空爆の記憶 3

水がないところへの工場建設


武蔵野は水の乏しいところです。
そこに大きな工場を建設することになりました。
並大抵の苦労ではなかったはずです。

それを象徴するように、「変電所跡」のすぐ近くに、もう一つの戦災建造物があります。

「給水塔」です。

右の建物が変電所跡です。一番左側遠く、建物と木の間に塔が見えます。
これが当時の工場と工員に水を供給した給水塔です。

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上の方がくびれています。
井戸水を汲み上げて、貯める所です。その後は、自然落下によって給水しました。
この井戸を掘ることが成功したことによって、はじめて
工場(変電所)がつくられたと云われます。

この地域は水が不便で、人が住めずに、雑木林になっていました。
工場をつくるため、先ず問題となったのが水の確保でした。
すぐ近くを玉川上水が流れ、野火止め用水も分岐していますが
使用の許可は下りなかったようです。

そこで、井戸を掘ることになりました。
地下150メートルに達して、ようよう必要な量の確保が可能となりました。



これが爆撃の標的になりました。

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 変電所と同じ時に空爆を受けてできたものです。
現在も給水塔として使用され、民間の会社の所有となっています。
史跡には指定されていませんが、道路から直接見ることができます。
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高いところからの全景です。
左が給水塔で右側端から2番目の建物が変電所跡です。
周囲は多くの建物で埋まっていますが、この一帯一面が工場でした。
遠くに見える横に長い緑は狭山丘陵です。

最盛期1万3千人を越える従業員は徴用工、学徒動員などで全国各地から集まりました。
昭和19年から20年にかけては14筒数、公称馬力1100〜1200
の航空エンジンを生産しました。
爆撃の犠牲
ここを、昭和20年にアメリカの艦載機やB29が直撃しました。

昭和20年2月17日(艦載機    銃撃)
昭和20年4月19日(P51戦闘機 爆撃)
昭和20年4月24日(B29爆撃機 爆撃)

で、工場は壊滅状況になりました。
日立航空機関係者111人の名が犠牲者として名簿に残されています。

「殉国産業戦士供養塔」

が、東大和市狭山の「円乗院」にまつられています。
爆撃のルート
爆撃機のルートは武蔵野全域を網羅しました。
例えば、昭和20年2月17日に爆撃をした艦載機の航路は
鹿島灘から群馬県太田市あたりを回って武蔵野を南北に通過してきたようです。

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(東大和市史資料編1軍需工場と基地と人々 p79)
群馬県太田市の中島飛行機関係の爆撃が昭和20年2月10日に行われ
そのルートを南にとったのか?

武蔵野市にあった中島飛行機の航空機エンジン製作所は
既に、前年の11月24日に爆撃されていた。

昭和19年から20年にかけての武蔵野は、今では信じられないような
空からの爆撃の焦点でした。
工場疎開
武蔵野が戦火にさらされたのはさらに、軍需工場の疎開によるものがあります。
日立航空機立川工場も次のような疎開をしました。

津田塾大学
自由学園
第二飯能小学校
南高麗小学校
本庄工場
横田トンネル工場

これは日立航空機に限らず、ほとんどの軍需工場が
分散・疎開したものです。

こうして、武蔵野全域が戦火の危機にさらされたのでした。
戦後、多くの飛行場、軍事施設は
米軍の基地になったり
時には大学の校地にもなりました。

軍需産業は平和産業に切り替えられ
それぞれに、今日の発展の礎になっています。

しかし、その歴史が目に見えるように残っているのはあまり見かけません。
その意味で、この変電所跡と給水所は
貴重な証言をするものと思います。

ご覧になられる方は
「西武拝島線玉川上水駅」北口、「多摩都市モノレール玉川上水駅」下車
モノレールに沿って直進、最初の信号を右折、すぐ左側に給水塔。
そのまま直進すれば変電所跡が目に入ります。

戦争遺跡のネットワーク化が課題となっています。
お気づきのことや資料がありましたらご一報下さい。  
 残念ながら給水塔は撤去された
保存を願った給水塔は老朽化により、2001年5月、取り壊されました。
市民の有志が全面保存を求めましたが、東大和市としては、財政難のため買収できず
壁の一部が、旧変電所の前にモニュメントとして残されています。
何よりも旧変電所との位置関係が失われてしまったことが無念です。
保存されている変電所建物の前に
フエンス越しに一部が切り取られて置かれている様は
なんとも付録ぽくって、給水塔として突っ立っていた当時を知らない人が見たら
「これはなんじゃ・・・」とばかり、見当も付かないでしょう。
悲しい限りです。 

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