作ることがわたしの場合先決問題なのだから、
向かい合うべきは自分自身。

というわけで今日も2首。

《さよなら》   ゆっくりと指をほどいてたんぽぽの綿毛とびたつようなさよなら

《木曜》     まっくらな森のあかりはちぃろちろシチューを煮込む木曜の夜

   

2003年2月1日(土) 「題詠マラソン2003」 スタート

いよいよ「題詠マラソン2003」が始まった。
参加者は162名。全員が完走したら、16200首の歌が並ぶというなんとも壮大な企画だ。
あまりのスタートダッシュの早さに、しばしぼーぜんとするわたし(笑)。
11月末までに100首だから、最低1ヶ月に10首のペースで詠めばいいのだとわかってはいても、
このハイペースさにはちょっとプレッシャーを感じる。
いかに自分のペースを守りつつ完走を目指すか、だね。
100首詠んだらどんな風景が見えるんだろうか。プロセスを楽しむ気持ちを忘れずに。

というわけで今日は2首。

《月》      水のない海の名前のいくつかを唇(くち)にこぼしてねむる新月

《輪》      夕暮れにまなこどろりと男らは競輪場から駅へ流され