太宰治の杉並時代(2)

1909‐1948(明治42‐昭和23)
杉並時代1933-1938(昭和8年ー13年)

太宰治は、生涯で、転機ともいえる特徴を持つ大事な時
時期を替えて、2度、杉並に住んだ。

 昭和8年から10年の3年間(前期)
 昭和11年から13年までの2年間(後期)。

前期には、杉並で新しい仲間達と交わり、「太宰治」のペンネームを使い、作家として出立した。
それが、病気をし、パピナール中毒に陥り、自殺未遂にまで至った。
まさに、さまよいと門出の時代であった。

昭和10年、転地療養のため、杉並を離れて千葉に移った。
この頁では、この時期をたどる。

杉並に転居作家「太宰治」の誕生

 上京、自殺未遂、初代との結婚、生家との分家・除籍、非合法活動、転々とする住居、非合法活動からの離脱、その中での絶えない作品の追求等を経て、ついに、太宰は杉並にやってきた。ここで、「太宰治」として、作家へ出立する。

飛島家と天沼へ 

昭和8年(1933)25歳
 
1月、「花」を脱稿した。(後に「葉」に改稿された) 

 2月、飛島定城家と共に、芝白金三光町から杉並区天沼3丁目741番地に転居した。(現在の住居表示では本天沼2丁目15)

 今、その家を見ることは出来ないが、あったところへ行くことは出来る。荻窪駅から遙かに遠い、本天沼2丁目である。一番の近道は、荻窪駅北口を降り、青梅街道を渡って、八幡通を北に入る。上林、三好の家を訪ねたときの八幡神社に行く通りである。

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天沼八幡を越してさらに北に進むと、天沼通りに出る。

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「杉並第5小学校」の信号表示を越えて間もなく左側に

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天沼稲荷の鳥居が見える
ここまで来ると、さすがに遠い。駅から歩くと、15分から20分はかかる。
当時、同居の「飛島氏」は事件記者であったので、これでは、遠くて、不便したことがわかる。

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太宰が最初に杉並に住んだ家は「天沼稲荷」の東隣であった。(左)
今は改築されて跡形もないが、平屋の大きな家で、太宰はその離れに住んだ。(右)

 芝白金三光町の家から天沼3丁目の家への引っ越しは、飛島定城の奥さん「多摩」さんの話によれば、次のような経過があったらしい。

『・・・芝の家で、太宰さんのところには、親戚の小館兄弟や、文士の方々が毎晩のように遊びに来て、夜おそくまで酒を飲んでは、文学や社会を論じていました。太宰さんは前に共産党に関係して居りましたので、特高警察に目をつけられ、管理人も注意をされたり、小遣い稼ぎもみつかったようで、この家を出る事になりました。

 翌昭和八年の二月太宰さんと一緒に、今度は杉並区天沼三丁目のお稲荷さんのすぐ隣にある大きな家をみつけて、そこに住みました。そこでもおどちゃん(太宰)は離れに、私達は母屋に住みました。この家も庭が広く、草花等を植えて楽しく暮しました。・・・』(同上 p129)

 なぜ飛島家と一緒なのかについては、長兄文治が次のように話している。

 『・・・修治が初代と一緒になってからしばらくして、彼がうまくやってくれて無事に大学を了えてくれたらいいと考えたものですから、彼の身柄を郷土出身の飛島定城(当時東京日日新聞記者)さまの所へ預けました。二階へ置いてもらって監督していただけたらいいのでは、と思ったのです。ところが、ついに定城さまも「ハァー、オレの手には負えない」とおっしゃいました。定城さまほどのお方の手に負えないならば、もうほどこしようがないと思いましたなあ。随分と定城さまにはご厄介をおかけしたのでしょう……いやいや、さいぜんから申しますように、修治が弘前で下宿していた藤田さんに始まり、井伏(鱒二)さん、佐藤(春夫)先生、亀井(勝一郎)さん……私は今でも頭の上らぬ思いをしております。・・・』
 (津島文治 肉親が親しめなかった弟の小説 新文芸読本p153 太宰治 河出書房新社)

