空爆の記憶 2

その前史

これは、今から60年ぐらい前の出来事です。
昭和の初めから20年代まで、武蔵野には
旧日本陸・海軍の飛行場と軍事施設・軍需産業が際だって立地していました。

 

 武蔵野のあちこちに飛行場があった。

 ◎東京と埼玉の飛行場

 現在も航空ショウや基地、跡地の利用で何かと話題を呼んでいますが、ざっと数えるだけで次のような飛行場がありました。

所沢飛行場(明治43年=1910)
立川飛行場(大正11年=1922)
所沢飛行場分場(入間市)(昭和8年=1933)
多摩飛行場(=福生飛行場、戦後 横田基地 昭和13年 用地買収開始 立川飛行場の付属施設として開設)
調布飛行場(昭和12年=1937 用地買収開始)。

 なお、山川出版社 埼玉県の歴史(旧版 昭和46年 p247)は、昭和16年、太平洋戦争開戦後には次の飛行場が埼玉県内にあったことを紹介しています。

 児玉飛行場
 熊谷飛行場(昭和10年大里郡三尻村 陸軍飛行場 少年飛行兵の養成)
 小原飛行場
 川田谷飛行場
 松山飛行場
 坂戸飛行場
 高萩飛行場

 そして、こんなにたくさんの飛行場が立地した理由を、こう分析します。
 『平地林の広がる埼玉の地は、飛行場の開設に向いていた。平地林は空襲などにより東京の倉庫が使用不可能になると、軍需物資の集積所として利用されたものもある。』

 土地の買収はどのように進められた?

 広大な用地を必要とする飛行場です。その用地の買収はどのように行われたのでしょう? 反対もあり、有無も言わさぬこともあり、様々だったようです。 この部面の歴史はあまり明確に書かれていないようですが、市町村が発行する「市・町・村史」に例が挙げられているものを拾ってみれば

 昭和10(1935)年8月 陸軍航空本部補給廠建設のため、陸軍が熊川村(現 福生市)の用地買収をしていますが、その時には小作騒動(小作人が地主と近衛師団経理部を相手取って訴えをおこす)が起こっています。(福生市史 下 p169ー172)

 昭和14(1939)年7月 陸軍航空本部が箱根ヶ崎他三ヵ村組合村と土地買収交渉に入りました。その時の様子を瑞穂町史はこう伝えます。
 『満州事変が日中戦争と変わり、太平洋戦争がはじまる二年前のことで軍は土地買収にあたり、高圧的で、関係者はぐうもすうもいえず先方の希望通りに買収が進んだことは目に見える。』(瑞穂町史 p1116)
 この施設は、昭和15年に、日本陸軍の多摩飛行場および航空整備学校となり、昭和17年には陸軍航空審査部がおかれ、陸軍の新鋭機や試作機のテスト飛行が行われました。 戦後は横田基地になりました。


さまざまな軍事施設や軍需工場が立地した。 

 ◎相次ぐ軍事施設の立地

 飛行場の他に、武蔵野には相次いで軍事施設がつくられました。

陸軍航空本部補給廠建設のため用地買収開始 昭和10(1935)年 福生市
陸軍燃料廠建設開始 昭和12年府中市
東京第二陸軍造兵廠多摩製造所開設 昭和12年 稲城市
東京航空計器創立 昭和12年 狛江市
東京陸軍航空学校が所沢から移転 昭和13年 武蔵村山市
陸軍予科士官学校を市ヶ谷から移転 昭和16年 朝霞市

 埼玉県内には次の施設があったことを、山川出版社 埼玉県の歴史(旧版 昭和46年)は紹介します。

 豊岡航空士官学校(入間市)
 所沢航空士官学校
 朝霞
  陸軍射撃場
  予科士官学校(東京市ヶ谷にあった陸軍予科士官学校を移転 本科は座間市に移転)
  海軍通信基地

 ◎東京と埼玉の軍需工業の立地

 飛行場と軍事施設に加えて、時代の流れを背負うように、大がかりな軍需工業が立地しました。それが、太平洋戦争中は爆撃の対象になり、悲惨な一時を過ごしましたが、戦後は平和産業に転換し、武蔵野にハイテク産業が立地して今日を迎えた背骨となっています。

石川島飛行機(昭和4年 立川市 後の立川飛行機)
横河電気製作所(昭和5年 武蔵野市)
三鷹航空製作所(昭和8年 三鷹市)
正田飛行機製作所(昭和8年 三鷹市)

中島飛行機(昭和12年 武蔵野市に武蔵野製作所開設を決定 陸軍の航空発動機製作) 
        (昭和14年 大宮市に大宮工場開設 光学兵器製作)
        (昭和16年 多摩製作所開設 海軍用航空発動機製作)
日本製鋼所武蔵製作所(昭和13年用地買収開始 府中市)
  陸軍より、東京から30キロメートル以内の地に戦車を作る工場をつくれと指示があったといわれます。
  (府中市史 下 p734)

 こうした動きの中で、 東大和市に、今回、話題とする 「変電所」 が建設されることになりました。

◎日立航空機株式会社立川工場(=変電所)の建設

 きわめて簡単ですが、以上に紹介したような動きと踵(きびす)を合わせるように、昭和13年、東京瓦斯電気工業(株)立川工場(昭和14年、日立航空機株式会社と名称変更)が東大和市(当時の大和村)につくられることになりました。立川の陸軍航空廠に納める航空機用の発動機を生産する工場です。

 本社は「大森」にありました。 航空機、自動車、計器を生産していましたが、それぞれが分離し航空機部門が東大和市に移りました。

 どうして、東大和市(当時の大和村)につくられたのか?

 『三多摩への軍需工業の進出は、従来、機械工業の中心地である大森・蒲田・川崎・横浜などの京浜地区が、軍需産業の発展により次第に飽和状態になるに及んで、昭和の初め頃から、兵器工場やその関連工場が三多摩地域に次第に設立されるようになった。』(府中市史 下 P733)

 というのが、基本的なものでしょうが、立川飛行場に近いことと、直接の動機は「陸軍航空本部長より陸軍専管航空E/G生産工場(空冷星型月産150台の生産能力)建設命令下り・・・」とされています。(東大和市史資料編1 軍需工場と基地と人びと p38 「小松ゼノア社報創業80周年記念号」)

 どのくらいの規模だった?

 敷地面積 約97万平方メートル(29万坪)
 従業員の従業員住宅を含めると190万平方メートル(57万坪) 
 当時の大和村の面積は13.5平方キロですから、村の南に一大工業・住宅の「街」ができたようで、村の人々は「南街」と呼びました。
 

 生産実績 陸軍機 九五式1型練習機他     7、466機
        海軍機 白菊機上作業練習機他約 1、479機

 工作機     600台
 従業員 約3、000人 最盛期、昭和19(1944)年 13,896人

  地域的には、ざっと、現在の西武拝島線東大和市駅〜玉川上水駅間を占める区域です。
  現在の西武拝島線はこの工場への資材を運搬する引き込み線でした。
  (川越線小川停車場ー立川工場 昭和17年)

gasudennkouzyouheimennzu.jpg (21107 バイト)

東京瓦斯電気工業(株)立川工場平面図
左下端が西武拝島線玉川上水駅、右端中央が西武拝島線東大和市駅
左上緑の印が変電所跡。
図のまんなか少し上に斜めに横切る道路があり、その下側が
爆撃された。

(注)
 文中、「中島飛行機」を99年1月10日まで「中島航空機」と誤記していました。訂正してお詫びいたします。

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