入間郡正倉神火事件3
(しょうそうしんか)

雷が落ちて正倉を燃やす、それは貢ぎがないからだ、との出雲伊波比のお告げは
入間地方の政争、豪族の自作自演の気配がします。

丁度、中央の政変が一巡り、武蔵国の豪族にも、その影響が、ジワリとしみ込んできて
統治する者と、はじかれた者の間に、いざこざが起こります。
どんな舞台がしつらえられたのか・・・。

豪族の動き

 古墳群が入れ替わった 本当に大雑把な話です。4世紀後半から5世紀前半にかけては、群馬県や南武蔵の多摩川下流に、それぞれ大きな古墳群がつくられていました。
 ところが、5世紀末から6世紀なると、その勢力が同時に衰えてきて、今度は、行田市や東松山市(埼玉県北部)に、入れ替わるように、大きな古墳群が造られます。

 どうも裏では、大和の政権が一役買っていたようです。新しくできてきた古墳群の一つが行田市の埼玉古墳群です。その中に含まれる稲荷山古墳から出た、あの有名な金象嵌の鉄剣には、ワカタケル=雄略天皇の時、杖刀人の頭となって天下を左治したと、高らかにうたい上げています。古墳の主が根っからの地域豪族が天皇に仕える有力者に変わったことがうかがえます。       

 リツリョウがやってきた ボスは「国造」などといって、大和政権から任命されて、まだ独立に近い支配権をもって、互に影響しあっていたいたようです。しかし、その関係が破れてきました。武蔵へ、中央政府の目指す「りつりょう」・「律令体制」とやらが浸透してきて、ボスはボヤボヤしていられなくなったのです。          稲荷山古墳    

 かって、武蔵には、无邪志(むざし)、胸刺(む〈な〉ざし)、知々夫(ちちぶ)の三人の国造がいて
  无邪志は北武蔵の埼玉地方
  胸刺は南武蔵の多摩川支流
  知々夫は秩父、荒川の流域、熊谷、大里以西

 を領域としていたようです。そこに、物部氏につながる物部、大伴氏につながる大伴部、阿部氏につながるハセツカ部などの近畿の豪族に仕える人々が移ってきていて、これが現地の豪族と結びついてさらに、中央の有力豪族の配下になる状況がありました。
  
 中央の政変 まったく、今も昔もあまり変わらないようです。実力者が分立すると、中央では、「大化改新」と呼ばれるクーデターや政府のお偉方同士の争いが起こりました。どっちがやられるか生き残るかの時代です。大伴金村の失脚(540年)、物部守屋の滅亡(587年)など、最高にわかりにくい出来事が相次ぎます。

 ボスの身の振り方 中央の政争の結果は、武蔵にもただちに影響しました。勝った方も、敗けた方も、それぞれの傘の下に潜っていた武蔵のお偉方に、厳しい淘汰の波となって押し寄せました。

 大伴氏や物部氏などに密着していた地元のボスは、身の振り方を考えなくてはなりません。一例として、633年に武蔵国造に任命された、物部兄麻呂(もののべのえまろ)は、いつのまにか、勝者の聖徳太子側に付きました。その後は大出世です。

 地元豪族優先の原則で、国造に現地支配を任せていた中央も、だんだんと国造の権力を召し上げてきます。地元のボスにとっては、これまでと違った人脈や仕事の仕方に面くらい、ますます様変わりを迫られます。
 この時、今回の話題の武蔵野の物部氏と大伴氏の勢力関係に、異動が生じたことが想定されます。神火事件の遠因はこんな所にあったのかも知れません。

 入間地方に変化 北武蔵と南武蔵の中間に位置する、今回のお話の入間地方に、新たな出来事が起こってきました。

 坂戸市には、早くも7世紀後半に、これまで見たこともない、七堂伽藍を構えた「勝呂廃寺」(すぐろはいじ)が創建されます。びっくりするようなお金と作業をする人がまとまらなければできません。どうやら物部氏の一族がやったようだと云われます。最初は物部氏の氏寺だったらしいのですが、やがて郡のお寺になったようです。一方の大伴氏の消息はさっぱりです。

