樋口一葉
(本郷)
幼年期から、終焉まで本郷は一葉にとって
離れられない場所だった。
そこには、今でもひたむきな一葉の姿が浮かんでくる。
単車が通るたびに、身をかわすのが難しいような細い菊坂下町の路地
その両側には、丹誠込めた鉢物があふれている。
カメラを構えていると、何やらお経の祈りの間に、ラジオやテレビの音が入って
今にも、明治・大正の生き様が声を掛けてくるような路地である。
樋口一葉菊坂旧居跡
(本郷菊坂町70番地=本郷4ー32・31)
一葉の旧居は、本郷4丁目の31番と32番の表示のある間の露地を入る。菊坂でも一番低い「菊坂下町」と呼ばれたところである。奥に、共同ポンプ井戸がある。当時はつるべ井戸であったが、一葉も使ったものという。
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本郷4丁目の31番と32番の表
示のある間の露地を入る。 |
一葉の使ったという井戸がある。
勿論当時はつるべ井戸。 |
菊坂の一葉旧居跡は向かい合うように二つある。
@路地の入り口に立って、左側、路地を入ってポンプの左側が、一葉一家が最初住んだところ。
Aそれが、明治25年5月5日に、わざわざポンプの右側の家に転居する。前の家に比べて一部屋多い。
妹が一部屋欲しがったということになっているが、桃水が麹町(最初は芝南佐久間町に住んでいた)から、西片町(この家から7−8分)に引っ越してきたのは、ほんの2ヶ月前であった。一葉日記には、「四日、半井君のもとを訪ふ。転宅一条を物語りて、原稿七日までと日延をなす。五日、晴れ。転宅。」と書かれている。
一葉は、生涯に何回も転居を繰り返すが、この菊坂への転居は明治23年(1890)9月、一葉、18歳のときである。明治26年7月2日、下谷竜泉寺町に転居するまで、ここに住んだ。
明治22年7月、父が死亡し、一葉は母と妹3人で、芝に住む兄の虎之助の厄介になったが、虎之助と母の折り合いが悪く、悪化するばかりで、仕方なく、菊坂へ移ってきたという。
この頃、一葉は母の反対を押し切って、父が入れた私塾「萩の舎」(はぎのや)に通っていた。しかし、父なき後、一葉が戸主となり、和服の仕立てや洗い張りで生計を立てる状況で、生活は苦しかった。
当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭であり、収入は、3人で月5円から6円程度と計算される。家賃は2円50銭というから、その生活ぶりが想像できる。不足は借金や質入れで補った。近くの『伊勢屋質店』はなじみで、店主によく面倒を見てもらったという。ちなみに、崖上の常磐会にいた正岡子規は松山藩の給費生であったが、月額7円が給付された(明治25年)。
ここへの転居は、近くに姉が住んでいたこと、「萩の舎」が割と近かったことなどが想像されている。当時の家は、現況と違って、庭のある一戸建てであった。母はこの庭で茄子の苗を育てて、萩の舎の師匠歌子に届けている。(明治24年10月9日の日記)
◎一葉の恋
一葉一家の生活のもとになる、仕立や洗い張りの得意先の一人に半井桃水(なからいとうすい)がいた。東京朝日新聞の記者で小説を書いて、現在の港区西新橋に住んでいた。一葉は大きな風呂敷包みを抱えて、そこまで本郷から往復した。恐らく徒歩であったろう。ぞっとするような距離である。
一方、一葉の周囲では、「萩の舎」の親友の花圃が、坪内逍遥の指導のもとに作品「藪の鶯」を発表し、才媛として、名がひびき始めていた。一葉の心中穏やかならず、吾もと、文壇への登場へのきっかけを望んでいた。 明治24年4月15日、一葉は妹の友人 野々宮起久(ののみやきく)を通して、桃水に指導を依頼する。
一葉は、初対面の桃水に「限りなく嬉しきにも まず涙こぼれぬ」と日記に書くほど感激し、魅せられた。生活窮迫の中で、上野の図書館通いを続け、習作を重ねて、桃水に意見を求めた。客観的に見れば、桃水と一葉の作風が合うわけがない。しかし、それとは別の感情が駆り立てている。その年の10月には、「・・・文ども そこはかと書いつづるに 心ゆかぬことのみ多くて 引きさき捨て捨てすること はや十度にも成りぬ・・・」と日記に嘆いている。
