入間郡正倉神火事件2
(しょうそうしんか)

8世紀、太政官符という確かな史料が、仕事を神のお告げで処理したことを伝えます。
本当に、それがまかり通ったのでしょうか?

どうして、どうして、担当者は百も承知で運用します。
ところが、その占った場所も、お告げになった神の所在も確定できません。

取りあえず、わかることだけ迫ってみます。

入間郡衙の候補地

 「ぐんが」と読みます。たいてい、一度では変換できません。死語みたいですが、要するに、入間郡の役所です。執務場所であり、倉庫(正倉)であり、宴会や祭典の場所でした。その跡だろうと推定される遺跡は、いろいろ意見が入り乱れますが、所沢市史(上 p249)は次の箇所をあげています。

 東の上遺跡 所沢市久米                               霞ヶ関遺跡現況
 若葉台遺跡 鶴ヶ島市富士見他
 揚櫨木遺跡 狭山市上奥富揚櫨木
(うつぎ)
 宮地遺跡   狭山市笹井
 今宿遺跡   狭山市上広瀬今宿
 宮ノ越遺跡  狭山市柏原宮ノ越
 霞ヶ関遺跡  川越市的場

 さらに、考古学関係者からは坂戸市塚越御門周辺、鶴ヶ島市と坂戸市にまたがる若葉台遺跡B地点などが指摘されています。

  どの遺跡とも、まだ、これがなんだと性格が決まったわけではありません。みんな候補地です。これから周辺を含めてさらに発掘が進み、特に、東山道武蔵路との関連を含めて全体像が描かれて、はじめてその性格が明らかにされて来るものと思われます。その日が待ちどおしいです。

 まだまだ不確定であることを前提に、仮に、所沢市久米の「東の上遺跡」が入間郡衙とすれば、正倉神火事件の神は、その位置から、入間市の出雲伊波比神社=祝神社、寄木明神が候補地になりそうです。

 また、川越市的場の「霞ヶ関遺跡」が入間郡衙とすれば、茂呂山町の出雲伊波比神社=毛呂大明神、飛来大明神が候補地になりそうです。 坂戸市や鶴ヶ島市、狭山市の場合もこちらがふさわしそうです。 

霞ヶ関遺跡に注目                    

 大型掘建柱建物跡の発掘、「入厨(いりくりや)」と書かれた墨書土器の出土、短期間に急激に住居遺跡数が増加している傾向、東山道武蔵路、入間川との位置関係、などから、霞ヶ関遺跡が注目されます。

 山川出版社 埼玉県の歴史では、周辺の遺跡も含め『入間川左岸に位置する霞ヶ関遺跡を中心に、入間郡関連の役所の存在が想定される』としています。 p61

 左 川越市立博物館第16回企画展「川越氏と川越館」資料

 川越市立博物館第16回企画展「川越氏と川越館」の資料では、東山道武蔵路と周辺の遺跡との関連を図示しながら

 『・・・「入間郡衙」跡と推定されます。郡衙が置かれ、交通の要である駅家が存在したと考えられるこの地域は、古代において武蔵中央部の重要拠点であったと言えるでしょう。』 としています。

それで確定か? 

 いろいろな遺跡が関連してきますが、現在の全体的な印象からは、川越市の「霞ヶ関遺跡」が郡衙関連としての性格が強く、所沢市の「東の上遺跡」は、東山道武蔵路の駅家としての性格が強いとする意見が多いようです。今後じっくり詰められて行くものと期待されます。

神火の真相は?  

 それでは、神火の真相は何だったのでしょう? 神火と称する事件は、あちこちで起こったようです。武蔵では、神護景雲3年(769)、宝亀3年(772)のどちらかに起こったことを紹介しましたが、宝亀4年(773)2月には、下野(しもつけ)で、さらに同じ年の6月には、上野(こうずけ)で、同じような事件が起こっています。

 よくも集中して、この時期に雷が落ちて正倉が焼けるものと感心します。しかし、いよいよ中央もたまらなくなったらしく、対応策を講じはじめます。こんな記事が続日本紀に記録されます。
  宇治谷孟(つとむ) 続日本紀 下 現代語訳 講談社学術文庫 から引用します。


 宝亀4年(773)2月6日 下野の国衙で火災が起こり、正倉14棟と米穀・糒(ほしいい=貯蔵用の乾燥飯)25,400余石を焼いた。

 宝亀4年(773)6月8日 上野国緑野郡の郡衙(郡司の庁)で火災が起こり、正倉8棟・米穀の穂首334、000余束を焼いた。                     宇治谷孟(つとむ) 続日本紀 現代語訳 講談社学術文庫
 
 宝亀4年(773)8月27  諸国の郡司で官物を焼いた者は、主帳(さかん)以上、皆現職を解任する。政務によって入京していたり、放火の賊を捕まえ功績が顕著な者は、事を量って優遇する。また、代々郡司を歴任している者であっても、心に非望を抱き、故意に放火に及んだ者は、一切昇進の選考に与からせない。

 郡司が欠員の場合は、郡内より清廉実直でその時々の政務に堪える者を選んで、適宜任命する。また、その地の軍団の軍毅で消火に当らなかった者は、郡司に準じ解任する。                 
 
 延暦5年(786)6月1日 一部省略 また天皇は次のように勅した。
 人民を慈しみ育み、管轄内を取り締まり非法を糺明することは、国の官司も郡の官司も職務は同じである。それ故、国司と郡司の功績と過失はともにかかわり責任があるところである。           

 しかし近年は正倉を焼失することがあっても、郡司のみに罪を科して国守の罪を問わない。このことは、いささか道理に背いている。どうして法の意図するところにかなっていると言えようか。

 今後は、国司らの公廨没収して、焼失した官物をすべて補填せよ。事件が起こった郡の郡司は恩赦に与(あず)かる範囲には入れない。

 延暦5年(786)8月8日 一部省略 天皇は次のように勅した。
 正倉が火災を起こすのは必ずしも神によるものばかりではない。というのは、譜第(郡司になる資格を持つ者)の輩が同輩を貶(おとし)めようとして互いに火を付け正倉を管轄している官司が虚偽の納穀をごまかすために放火しているからである。

 今後は、神による火災か人の放火であるかを問わず、その時の国司・郡司に損失を補填させよ。そのために現職の官人を解任したり、郡司となる資格のある家柄を絶えさせてはならない。


 少し長い引用になりましたが、さしもの中央政府も、宝亀4年8月の段階で『諸国の郡司で官物を焼いた者は』として、郡司階層の火付けに言及します。また、延暦5年8月の段階で『正倉が火災を起こすのは必ずしも神によるものばかりではない。』として、神火が神の怒りによるものではなくて、国司や郡司などの指導者層の利益と争いが原因であることを正式に認めざるを得なくなりました。

 そして、解決の方法として『その時の国司・郡司に損失を補填させよ』としています。

 ただ、補填だけで『現職の官人を解任したり、郡司となる資格のある家柄を絶えさせてはならない。』とするあたりが吹き出したくなります。この程度に押さえなければならない余程の理由があったのでしょう。

 どうやら、出雲伊波比の神様のお告げの背景は、はっきりしてきました。謎であった「郡家郷」も、もしかしたら霞ヶ関遺跡付近に設定できるかも知れません。さて、それらを動かし、問題になっている事件のもとになる郡司階層はどのようになっていたのでしょう?

霞ヶ関遺跡の周辺



入間川の堤防から 左方向 霞ヶ関遺跡 右 河川
ここが、入間郡衙とすれば、東山道武蔵路と共に入間川の水運も利用できた位置にある。

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