 毛呂や川越地方にも、新しい勢力が伸長し、国の威信をかけて造ったであろう官道「東山道武蔵路」に沿って、所沢市、川越市、鶴ヶ島市              毛呂山町古墳                                             
などに、様々な役割を持った拠点が設けられて来ます。入間郡衙ではと推定されている霞ヶ関遺跡もこの時代のものです。

 国司の赴任 中央の出先機関だという「武蔵国府」が今の府中市に置かれ、いよいよ、武蔵国府に最高権力者・国司が赴任したことが記録に残ります。

 続日本紀 大宝3年(703)秋7月5日 
  武蔵守に引田(ひけた)朝臣祖父(おおじ)(従五位下)が任命された記事です。国造に任命され、古墳の主だった武蔵の豪族とその一族の農民が、「律令体制」に組み込まれた象徴でしょうか。

 高麗・新羅郡の新設 武蔵の変化は加速されます。中央の政策が見え見えです。既存の勢力のない地域に、未開ではありましたが、それまでの区域を分割して、新しい勢力が移ってきます。

 716(霊亀2)年には、高麗郡、758(天平宝字2)年には新羅郡が新設されました。地元と中央には猛烈なやりとりと駆け引きがあったことと思われます。

 未開の荒れ地に開発の手が延べられ、武蔵野に中央政権の影響が強まりました。武蔵でも中央にまかり出て活躍する豪の者が出てきます。新しく建設された高麗郡の代表者「高麗福信」はその筆頭で、ついに中央と武蔵を通じての実力者になります。武蔵の既存の豪族は、その「高麗福信」に、引き立てられて「位」を上げたことが想定されています。

 二人の実力者 そんな状況下で、入間地方に登場するのが、「物部直広成(もののべのあたいひろなり)」、「大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)」といった実力者です。               高麗王墓

物部直広成

 広成が属する武蔵の物部氏を考えるポイントの一つに「物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)」があります。聖徳太子の舎人(とねり)で、武蔵国造に任命されたことが文章でたどれるからです。「聖徳太子伝暦」に

 『舎人物部連兄麻呂、性道心アリ。常ニ以テ斉食ス、後ニ優婆塞(うばそく)ト為リ、常に左右ニ侍ス。癸巳ノ年、武蔵国造ヲ賜フ』

 とあります。この記事は舒明天皇5年(633)のこととされます。「武蔵国造」に兄麻呂がなって、兄麻呂は物部姓であったことがわかります。行田市の埼玉古墳群から若干北寄りにある、関東の石舞台とも呼ばれる「八幡山古墳」がその奥津城とされます。

 なお、物部兄麻呂、(むらじ)とあるのは間違いで、(あたい)が正しいとされます(太田亮「姓氏家系大辞典」、森田悌「古代東国と大和政権」p42)。

 役職についた豪族 約130年後、「物部直広成(もののべのあたいひろなり)」が、8世紀の武蔵で、一躍名を挙げました。天平宝字8(764)年9月、藤原仲麻呂(=恵美押勝えみのおしかつの乱(仲麻呂・淳仁派と道鏡・孝謙派の対立抗争)の時、仲麻呂を愛発駅で討った功績により、神護景雲2(768)7月、「入間宿禰」を賜っています。神火事件の前年です。

 広成は、もののべで、を名乗っていますから、物部氏であり、郡司階層で、物部氏である兄麻呂との関係の深いことが想像できます。ただ、直接どのような関係があるのかわかりません。また、広成が国造になったのか、郡司であったのか、想像はできますが、確かなことはわかりません。もし、郡司であったら、神火事件の片方の当事者になります。興味津々です。