そして、翌年(明治25年)2月4日、ようよう書き上げた、初作の「闇桜」の草稿を持って、壱岐坂から、平河町を抜けて、麹町の桃水のもとへと急ぐ。行く日は雪、 「真砂町のあたりより綿をちぎりたるように大きやかなるも、こまやかなるも小止みなくなりぬ」として、大雪の中をいとわず、人力車に乗る。
弾むような日記の一部である。その日、桃水は同人雑誌「武蔵野」の刊行を告げ、「闇桜」を創刊号に載せるという。はじめて作品が世に出るきっかけである。この時代の一葉に日記は、桃水のことで埋まっている。
桃水もまた尋常でない一葉の才能に惹かれたのであろう、「闇桜」をのせた「武蔵野」は自費出版であった。そして、明治25年3月に、一葉の住む菊坂に近い西片町に転居してきている。
しかし、桃水とは「萩の舎」の仲間、教師の反対など様々の理由で決別する。明治25年6月22日の日記に詳しい。以後、一生結ばれぬ想いのその後は一葉日記に込められている。
まさに、奔流のような時代がこの家で過ごされた。
半井桃水旧宅跡
半井桃水は、対馬藩の典医の出だという。東京朝日新聞の記者として、論説と小説を書いた。「くされ縁」「小町奴(こまちやっこ)」「海王丸」「業平竹(なりひらたけ)」などの作品がある。
最初は芝区南佐久間町(現在港区西新橋1丁目、愛宕下の恵知十(えちじゅう)という寄席の裏)に住んでいた。明治24年、麹町平河町(現在千代田区平河町)に転居した。一葉の「闇桜」を載せた「武蔵野」はここで発行される計画であった。その後、明治25年3月、一葉の住む菊坂町に近い、駒込西片町10番地河村重固(しげのり)方に(現在文京区西片1丁目)に転居してきた。 転居といっても、河村家への同居のようでもあった。
転居後、数日をして、「武蔵野」は発刊された。明治25年5月5日、一葉も井戸の反対側に引っ越していることは先に紹介した。
文京区西片1丁目の半井桃水宅は、ここにあっただろう程度で、番地で追う以外にはない。
西片町は文京区教育委員会の案内板によれば
『・・・明治以降、東京大学が近い関係で、多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者、史論家)、坪井正五郎(考古学、人類学者)、木下杢太郎(詩人、評論家、医者)上田敏(翻訳者、詩人)、夏目漱石(小説家)、佐々木信綱(詩人、国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため、西方町は学者町ともいわれた』
ということである。わが半井桃水の名がないが、借金に追われて逃げていたとの話もある桃水、あるいは一葉に思いを寄せて転居してきたのだろうか、などと思を巡らせながら坂道を歩くと、静かな町が彩られて見える。地図をたよりに、言問い通りから「石坂」を上がっても、白山通りから「福山坂」を上がってもこられる。
一葉の婚約者は町田の人
桃水に逢う前、一葉は婚約したことがある。明治22年、一葉18才の時である。一葉の父は、自分の死期が迫ったとき、枕元で、当時出入りしていた学生の渋谷三郎に一葉と一緒になってくれと頼んだ。
三郎は婚約者に選ばれ、その場では承諾した。だが、一葉の父が亡くなり、一家が困窮する中で、三郎の方からの申し入れによって、破談となり、婚約は解消された。
渋谷三郎は町田市を故郷とする熱烈な自由党員である。後に、新潟県三条区裁判所の検事になった三郎から復縁を求められたが、一葉は応じていない。明治28年、三郎から年賀状が届き、一葉は
忘れぬも さすがに嬉しからころも 妻にといひしなりと思えば
と詠んでいる。(一葉日記 明治28年1月3日)
一葉は、下谷龍泉寺に住む頃、「国家の大本にあり」と志を日記に書き、小間物屋を閉店する辞に、「朝野の人士 私利をこれ事として 国是の道を講ずるものなく・・・」としているが、三多摩浪士の魂を持っていたであろう三郎への重なりがあるのだろうか?
天啓顕真術会 久佐賀義孝
明治27年、天啓顕真術(てんけいけんしんじゅつ)会 久佐賀義孝との出会いは、一葉にとって何だったのだろうか?
