空爆の記憶
日立航空機株式会社変電所跡と給水塔
平和な武蔵野にも戦争の記憶がしみついています。
昭和10年代から20年代にかけての
厳しい歴史です。
東京都東大和市には、太平洋戦争の時、アメリカ軍による
空からの銃撃や爆撃を受けた建物があり
「史跡・戦災建造物」
として、市の文化財となって保存されています。

東大和市文化財 史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所
この壁面に残る一面のあばたが空爆の跡です。
一見、古びた、汚らしい建物に見えますが
武蔵野全域に関わる昭和史を証言する貴重な史跡と思います。
武蔵野(=東京・埼玉)には、全国で最初の飛行場
「所沢飛行場」
が、早くも、明治43(1910)年に開設されました。
武蔵野特有の平野と山林、首都東京との位置関係から
その後も、いくつもの飛行場が開設されました。
付随して、航空機に関連するたくさんの企業が立地しました。
ところが、昭和10年代、国家総動員体制のもとに、それらは軍需産業化し
国土・首都防衛の役割を課せられました。
ために、太平洋戦争では、米軍の爆撃を受け
壊滅状態となり、多くの犠牲者を出して、悲惨な歴史を刻みました。
戦後は米軍基地として接収される一方
跡地は大学になったり、公共施設として生まれ変わり
何よりも、その高度な技術を平和利用に生かし、武蔵野にハイテク産業を興しました。
この建物はその経過を象徴しているように思います。
昭和の記憶として、他の地域にある同じような史跡とリンクができて
互いに連携することによって、武蔵野の歴史の厚みが増すことができればと
このページを作りました。

変電所跡は、東大和市の文化財の一つとして
都立東大和公園の中に、当時の原形を残して保存されています。
誰でも、そばまで近寄って見ることができます。
思い切って近づいてみます。

一面の弾痕とともに、右上ガラス窓越しに変電設備が見えます。
右下に解説板があって、こう説明されています。
長くなりますが、基本的なことなので、そのまま引用します。
東大和市文化財 史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
北隣にあった設備で受電した66、000ボルトの電気を3、300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。
外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB−29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
平成8(1996)年3月
東大和市教育委員会
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この変電所は、説明板にもあるように、昭和13(1938)年につくられました。
この時期、この工場だけでなく、武蔵野の各地に、一斉と云ってよいほど集中して
「飛行場」と「航空機産業」が立地します。
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