 先に書いた「勝呂廃寺」はその規模の大きさ、七堂伽藍をもつ構えなどから、郡寺であり、「入間宿禰」一族によって建立されたとの見解もあります。(吉川弘文館 古代を考える 東国と大和王権 p244 高橋一夫 東国の古代豪族と仏教)

大伴部直赤男

 もう片方の大伴部直赤男です。続日本紀 宝亀8(777)年6月5日に、こんな記事があります。

 『六月五日 武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男は、神護景雲三年(769)に、西大寺に商布(交易用の麻布)一千五百段・稲七万四千束・墾田四十町・林六十町を献上した。今はすでに死亡しているので、外従五位下を追贈した。』

 無冠の豪族 なんと、入間郡で、正倉が火事になった年(神護景雲3年とすれば)に、郡司とかの肩書きのない「入間郡の人」がこれだけの献上をしています。しかも献上先が西大寺です。赤男の宗教心がどれほど熱心であったかは知れませんが、西大寺の庇護を得て勢力を拡大する狙いが、計算されていたのでは、とも勘ぐれます。ただし、直は郡領級の豪族の位とされます。

 献上したのが、神護景雲3年(769)で、外従五位下が贈られたのが8年後の、しかも死後であったところにミソがありそうです。このへんについて、森田悌氏は「古代の武蔵 吉川弘文館」p40−42で、次のように分析しています。


 『・・・ところで赤男の貢献に関連して一の不審がある。神護景雲三年に貢献しながらそれに対する褒賞たる外従五位下の授位は生前に行われず、赤男死後の宝亀八年六月五日に至り追贈されているのである。

 財源不足に悩んでいた律令政府は東大寺や西大寺の築造その他のために頻りに地方豪族に対し貢献の
勧誘を行い、見返りに位階を賜叙していた。かかる場合貢献が行われると間もなく叙位を行うのが通例である。かかる通例と比較してみるに、赤男に対する叙位の遅延は甚だ異例である。・・・中略・・・

 私は赤男の叙位遅延の背景に、赤男の動向に対し中央政府が何か不審を見出すようなことがあったのではないかと推測してみたい。地方豪族が通常望み得る最高位階は外従五位下であり、赤男の貢献は外従五位下賜叙に当るものであったから、当時の入間郡内では大きな事件であり、赤男も外従五位下とともに郡内支配の要たる郡領職に就きたいとの野望をもっていた可能性は十分にあったと思う。

 赤男がかかる野望をもっていたとみてよい時期の前後に出来し、これまた入間郡内の大政治事件となったのが神火事件である。私は、一の想定として、郡領職をねらっている赤男が入間郡の現任郡司降しを図り、放火したということが考えられまいかと思う。・・・』


 二人の豪族を紹介しました。何やら、片方が郡司で、片方が騒動の張本人の前提かのように受け取られたかも知れませんが、事実、多くの学者はそのように解説します。ところが地元に住んでこの事件を追うと、またまた迷宮入りです。

広成・赤男はどこにいた?

 北か南か 肝心の御両所がどこにいたのか、北武蔵なのか、南武蔵なのか、議論が大分かれです。いくつか読みあさってみましたが、多くは「物部広成」を時の権力=郡司に置き、坂戸地方の古墳群の承継者と位置づけます。そして、大伴赤男の居住地はあまり触れられません。

 そのような中で、次のような興味ある指摘があります。

 『・・・ここで神護景雲三年の神火の黒幕ではないかとした大伴部直赤男に戻ると、東国ないし武蔵国にお
ける勢力ということを考えると大伴部直が強大であったことは確かである。恐らく前章で触れたイハカムツカリノ命に与えられた膳大伴部に由来するもので、出羽国へ移住していた无邪志直膳大伴部の如きも一族であったとみてよい。

 しかし入間郡だけをとってみると、物部直の方が伝統的雄族として大伴部直に優越していたらしい。或いは隣接する多磨郡に大領大伴赤麻呂がいたことが『日本霊異記』にみえ、赤麻呂の姓は大伴部直であったとみてよいことから、大伴部直の勢力圏の一が多磨郡方面にあり、入間郡大伴部直は多磨方面から移住してきた新興勢力とみ得る可能性がある。』 森田悌「古代の武蔵」p49