太宰の監視役

 太宰の出来事の節々に大抵顔を出すもう一組の人達が居る。「中畑慶吉」と「北 芳四郎」である。実に鮮やかに事態をさばく。これは、一見冷たく見える長兄・文治の配慮なのだろう。最後まで、太宰の身の回りに気を配り、監視と面倒を見る役割をこなす。

 「中畑慶吉」は中里町(現在の五所川原市)で飛島呉服店の奉公人から、注文取りの背負呉服を営むようになり、島津家に出入りして、重用された。「北 芳四郎」は新宿区早稲田鶴巻町で洋服の仕立て屋を営んでいて、太宰の兄の洋服を扱うことから、津島家と懇意になった。

 面倒見の様子は、「中畑慶吉」によって、こんな風に語られている。

 『・・・この頃、下宿に立ち寄ると、部屋の中には見事なくらい、何もありませんでした。私はずいぶん初代さんから「あれも欲しい、これも欲しい」とたかられたもんです。しかし、考えてみると、女性のことですから、袷だ、羽織だと衣類を欲しがるのは無理もありません。おまけに太宰が何も買ってやらんものですから……。私は生地を買ってやることにしていました。というのは、仕立てを覚えさせて裁縫上手になってもらうのが真の目的だったからです。

 私が下宿に訪ねて行って、太宰の様子を観察していると、金のないときは何となくわかるのです。太宰は決して自分から「こづかい下さい」ということはしませんでした。そわそわ、もじもじしているのです。ですから、私は「初代さん、サイダー買ってきて下さいな。一本でよろしゅおわす」と十円札を出し、釣り銭をやるようにしていました。・・・』
 (新文芸読本 太宰治 p24 河出書房新社)

作家「太宰治」の誕生

 2月、『東奥日報』の懸賞小説に応募、「列車」を発表した。この作品に初めて太宰治の筆名を使った。入選して、5円の賞金を得た。応募は、太宰からの借金の申し込みに対する、記者・竹内俊吉の助言がきっかけであったという。

 なぜ「太宰」なのか?は、それこそ、様々に解説される。ここでは、応募への仲介をした記者・竹内俊吉が、その由来について、太宰自身が『天神様の太宰だ・・・』(=太宰府への追放)と話したとして、

 『活字にしてみると、案外いいなあ』

 と、言っていたとする事に焦点を当てておきたい。津軽を離れて転々とし、初代との同居、分家(義絶)・分籍、非合法からの離脱と、杉並に来た頃の太宰の心境がわかるようだ。
太宰のことだから、こだわったのかも知れないし、案外、単純、さっぱりしたことだったのかも知れない。

 しかし、まさに、これまでのペンネーム「小菅銀吉、落合一雄」から、作家「太宰治」が誕生した時であった。
 ペンネームの追求は万葉集、教師や同級生の姓など様々だが、小学館 群像日本の作家17 太宰治 p221 山内氏「作家太宰治の誕生」を参照した。

 2月、同郷の友人「今官一」の推薦で、同人雑誌「海豹」に参加した。ここで、木山捷平、古屋綱武、神戸雄一、新庄嘉章、藤原定、大鹿卓、塩月赳等を知った。「故郷の話」を書いた。

肉をつつく太宰

 この頃の太宰の一面を伝える話がある。井伏と青柳瑞穂のお宅を訪ねたときのことだ。

『・・・青柳瑞穂が太宰の話をしたことがあった。
 その話によると、まだ「海豹」が出ない頃のことで、太宰の名前も知らないときのことだったが、太宰が井伏鱒二に連れられて彼の家に来たのであった。彼は井伏の弟子であり、年も大分下でもあるので、青柳と井伏と話しているあいだ殆どひと言も喋らなかった。

 ところが青柳の家で夕飯を出し、お菜はすき焼きにしたのだが、すると太宰は他の二人がなるべく肉は食べないように遠慮しているのに、太宰は黙々として、後から後からさかんに肉ばかりつつくのであった。

