本郷 1

武蔵野の文学散歩で、明治・大正の雰囲気を、今に、残すところを探すとすれば
本郷・小石川地区でしょうか。

『本郷界隈』

ぞっこん惚れ込みそうな誘い言葉です。

「界隈」は、ビルの片隅に追いやられましたが
歩くところ そこここに

大事なことが、向こうから、出会いを待っているようです。


 『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』

 先ずは、川柳に先導されて、地下鉄丸の内線 本郷三丁目に下車します。

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本郷3丁目交差点
直進すれば、東大右折は湯島、左折すれば後楽園
今回は、左折する。


かねやす(洋品店)
 本郷三丁目駅を出て左に歩くと、目の前が本郷通りと春日通りの交差する十字路「本郷三丁目交差点」。
 角に「かねやす」という洋品店のビルがある。

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本郷3丁目かねやすの全景 今は洋品雑貨を扱っている

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店の左側に、こんな川柳が付けられている。

  江戸川柳は当時の庶民の気分を見透かすようにその景観を伝える。NHK大河ドラマの「吉宗」でも紹介されていたが、享保2年(1717)、江戸の大火を契機に、幕府は江戸町火消し「いろは組」を創設(1720)し、同時に、江戸市中の町家を塗屋(ぬりや)、土蔵造り、瓦屋根とする奨励策に乗り出した。大岡越前守の提案だという。

 「かねやす」も塗屋、土蔵造り、瓦屋根にした。従来からの木造の家々が連なる町筋に、その造りが、丁度、境目をなしたらしい。当時の本郷は、現在の本郷通り=かっての中山道をはさんで、町屋の一定の賑わいがある他は、大名・旗本の屋敷や寺院が続く場所であった。

 その享保年中(1716ー35)に、口中医師(=歯医者)、兼康祐悦(かねやすゆうえつ)が乳香散(にゅうこうさん)という歯磨きを売り始めたのが、この店の最初という。小間物屋も兼ねていた。

 「・・・かね安にて小間ものをととのう・・・」 明治の中頃(24年8月)には、この近くに住んだ樋口一葉もこの店に通っていて、早くも何やらそわそわさせられる。直進すると、東大の「赤門」を通り、『本郷追分』に出るが、今回は、「かねやす」を左に回って、春日通を後楽園方向に進む。

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相変わらず激しい交通が続く

喜之床(きのとこ)=新井理髪店(アライビル)
 (本郷2−38−9)

 約100メートルほど行くと、角地にアライビルが建っている。「啄木ゆかりの喜之床旧跡」である。

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左側のビルにアライとあるがこの2階が喜之床。今は明治村に移築されている。

  啄木が明治42(1909)年から、明治44(1911)年まで住んだ所である。啄木は、それ以前も(明治35=1902年頃)、上京と帰郷を繰り返しているが、北海道で悶々として放浪生活を送った中で、明治41(1908)年、文学へと意を決して上京する。その時以来本郷・小石川に住んだ。本郷時代は3期に分かれる。

 @最初は、金田一京助の世話で、現在の「オルガノ」の敷地内にあった「赤心館」に同宿した。
 A4ヶ月で、近くの蓋平館(がいへいかん)別荘(現在の大栄館)に下宿を変えた。理由は下の年譜に記す。
 B明治42(1909)年、蓋平館から、ここ、喜之床に移った。その後、明治44(1911)年小石川久堅町に転居する。

 啄木も、家族と一緒に住みたかった。蓋平館では、3階の3畳間の下宿だったので、既に結婚していたが家族を呼び寄せられなかった。貧困のどん底にあえいでいたが、明治42年の3月1日、朝日新聞社(校正係)に入社し、生活の安定が得られた。それを機に、同居が可能である、ここ、喜之床に転居したようだ。新築間もなかったという。

 ◎『喜之床(きのとこ)』は明治末期の典型的な店舗家屋として、1978(昭和53)年の春日通りの拡張を機に、岐阜県犬山市の明治村に移築された。

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アライビルの右側に、現在もこの建物がある。ムードが喜之床に似ている。

 本郷と啄木の関わりは深く、今後も出てくるので、略年譜に関連を整理する。

 ◎啄木年譜(菊坂町時代、金田一京助との関係)