この頃、下谷竜泉寺町で始めた一葉の商売は繁盛しなかった。借金をするにも方策がつきた。そこで訪ねたのが、占い師というか、相場師というか、素性のよくわからない天啓顕真術会 久佐賀義孝のもとである。
一葉が相場をするのでと、元手の借用の申し込みをした。久佐賀義孝からは妾になれば金を出すと切り出される。一葉日記では久佐賀をさげすむが、その後も、やりとりがあった。
久佐賀義孝の家は鐙坂(あぶみざか)にあった。菊坂に住んだときと時代が違うが、菊坂の家から直ぐ近い。
正面の階段を上がって狭い道を進むと鐙坂に出る。
この画像ではわからないが、階段の上に屋根付きの「鐙坂学問所」の小門がある。
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鐙坂 上り坂はよく紹介されてい
るので左側の右近山との関係を
写してみた。 |
この先は目白通りに達するが
それまでの右手に天啓顕真術
会の本部があった。 |
一葉の桃水や久佐賀義孝との借金については、瀬戸内寂聴が わたしの樋口一葉 小学館に、こう書く。
『ドストエフスキーがばくちですった借金の返済に追われて書きつづけて古今の傑作を遺し、一葉は貧に追われて一家の糊口のために書きつづけて名作を残した。・・・・
桃水も佐久賀も、一葉の官能の秘密に無縁で過ぎたとしたら、一葉にそれを教えたのは、現身ではない金の雨の美神か、角をかくした黒衣のメフィストフェレスであったのだろうか』同上p175−177。
一葉終焉の地
(丸山福山町4番地=文京区西片1−17−17)
言問い通り、菊坂下から「石坂」を上がって、半井桃水の家を通って白山通りに出て春日駅方面、地下鉄都営三田線春日駅を小石川方面口に降りて、白山通りを白山駅方面に向かって歩いても、ほぼ真ん中辺に、興陽社ビルがある。 1階に「コナカ」とカタカナで書かれたビルである。
白山通り小石川1丁目付近
画像右のビル(コナカ)の前に「一葉 樋口夏子碑」がある。
ここが、一葉最晩年の作品を集中して生みだした本郷丸山福山町の家があったところである。一葉は、明治27年(1894)、5月1日、竜泉寺の家から、ここに(本郷丸山福山町4番地=現在西片1−17−17)転居した。23才の時であった。
もの書き一筋の道のため、商売をたたみ、あらかじめ生活費を借金しての出直しである。竜泉寺には、10カ月住んだ。この間には、「花ごもり」のほか、あまり作品は書けなかった。そして、天啓顕真術会 久佐賀義孝との出会いなどをしている。
ここ、丸山福山町は新開地で、銘酒屋(私娼宿)と呼ばれる、新商売などがはやるところだった。一葉は驚くべきエネルギーで執筆にあたる。 時には、私娼宿につとめる遊女の手紙を代書したりする。これらが、作品の中の人物像として活きて、菊の井の力などとなる。
「暗夜」「おおつごもり」を「文学界」に発表する。一葉が、一挙に花開いた感じで、平田禿木(とくぼく)、馬場孤蝶、上田敏、川上眉山、斉藤緑雨、横山源之助などが相次いで訪れ、サロンとなる。
明治28年、たけくらべ、にごりえなどを発表した。
明治29年11月23日、24才で亡くなった。
銘酒屋の路地は、横断するのに息が切れるほど幅広い白山通りとなった。そのビルの前に、記念碑が建てられて、時代を画した才女をわずかに偲ばせる。
「一葉 樋口夏子碑」はコナカの前にある。
昭和27年土地所有者の笹田誠一氏の私費よってに建てられた。
丸山福山町4番地の家は、この碑の後ろにあったという。
丸山福山町4番地の家は裏側の阿部屋敷の崖に接するように建っていた。そのため、明治43年8月台風の時の崖崩れによって倒壊してしまった。
一葉が住んだ福山町の家の隣に崖が残っていたが、何やら工事が進められいた。(99.07.01)
これを見て、当時の状況を語られることが多かったため、さびしい気分になる。
一葉碑は土地所有者の笹田誠一氏によって建てられた。撰文は野田宇太郎、岡田八千代、揮毫は平塚らいてうによる。碑面の文は、一葉日記の明治27年(1894)、5月1日、竜泉寺の家から、ここに転居した時のものが撰文された。
『花ははやく咲て散がたはやかりけり。あやにくに雨風のみつづきたるに、かぢ町の方上都合ならず、からくして十五円持参、いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有りけり、守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず、家賃は月三円也、たかけれどもこことさだむ。
店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわずらはしく心うき事多ければ得かか(書)ぬ也。