 「変わった人だ、変わった人だ」と、青柳は笑いながらその話をした。

 小田嶽夫の『文学青年群像』にこう書かれた一節がある。太宰の一面をよく伝えていると思う。「海豹」が出ない頃の話というから、昭和八年三月より以前のことであろう。(村上護 阿佐ヶ谷文士村 p88)

 井伏はこのようにして、阿佐ヶ谷在住の文士や作家に太宰を紹介したようだ

青柳の家

「魚服記」、「思ひ出」の発表

 3月、「海豹」創刊号に「魚服記」、4月〜7月号に「思ひ出」を発表した。
 大学卒業の年であるが、実家からの仕送りの延期を許されて留年した。
 

檀一雄との出会い

 この頃、古谷綱武の紹介で、生涯の友人となる「檀一雄」と知り合った。出会いの様子は、檀自身が書いた「小説太宰治」の出会いの場がとてもいい。 太宰が古谷綱武
の自宅へ訪ねてくる。丁度、古谷は檀と出かけるときで、

 「僕んとこ?」と古谷は云った。

 「でもいいんだ。出かけるところだろう?」

 と、その男は
ハンチングの庇に手をやったまま、しばらく頬を染めるようである。出かけるところに、訪ねて来た。それを自分の負い目に転化するふうの素早い苦悩。

 瞬間私は、秀抜な写楽の似顔絵を見るようだった。

 こんな出会いから、太宰は古谷、檀の主宰する同人雑誌に参加し、交流を一挙に深めていった。当時の古谷の自宅は東中野にあり、檀は上落合に住んでいた。荻窪、中野、新宿の濃密なラインが引かれていたことになる。同じ時期、阿佐ヶ谷では、井伏鱒二の引き合わせで、伊馬鵜平(春部)、中村地平らと知り合っている。

 5月、杉並区天沼1丁目136番地に移転した(現住居表示では、天沼3丁目3)。やはり飛島家と一緒であった。飛島定城の通勤に便利なため荻窪駅に近い所への転居という。多摩さんの記憶によれば、「日の丸市場」の裏であったという。

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荻窪駅北口正面近く青梅街道を渡り、パチンコ・アラジンの横を入ると(左)
目の前が駐車場や作業場になっている(右)
この一画に、飛島と太宰が住んだ2階屋があった。

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全く当時の形状を残していない。
しかし、たたずんでいると、駅前の喧噪が消え、この路地を通って
檀や山岸とマント姿の太宰が髪をかき分け出てきそうな気がするから不思議だ。

東北弁の奥さん同士

 檀は太宰に惹かれ杉並の家に訪ねてくる。小説 太宰治は描写する。日没間際、2階にあがる。2間で、居間に小さい真四角の緑色の火鉢に太宰が手をかざしている。

 「ここが、いいんだ」
 窓に近い方へ火鉢をずらせながら、夫人の敷いてくれた座布団の位置を換えさせた。灯りをつけない。表情がよく見えなかったが、私は落着いた。小さい火鉢に炭火がカンカンおこされていた。
 
 太宰が何か眼くばせすると、夫人は階上から大声で下の夫人に話しかけた。はげしい東北弁で、私には通じない。最後に太宰が一声、やっぱり私には通じぬ訛で声を上げると、交渉は終わったようだった。

 夫人が階段のところまでいって、一升瓶を提げてきた。それを徳利に移し夫人は鉄瓶の中にぬくめている。
 鮭缶が丼の中にあけられた。太宰はその上に無闇と味の素を振りかけている。
 「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ。」
 クスリと笑い声が波立った。笑うと眉毛の尻がはげしく下がる。

 檀が太宰に出会ったときは、すでに「魚服記」と「思ひ出」を読んでいるのと、2階屋であることから、ここに描かれた家は1丁目に移ってからのことであろう。飛島定城家との付き合い、太宰の生活がわかって面白い。