 明治19(1886)年2月20日 岩手県南岩手郡日戸村に生まれる。
  (明治18年10月27日生まれの説もある)
 明治35年(1902)16才 10月「明星」に短歌1首載る。10月27日盛岡中学退学。
   31日、詩人となることを目指して、与謝野鉄幹・晶子を頼って上京。経済的にも、内面的にも憔悴。 
 明治36年(1903)17才 2月 父親迎えに上京、帰郷。
 明治37年(1904)18才 堀合節子と婚約の合意成立。処女詩集「あこがれ」刊行目的で上京。
   12月26日、父宝徳寺住職を罷免される。 
 明治38年(1905)19才 5月3日処女詩集「あこがれ」刊行
  堀合節子と結婚 6月4日盛岡の新居に入る。父母、妹同居。
 明治39年(1906)20才 4月14日渋民村尋常高等小学校勤務、月給8円。
  12月29日 長女京子誕生。
 明治40年(1907)21才 校長排斥運動、村内騒然、校長転任、4月21日 啄木免職。
  一家離散(啄木は妹と函館、妻子は盛岡の実家、母は渋民村知人宅)。
  6月11日 函館区立弥生尋常小学校代用教員となる。月給12円。
  9月16日 札幌 北門新報社に校正係として入社。
  9月28日 小樽日報社記者となる。野口雨情と出会う。貧困。
 明治41年(1908)22才 4月家族を函館に残し、上京。
 ◎5月2日 与謝野鉄幹と森鴎外の観潮楼歌会に出席。北原白秋と知り合う。
 ◎5月4日 金田一京助の世話で「赤心館」に同宿。 
 ◎啄木「赤心館」で、小説「菊池君」「病院の窓」「母」「ビロード」「二筋の血」を書く。
   どれも売れず、タバコ銭にもこと欠く。
 ◎9月6日 蓋平館(がいへいかん)別荘に下宿を変える。
  下宿代をめぐる上記のいきがかりから、変えたもの。京助3階の6番、啄木9番。
  啄木は3畳ほどの部屋の窓から富士山がよく見えると喜んだという。
  京助 三省堂に勤める。月給30円。国学院大学非常勤講師になる。
  啄木は京助を
   興来くれば
   友なみだ垂れ 手を揮(ふ)りて
   酔いどれのごとくなりて語りき
   と詠む。
  11月、12月 啄木 東京毎日新聞に長編小説「島影」を連載。1日2円。
    
 明治42年(1909)23才
  3月1日 啄木、朝日新聞社入社。校正係。月給25円。
  4月7日 ローマ字日記を付け始める。
   この頃の啄木は私娼窟をうろつき、荒廃する。
   妻に読ませたくないためにローマ字日記を書いたという説がある(高井有一)。  
 
 ◎6月16日、『喜之床(きのとこ)』に転居。
  妻子と両親を迎える。宮崎郁雨(みやざきいくう)が付き添う。郁雨は啄木の妻節子の妹と結婚していた。
  この時、啄木は蓋平館に119円の借金があったが、京助の取りなしで10円ずつの月賦にしてもらった。
  ローマ字日記終わる。
  10月2日、生活苦と病苦にたえかね、妻節子長女京子を伴い、盛岡の実家に帰る。
        金田一と新渡戸仙岳の尽力により10月26日、節子帰る。
  11月末から、「弓町より(食うべき詩)」を「東京毎日新聞」に連載。
  12月28日 京助 林静江と結婚する。 啄木が貸本屋との縁で取り持ったもの。

 明治43年(1910)24才
  10月、長男真一誕生。歌集「一握の砂」の出版契約成立。稿料20円。月末、真一死。節子産後病弱。
  12月「一握の砂」刊行、歌壇に地位を確立。東京毎日新聞、東京朝日新聞に秀歌発表。
  この頃、啄木は金田一京助と気まずくなる。

 明治44年(1911)25才
  8月 宮崎郁雨の援助で小石川久堅町(ひさかた)74番地に転居。小石川 5-11-7。宇津木マンション。
     玄関2畳と4、5畳、8畳(又は6畳)の居間と台所、家賃は9円。母発病。
  9月 一家の窮乏と感情の不和募り父が家出。
     妻とのトラブルが原因で、親友で義弟の宮崎郁雨と義絶。

