2004年4月24日上程(初出:銀座東だより 2004年1月10日号)
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雑感

勝ち組、負け組

 大学を卒業後、途中2年間の出向期間を含めて5年間余公正取引委員会に在職していた。そのせいというわけではなかろうが,独占というものに対するアレルギーが強い。パソコンでも自宅では3つのOSを使っている。缶ビールを買うときでも、ついシェアの低いメーカーの商品を選んでしまう。

 一方、競争を重視する考え方への抵抗も少ない。談合よりも競争入札が好ましいのと同様、社会全体が競争に巻き込まれるのはやむを得ないのではないかと考えている。また、弁護士の職務が、依頼者の正当な権利を勝ち取ることにある以上、勝負にこだわることは重要なことではある。

 しかし最近よく目や耳にする「勝ち組」「負け組」という言葉には拒否反応を起こしてしまう。

 このような言い方は単なる勝者、敗者の言い換えにすぎないのかも知れない。しかし現実にこのような言い方がなされることの裏には、「勝ち組」の人たちが競争の当事者に「勝ち組」「負け組」というレッテル張りをして、負け組に入った人たちを自分たちと違うものとして切り捨てる考え方があるのではないか。競争という一場面での優劣の結果である勝敗を、競争の当事者の全人格、人生にまで及ぼし、勝ち組となった人と負け組となった人の格差を固定化、拡大するもののように思われるのである。

 競争が存在する以上、勝ち負けが生ずるのは自然である。しかし、競争はそれ自体が目的ではない。事業者が競い合う結果良質なサービスが安く提供されるようになり、社会全体が潤うとされるからこそ競争は重要視されるのであり、競争は消費者の利益をふやすための手段にすぎない。競争が手段にしかすぎない以上、競争に負けたことで人生失格となるわけではない。競争で負けた人たちにも再起の途が開かれている必要があるのであり、彼らは決して「負け組」として放置されて良い存在ではない。

 最近、心神喪失者が起こした事件について被告人を強制的に長期間入院させることのできる法律の制定や、(在留の事情のいかんをとわず)不法滞在者の人数を半減させるキャンペーンなど、自分たちに理解できないもの、危険と思ったものは自分たちから隔離しようという動きが強まっている。このような動きと「負け組」というレッテル張りは、レッテルを貼ったり隔離したりする者とそのようにされる者との間の格差の発生原因に思いを至らせず、格差を正当化している点で共通するものではないだろうか。競争にせかされて他者への配慮を行う余裕がない社会でなく、社会内の格差を縮小する方策を議論によって作っていく、そうした社会のあり方が求められているように思う。

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