 7月末から8月初旬、「海豹」脱退、「二十日会」を持つ。これが、やがて「青い花」に発展した。
 

昭和9年(1934)26歳 4月、古谷綱武、檀一雄編集の季刊同人雑誌(文芸誌)『鷭』
(ばん)に参加した。第一集に「葉」を発表した。
 7月、第二集に「猿面冠者」を発表した。

 8月、静岡県三島市広小路の坂部武郎(坂部啓次郎の弟)方に滞在して「ロマネスク」を書く。『晩年』に収録の作品のほとんどがこの頃までに執筆されたという。

山岸外史との出会い 阿佐ヶ谷会

 9月中旬、太宰が「青い花」構想に夢中になっていることを中村地平から知らされた「山岸外史」は、中村地平が書いた地図を頼りに太宰の家を急遽訪ねて、何時間も文学論、芸術論を交わす。その夜から二人は虜になって生涯の交流を持つ。この辺のことは長部日出雄「辻音楽師の唄」や外史自身の「人間太宰治」に詳しい。

 10月、外村繁、中谷孝雄、尾崎一雄らの同人雑誌『世紀』に「彼は昔の彼ならず」を発表。この雑誌のカットを高円寺に住んでいた「棟方志功」が描いたという。

 12月、今官一、檀一雄、伊馬鵜平、小山祐士、木山捷平、北村謙次郊、山津外史らと同人雑誌青い花』を創刊した。太宰は「ロマネスク」を発表した。中原中也津村信夫などの詩人たちとも輪を広げるが、『青い花』は第一号だけで休刊となった。

 これまで、くどいように作家の名前を挙げたが、その多くが、誘い合うように杉並に住み、将棋を指し、酒を飲み、心の憂さを吐き出し合った「阿佐ヶ谷会」の面々である。小田嶽夫は「阿佐ヶ谷将棋会」で言う。

 『太宰治は形勢がわるくなると、もう投げ出したような恰好でいやいやそうにさす、それでこちらも油断して思わず緩手をさすと、猛然と逆襲してくる―そんな巧妙な、というよりは可憐なと言いたい心理作戦である。』

 太宰の人間関係はこの時期に一挙に拡がったと考えられる。また、三鷹時代の前駆をなす作品群が生み出され、発表の場も得て、作家「太宰治」のまさに誕生の時期と言える。しかし、次に来るのが、またも自殺未遂、そして病気、パピナール中毒とピンチの時期である。

昭和10年(1935)27歳 『文芸』二月号に「逆行」のうちの「蝶蝶」「決闘」「くろんぼ」の三編を発表。
3月、太宰は、これまで、大学の卒業年次を遙かに超して、卒業を引き延ばし、実家から仕送りを受けていた.。2年前にも、このことでもめたが、延期の条件を昭和10年3月と、限度を決めて解決した。その時が迫ってきたのだが、講義にはほとんど出席せず、卒業の見込みはなかった。

新聞社への入社試験

 身内の期待を裏切ることにもさいなまれて、仕方為しに、都新聞の入社試験を受けたといわれるが、結果は失敗であった。檀一雄は「小説太宰治」でこんな風に書く。

 ・・・かりに、東大の卒業がだめになるような事がるにせよ、都新聞にさえ這入れれば、と、太宰のこれは可憐なまでの悲願だった。
 当時、都新聞の学芸部に勤めていた、中村地平ともしきりに打合わせをし、いかにも大事げに、臆病げに、その忠告などにきき入っていたのを覚えている。・・・全く甲斐甲斐しく、太宰は大はしゃぎで

 青い背広で心も軽く

 などと、流行歌を妹の前で口遊
(くちずさ)
んで見せたりしながら、私の家から、その青い背広を着込んでいった。口頭試問の時であったろう。
 しかし、見事に落第した。・・・
 ・・・、栄寿司で鶏の丸焼きを指でむしり裂きながら、ムシャムシャと、喰っては飲んだ狂乱の姿を覚えている。』
 としている。

鎌倉での自殺未遂?