 明治45年(1912)26才
  3月母永眠。
 
  4月啄木衰弱し、父北海道室蘭から上京。
   病床にあり、文学活動はなく、土岐哀果の奔走で第二歌集「悲しき玩具」の出版を契約、稿料20円。
   京助 「新言語学」の稿料20円の半分10円を、妻に頼んで啄木に届ける。
  4月13日午前9時30分、26才の短い生涯を閉じた。父、妻、若山牧水がみとった。京助が骨を拾う。
   墓 函館立待崎

 明治46年(1913) 
  5月5日 妻節子 肺結核のため死去。

 ☆寺山修司の啄木評(小学館 群像日本の作家 7 石川啄木 p48-58) 
   啄木における「家」の構造あり。

 啄木はここに住んで、京橋の滝山町にあった朝日新聞社まで
春日通を上野広小路まで市電を乗り継いで通った。夜勤で遅くなると上野広小路からの市電が無くなり、歩くことになった。湯島天神の近くを、『切通し坂』と呼ぶが、『悲しき玩具』の中で、次のようにうたっている。

途中にて乗換の電車なくなりしに
泣こうかと思ひき
雨も降りてゐき

二晩おきに
夜の一時頃に切通の坂を上(のぼ)りしも・・・
勤めなればかな

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歌碑は切通し坂の中程、湯島天神寄りに立っている

 春日通を横断して、本郷4丁目の方に向かう。「文京ふるさと歴史館」がある。たっぷりとかってのこの付近の様子を伝える。そのまま進むと、真砂町のからっとした高台に出る。ここに、坪内逍遥旧居があった。 

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文京ふるさと歴史館
この通りは、すがすがしい。

周辺はビル街になっている
が、逍遙の頃を偲ばせる建
物も直ぐ近くに残っている。

坪内逍遥旧居・常磐会跡

 逍遥は、明治17年(1884)から明治20年まで、早稲田大学の前身である東京専門学校の講師をしながら、ここに住んだ。26才の時のことだ。その後、直ぐ隣の貸家に移った。

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坪内逍遥旧居・常磐会跡、今は企業の研修所になっている。

 坪内逍遙や常磐会のことは、司馬遼太郎の 街道をゆく 「本郷界隈」 に限る。手際よく、詳しくて、語りの深さに脱帽するばかり。

 『逍遙にとっても、日本文学にとっても、この家での三年間は重要であった。明治17年に入居して、 その翌年に、近代文学の理論書ともいうべき「小説神髄」を書き、さらにその理論の実例ともいうべき「当世書生気質」(とうせいしょせいかたぎ)を書いた。
 ついで、訪ねてきた二葉亭四迷(1864−1909)に対し、言文一致の小説を書くようにすすめ、四迷がそのとおりにして「浮雲」が世に出た。この家は、明治の近代文学の揺籃(ゆりかご)だったといっていい。』

 以下も、司馬さんによる。この家は「春のや(春廼舎)」と呼ばれた。逍遙は東大在学中二度落第した。その頃は、八畳一間の神田猿楽町の下宿に住み、受験生を預かって教えていた。その教え方が丁寧で、それが縁で、受験生の親が、「先生、ぜひ一軒の家をお持ちください」と寄宿学校のような家を建てて、逍遙に無償進呈した。それが、他ならぬこの家である。

 この家で、逍遙は根津遊郭大八幡楼の遊女「花紫」を落籍して、奥さんとして終生変わらぬ愛をもち続けた。長谷川如是閑が、この周辺を「春さきには谷間の鶯の声が聞かれて・・・」と自伝に書いている。

 明治22年、逍遙は牛込へ転居した。逍遙が去った後は旧松山藩の育英組織である「常磐会」が買い取り、旧藩出身の書生のための寄宿舎とした。そこへ正岡子規が入舎して

  「梅が香をまとめておくれ窓の風」

 と詠んだ、・・・などなど蘊蓄を傾ける。 (朝日文芸文庫 街道をゆく 本郷界隈 p152−155)