 所沢市史は

 『・・・赤男は、おそらく六世紀以来、入間地方北半部に蟠踞した、在地豪族の末裔と考えてよいだろう。・・・赤男は、入間郡北部、坂戸台地を基盤にした旧勢力と考えていいだろう。広成は所沢市周辺を本貫地にしていたようである。あるいは北部から所沢市周辺に移住した南部の新勢力だったのかもしれない。・・・』(所沢市史上p270ー271)

 として、赤男を入間北部の在地豪族の末裔、広成を南部の新勢力としています。

どうしたもんだ?

 入間地方の古墳の形成状況は、北部の坂戸、毛呂、川越、鶴ヶ島あたりに集中し、南部の入間市、所沢市方面にはわずかしか造られていません。それに反して、当時の豪族達が祀ったであろう入間郡の延喜式内社は入間市と所沢市の区域である狭山丘陵に集中しています。

 物部氏の神社が狭山丘陵に 一例として、物部氏の祖先神は饒速日命(にぎはやひのみこと)とされますが、その代表的神社が、狭山丘陵の中に「物部天神社」として鎮座しています。その他、入間郡の延喜式内社

 中氷川(なかひかわ)神社
 広瀬神社
 物部天神社
 国渭地祇(くにいちぎ)神社

は、いずれも狭山丘陵の中か付近に鎮座し、広瀬神社を除き、出雲系の神社とされます。さらに、先に紹介したイワイ神社は武蔵の国でも入間川水系の地域に点在します。イワイの神が物部氏の信奉していたものとすれば、広く、入間川水系全体に物部氏が勢力を持っていたとも言えそうです。

 話題の出雲伊波比神社の一つは狭山丘陵の中にあります。

  多摩の郡司職は大伴氏 物部氏の神々がいます狭山丘陵の南側は多摩郡です。ここには、物部氏と違って大伴氏が大領になっていたようです。大伴氏は赤がトレードマークらしく、「大伴赤麻呂」にまつわる二つの説話が残されています。

 一つは、天平勝宝元年(749)大領大伴赤麻呂が亡くなった。そしたら黒斑の牛になった。赤麻呂は生前に一寺を建立したが、勝手に寺の所有物を使って返さなかったので、役牛に生まれ変わって使役されることになったのだ。

 もう一つは、鴨の里に住む吉志火麻呂が防人に行くことを命ぜられた。若妻と離れるのがいやで、親の喪に服すると避けられるので、実の母を殺害しようとした。すると大地が裂けて、火麻呂自身が横死をした。

 という話です。この時、火麻呂を防人に選んだ郡司が大伴某と書いてあり、大領大伴赤麻呂であろうと推測するわけです。

 この話は、「日本霊異記」にでてくるもので、仏教説話であり、直接歴史的に存在を確かめられません。多摩郡の郡司が大伴氏であったことの反映であろう、と推測する資料です。755(天平勝宝7)年2月、大伴家持は防人閲兵のため難波で、防人の歌の蒐集に携わっています。同族としてどんな思いがあったのでしょう。

 さて、さて、大伴氏はどこに? 物部氏はどこに? 際限なく、こんがらがります。

 多摩も含めて、これからが楽しみ よほど素直でないらしく、こうわからないことだらけになると、ますます、赤男と広成の基盤が知りたくなります。そして、入間郡だけでなく、多摩郡を含めて範囲が拡がりそうです。

 しかし、どうやら、この問題はもっともっと資料が集まって、新しい発見が積み重ねられないと、本当の姿を現しそうもありません。その間、夢中で糸をたぐる楽しみに耽る、そのチャンスを与えてくれているのかも知れません。

 ということで、中途半端ですが、取りあえずのお話です。

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