 そこで起こったのが、3月16日、鎌倉(八幡宮近くの山林)で縊死未遂事件といわれる出来事である。東京八景では、太宰らしく

 『・・・もちろん新聞社などへ、はいるつもりも無かったし、また試験にパスする筈も無かった。完璧の瞞着の陣地も今は破れかけた。死ぬ時が来た・・・

 やはり鎌倉の、海に飛び込んで騒ぎを起してから、五年目の事である。私は泳げるので、海で死ぬのは、むずかしかった。私は、かねて確実と聞いていた縊死を選んだ。けれども私は、再び、ぶざまな失敗をした。息を、吹き返したのである。私の首は、人並はずれて太いのかも知れない。首筋が赤く爛れたままの姿で、私は、ぼんやり天沼の家に帰った。

 自分の運命を自分で規定しようとして失敗した。ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋をそっと撫でた。・・・』(新潮文庫 走れメロス p173)

 としている。また、作品「狂言の神」には、これに近い描写があり、太宰自身も長兄に出した手紙で、自分の自殺未遂の事を書いたのが「狂言の神」だとしている。

 作品の中で、主人公は駅の案内所で、江ノ島へ行くには? と聞いて汽車に乗る。7年前の情死を思い起こしながら江ノ島駅に降り立ち、磯へ出て、今度は、深田久弥に合いに二階堂まで歩く。辞して、「黄昏の巷、風を切って、どんどん歩いて」、日蓮上人辻説法跡の塚から鎌倉駅前まできて、「くるりと回れ右して、たったいま、とおって来たばかりの小暗き路をのそのそ歩」き、「路傍の雑木林へはいっていった。」とコースを書き、縊死の寸前

 『・・・やめ!私は腕をのばして遮二無二枝につかまった。・・・縄を取り去り、その場にうち伏したまま・・・ポケットの中の高値の煙草を思い出し、・・・一本を口にくわえた。私のすぐうしろ、さらさらとたしかに人の気配がした。・・・いまのあのけはいは、おそらく、死に神の逃げていった足音にちがいない。・・・
 ああ、思いもかけずこのお仕合せな結末。私はすかさず、筆を擱
(お)く。読者もまた、はればれと微笑んで、それでも一応は用心して、こっそり小声でつぶやくことには、
 ――なあんだ。』

 と、読者に呆れさせるトリックで、独特の結末をつけている。

 檀一雄「小説太宰治」で、この出来事を書いている。太宰の出奔の報に、急いで飛島家に駆けつけると、井伏、飛島、伊馬鵜平、中村地平達が集まっていて、『じゃ、檀君。心当たりを廻ってみてくれない?』と頼まれて、熱海や三島を捜しに行く。見つからなくて荻窪の飛島家に帰ってくると、

 『・・・ほとんど前後して太宰がフラリと帰って来た。何も語らない。首筋に熊の月の輪のように、縄目の跡が見えていた。「銭湯にでもゆかないか?」「うん」と太宰は肯いている。二人ですぐ裏の銭湯に出かけて行った。・・・』

 というくだりである。また、太宰が後に、パピナール中毒のため入院した「東京武蔵野病院」のカルテが主治医によって明らかにされているが、その中には、『昨年春も鎌倉にて縊死未遂。(家族談)』と記されている。家族は縊死未遂と思っていたことがわかる。井伏は三崎方面を探したという。

 そして、長篠康一郎氏は言う。

 『だが同じ頃、「新潮」に掲載の決まっていた原稿を、自筆書き込み名刺(筆者所蔵)とひき替えに引き取ることになったが、そのさい、「狂言の神」における縊死未遂の場面が作り話であることを、はっきりと告げており・・・』

 と、作り話であることを主張する。真相はどうだったのか、作者の行動は推し量れないものだとつくずく思う。何があったにせよ、このことで、長兄は太宰を津軽に連れ帰ること決めた。しかし、井伏鱒二、檀一雄らの仲介により1年間仕送り継続が実現して、太宰は東京に残った

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日蓮上人辻説法跡の塚の暗示も気になるが
八幡宮近くの山林で、夜の海を見たのではあるまいか?