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 逍遙旧宅は左側で、親子が歩く坂が炭団坂
 崖の上からは、現在でも菊坂町がよく見える。

 逍遙の旧宅は崖の上にあり、鶯の谷渡りが聞こえたという。崖を下る坂は炭団坂(たどん)と呼ばれ、滑って転べばタドンが転がり落ちるようなに急な坂とのいわれもわかる。
 この急坂を下れば、樋口一葉の住んだ家がある。崖上の寄宿舎では、いわば官費による一高・東大への受験勉強が行われていた。そのとき、崖下では、針仕事に明日の生計もおぼつかない一葉が、一途に熱い思いを込めて文机にむかおうとしていた。

 一葉は、明治23年に、この坂の下に引っ越してきているので、逍遥とは入れ違いになった。逍遥は、一葉のライバル「花圃」(=田辺たつ子、親友、「藪の鶯」の作者)の師であり、一葉も逍遙とのつながりを欲しただろうに、こんなに近くでありながら、ついにその距離は接点とはならなかった。何とも皮肉な巡り合わせと思える。

常磐会の正岡子規
 逍遙の転居後につくられた「常磐会」に正岡子規が入舎した。明治21年のことである。子規は、明治16(1883)年、17才の時、上京して、須田学舎、共立学校に入学した。最初は、親類に寄遇していたが、やがて、松山藩の給費生となり、常磐会の完成により、寄宿生として転居してきた。
 明治24年駒込に移るまで、ここで過ごしている。そして、翌年の明治25(1892)年には、下谷の根岸に移り、今日残されている「根岸庵」で本格的な活動をした。

 「子規」の号をつけたのも、高浜虚子や夏目漱石などと交流を持つのも、「俳句分類」に着手したのもこの家であった。そのようなことからか、子規の本郷への思い入れは相当のものであったらしく、晩年(明治32年)、岡麓が本郷(3丁目)に家を建てた時、香取秀真に背負われて、訪ねている。

  子規は、明治24年秋、ここから大宮公園を訪れた。そして

  ふみこんで帰る道なし萩の原
  ぬれて戻る犬の背にもこぼれ萩

 とよみ、碧梧桐、虚子に

 『・・・殊に萩の名所ともいうべく一面萩薄のみの広漠たる原野も有之古のむさし野の名残と思へば今更に忍ばれて都に帰ることのいやに相成申候』(明治24年9月16日)と、手紙を書き送っている。

  明治24年の時点で、本郷はすでに武蔵野の風情を失っていたのかも知れない。 
 炭団坂を下るが、一葉の旧居を訪ねる前に、本郷でも特別の意味を持つ菊富士ホテル跡へ廻る。

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明治の始め、この辺は本郷菊坂町であった。
菊を栽培する人が多かったからという。菊富士ホテルはこの坂の高台にある。




菊富士ホテル跡

 (本郷5ー5 オルガノ敷地内) 

 炭団坂を下って、菊坂を通り、振り袖火事の火元とも伝えられる本妙寺前を過ぎて、(株)オルガノの敷地内におじゃまする。菊富士ホテル跡の碑がある。大正の独特な雰囲気を醸し、文士や学者の根城になったところである。

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今はわずかに右端に見える記念碑を残すだけであるが、近寄ってみると高台の雰囲気がよくわかる。

 ともかく、ここに泊まった人の名前を見てみよう。碑には主な止宿者として次の名前が彫られている。
 石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木清、中条(宮本)百合子、湯浅芳子、大杉栄、福本和夫、伊藤野枝、三宅周太郎、兼常清佐、菅谷北斗星、下村海南、青木一男、小原直、月形龍之介、片岡我童、石井漠、伊藤大輔、溝口健二、高柳健次郎、エドモンド・ブランデン、セルゲイ・エリセーエフ。

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 そして、近藤富枝「本郷菊富士ホテル」には、このほかに、大石七分、羽太鋭二、増富平蔵、田中純、前田河広一郎、石割松太郎、川崎備寛、間宮茂輔、なとの文筆に関係ある人びと、俳優では中村雀右衛門、政治家ではインド首相となったシャストリー、また外国人学者ではソ連のコンラド、ネフスキー、プレドネルなどがあげられている。 