五月一日 小雨成しかど転宅、手伝いは伊三郎を呼ぶ。』
注
かぢ町の方・・は、神田鍛冶町に住む一葉の父の友人に50円の借金を申し込んであったのが、都合がつかず15円しか持参されなかったという意味。
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一葉略年譜
一葉が少女時代を過ごしたのは、ここから近く、東大赤門の道路を隔てたむかい側、法真寺(本郷5−27−11)の東隣であった。ここ菊坂時代は、18才から22才までを過ごすが、師との関係や生活苦などで心身ともに疲れ果てるなかで、「うもれ木」が「都の花」に掲載された。質店「伊勢屋(菊坂に現存)」に通ったのもこの頃のことである。
本郷で、関わりのあることを年譜にまとめる。
明治26年(1893)一葉22才。
この年は、一葉にとってピンチだった。筆が進まず、雪の2月、「万感ここに生じて散乱の心ことに静めがたし・・・」(2月27日 日記)状態が続く。
物質的、精神的両面の打開からか、商売を始めることを決心する。
7月15日から、転居先を探し始め、7月20日、浅草吉原の知人のつてで下谷竜泉寺町に移った。開店資金を得るため、家財道具を売り払い、荒物、駄菓子の雑貨屋を開いた。俗称大音寺前といわれるところで、吉原の近くである。一葉は神田に仕入れに歩き、妹が店番をした。12月文学界に「琴の音」を発表する。
明治27年(1894)一葉23才
一葉に画期ともいうべき事が起こる。天啓顕真術会 久佐賀義孝との出会いである。一葉の商売は繁盛しなかった。借金をするにも方策がつきた。そこで訪ねたのが、占い師というか、相場師というか、素性のよくわからない天啓顕真術会 久佐賀義孝の家である。
約束もしない突然の訪問だったらしいが、女相場師になる話や借金の申し込みに対し、「妾」話が出たらしい。4月には、物質的な援助を求める手紙を出している。多分一葉にとって大きな転機であったのだろう。そして、ついに文筆一つに徹する決心をしたのか。
5月1日、商売を止め、前年転居してきた竜泉寺の家を、10カ月でたたみ、本郷丸山福山町4番地(現在西片1−17−17)に転居した。
銘酒屋(私娼宿)と呼ばれる、新商売の活発な新開地であった。一葉は余念なく執筆にあたる。 時には、私娼宿につとめる遊女の手紙を代書したりする。これらが、作品の中の人物像として活き、菊の井の力などとなる。
「はなごもり」「暗夜」「おおつごもり」を「文学界」に発表する。
明治28年(1895)24才
この年、「たけくらべ」「うつせみ」「行く雲」「にごりえ」一挙に花開く。
明治29年(1896)25才
鴎外、露伴、緑雨の「三人冗語」が諸作品を激賞
文壇に名が高まる。
11月23日 死。
鴎外が馬で葬儀に華を添えるとの申し出あり、妹断る。(邦子 談)
☆平塚らいちょうの一葉評
一葉には、一葉自身の思想がない。問題がない。創造がない。けれど、この如きを一葉に求めるのが、そもそものあやまりかも知れない。・・・まして、婦人の自覚問題や、新しい女などには、むしろ没交渉で活きているに相違ない・・・(小学館 群像日本の作家 3 樋口一葉 P53)
☆「一葉日記」の現代語訳 「樋口一葉日記」 高橋和彦 アドレエー社 \2,800円
☆槐一男 一葉の面影を歩く 大月書店
旧伊勢屋質店
(本郷5ー9ー4)
菊坂を戻る。蔵と二階建ての古いたたづまいの一角がある。「一葉ゆかりの旧伊勢屋質店」である。万延元年(1860)創業、昭和57年廃業。菊坂時代だけでなく、一葉がよそに転居してからも、一生縁は続いたという。
一葉が亡くなったとき、主人は香典を届けて弔っている。
菊坂(画像の右側中央)に、旧伊勢屋質店がある。
店は営業を止めて(戦前)いるが、当時の姿がそのまま残されている。
土蔵と格子窓に車除け
一葉がどのような思いで通ったのか胸を打つ。
瀬戸内寂聴は
『・・・このごろしきりに思うんですけれども、やはり人間の才能の分量というものはもう決まっておりまして、早死にする人は早死にする時点で持っているものを全部出しきって死んでいるような気がするんですね。
・・・一葉は、作品の数は少ないけれども、明治以後の日本の若い文壇の中で、女ではただ一人の職業作家として成功しました。・・・だって一葉は生きているときにあれだけ認められて死んだじゃないか、もって瞑すべしだと思うんです。』(瀬戸内寂聴 わたしの樋口一葉 小学館 p223−224)
といっている。本郷を歩くとき、歴史は時系列をそのまま物では示さないが、一葉の本郷時代を語る雰囲気が、この地に住む人のみんなで守られていることを実感する。
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