パピナール中毒

 4月、今度は病気になった。4月4日、急性盲腸炎を起こして、阿佐ヶ谷の篠原病院に入院した。手術後、腹膜炎を併発して重態となっている。1ヶ月の入院であったが、太宰はこの間に、苦痛を和らげるため使用された鎮痛剤=パピナール(モルヒネの一種)にとりつかれ、その中毒になった。
 そんな最中、4月11日、胸部疾患が発見された。この治療のため、5月1日、長兄の友人(沢田医師)が経営する
世田谷の経堂病院に入院した。しかし、パピナール依存は進み、中毒症はさらに重くなった。長兄の心配もあって、千葉県船橋市に転地することになる。

日本浪派との合流

 5月、『青い花』が潰れて発表の場を失った太宰は、その場を求めて、佐藤春夫、萩原朔太郎、保田與重郎、中谷孝雄、外村繁、神保光太郎らの『日本浪派』(にほんろうまんは)と合流している
 そこで、「道化の華」を発表した。この作品は、太宰自身が「日本にまだない小説」と自負している。(川端康成へ)昭和10年、第一回芥川賞の候補となった。結果は次席で、川端康成と太宰との、芥川賞論争のもとになっている。

 『日本浪派』と合流には、種々問題が指摘されている。改めて書きたい。

杉並を離れる

 太宰は、この後病気とパピナール(麻薬性鎮痛剤)中毒の繰り返しの中に、混乱の時期を迎える。そして、一度杉並から離れることになる。
 当時と全く様相の変わった路地を歩きながら、阿佐ヶ谷将棋会が開かれる日には、その時間が待ちきれなくて、エヘン・エヘンと咳払いをしながら、井伏邸の前を行ったり来たりしたという太宰の姿と

 「優
(やさ)しい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。私は含羞で、われとわが身を養っています。酒でも飲まなけや、ものも言えません。そんなところに「文化」の本質があると私は思います。」

 河盛好蔵に言ったという(筑摩 太宰治全集 11巻)太宰が二重写しになって、“やはり仕方がなかったのかな”と辺り構わず座りたくなった。

 太宰の二度にわたる杉並居住を前期と後期に分ける考えがあるが、それに従えば、ここまでが前期と言える。後期は、千葉から再度、杉並に戻り、次の三鷹に新しい出発をするまでの間を指す。

千葉県船橋への転居 一軒家に住む
 
 
 7月1日、長兄の依頼を受けた知人の勧めに従って、
千葉県船橋町五日市本宿1928番地へと転地
した。この時の様子が作品「めくら草紙」に書かれている。私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。として、お隣の夾竹桃(きょうちくとう)にふらふら心をひかれて、ゆづってくれるように頼みに行く。そして、

 『くには青森です。夾竹桃などめづらしいのです。私には、ま夏の花がいいやうです。ねむ。百日紅(さるすべり)。(あおい)。日まわり。夾竹桃。蓮(はす)。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ、木槿(もくげ)だけは、きらひです。・・・』

 などと話す。船橋の旧宅跡には、夾竹桃があったという。三鷹の家には、太宰が可愛がった百日紅(さるすべり)があった。「めくら草紙」に書かれているのは、太宰の本音かも知れない。

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三鷹の家にあった百日紅は、現在、旧宅からすぐ前にある市の施設「井心館」に移されている。
すぐ目に付くように「太宰治ゆかりのさるすべり」と表示板が下がっている。

2000年の桜桃忌の日、午前中、ここを訪ねるのは、中年以上が多かった。
「最近は、お年を召した方が多く来られるようになりました・・・」
近所に住む方が、親しみを込めて教えてくださった。
太宰に惹かれる人の層が厚くなっているのだろう。

杉並にも、プライバシーに十分配慮した上で
案内板だけでもあればいいのに!!

(2000.07.01.記)

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