 このホテルが持つ意味は何だったのか。ここに生まれた大正文壇史が云々されるが、自分自身が、ホテルの経営者と縁続きであった近藤富枝は、心からなる愛を込めて「本郷菊富士ホテル」を書いた。

 『大正時代を暗黒時代と考える人はもういない。それどころか昭和初頭へかけて、文学史的には最高に豊饒であり、「青鞜」の運動や、築地小劇場の開場もあり、労働運動も台頭し、あらゆる面での近代化が進み、さらにモダニズムヘの移行の見られる楽しい時代であったことが、いまは証明されている。そして菊富士ホテルの住人たちの間でかもされた雰囲気も、またそうした時代の豊かさを反映してか、自由で放縦で、ずぼらで混沌としていた。』
(中公文庫 本郷菊富士ホテルp7−8)

 これ以上、何も付け加えるものはないだろう。菊富士ホテルは、ここにあった長泉寺の境内に明治30年(1897)、岐阜県大垣出身の羽根田氏によって、菊富士楼(下宿)として開業し、大正3年(1914)に5層を新築、菊富士ホテルと改名したものである。

 つまり、ホテルとしては大正3年の開業から、昭和20年戦災によって消滅するまでの間、約30年間に、これだけの人が集まって活動したことになる。宇野浩二は6年間、広津和郎は10年の長逗留をしている。文士や芸術家は地域的によく集まるが、ここは、一つの建物の中であっただけに、ものすごい密度で発酵されたのだろう。

 ここから、宇野千代、尾崎士郎は馬込に転居し、馬込の文士村が形成されるきっかけとなった。本郷は明治と大正が混合し、新しいものの生み出しの場でもあるようだ。

 同じ敷地内に、明治41年、石川啄木が上京し、金田一京助の所に転がり込んだ「赤心館」があった。


赤心館跡
 (本郷5ー5 オルガノ敷地内)
 明治41年(1908)4月、石川啄木22才であった。この年、文学を目指して、北海道の放浪の旅から上京し、金田一京助に同宿、執筆活動を開始したところである。家族を函館に残してのことだった。

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左側の事務所の中に赤心館があった。
左側への道を直進すると菊富士ホテル跡がある。突き当たりは長泉寺。

 事務所のフエンスに、文京区教育委員会の案内表示板があって、こう説明されている。

 『・・・赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、「菊池君」「母」「ビロード」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。
 しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。・・・収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で共に近くにあった下宿『蓋平館別荘跡』に移っていった。

   たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
                                        (赤心館時代の作品)』

 と、ある。啄木が北海道から上京したときは、詩作を疎んでいた。それが、小説に行き詰まり、与謝野鉄幹と合い、鴎外の観潮楼歌会に出席する中で、違った道への出発を期したようだ。
 6月25日、『頭がすっかり歌になっている。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の2時までに141首作った』と日記に書くように、渾然とほとばしりが湧いてきたらしい。「一握の砂」はこの時から始まっている。「東海の小島の磯・・・」もこの時作られている。

 ・岩城之徳「石川啄木伝」では、4月28日 千駄ヶ谷の新詩社に入り、与謝野寛・晶子夫妻と再開、暫く滞在。5月4日 金田一京助の友情で赤心館に同宿、爾後創作に専念とある。
 ・金田一京助は、4月29日から「おいてくれ」と言って啄木が転がり込んできたという。26才の京助は、啄木(22才)の苦労に、一晩中泣き明かしたとつたえる。
 啄木と金田一京助の友情は生涯続くが、この時代、地味な金田一京助がいて、その助けがあったからこそ、啄木のその後の活動があったともいえ、明治末のすざまじさに身が堅くなる。
 ここから、一葉の住んだ菊坂町までは、ほんのわずかである。

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菊坂から、ホテルや赤心館のあった台地が見える。
一葉の住んだところは、さらに一段下がっている。

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菊坂から、さらに一段下がって、くっつき合うように住宅がある。
逍遙旧宅はこの向こうの台地の上
ホテルや赤心館は背中の台地の上
一葉の家の前の溝には、両方の台地からの水が集まった。

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