阪神淡路大震災と私 NO.18
1995年11月

FACTIVE

 神戸へのボランティア行きが一段落付いた5月頃、僕は初めての自分用のパソコンを手に入れた。PC9821LT2という、ノートパソコンである。何も判らぬままにPCVANとNIFTYSERVEのIDを取得し、パソコン通信の世界に入りだした。このころはまだ震災関連の特設ボードが設けられており、現地へ行く機会の少なくなった僕はそこから現地情報を見ていた。秋になるとその特設ボードも終了してしまい、行き場の無くなった私はBBSのあちこちをぶらぶらとしていた。そんな11月のある晩、偶然出会ったのがNIFTYSERVEのFACTIVE16番会議室であった。(現在は閉鎖されている)。

 現地でのボランティア活動は一区切りついたものの、まだ神戸のことが気になってしようがない。そんな自分にとって、ここはまさに探し求めていた場所であった。この会議室には色々な人たちがいた。

 被災地の真っ只、東灘区に住み震災発生当初はオフロードバイクでNIFTYにアップされた安否確認依頼に応えるべく走り回っていた「でんがなまんがな」さん。

 大火におそわれた長田区から詩「生きてますシリーズ」をアップし続けていた「とーち」さん。

 東京から震災ボランティアで神戸入りしそのままここで暮らすことになった大学生の「せー」さん。

 東京で情報ボランティアとして震災関連の情報誌をデジタル化する作業を続けていた「てら」さん。

 そのほかにも多くの人たちが自分なりの震災との関わりを持ち、活動を続けていた。初めてボードに書き込んでしばらくする内にこの「せー」さんというのが実は僕が通っていた六校小学校で一緒に活動していた青年だと判った。思わぬところで半年ぶりの再会をしたわけである。

 ここの会議室はその後数ヶ月して閉鎖されることになった。その時には書き込んでいたアクティブメンバーとシスオペの間でかなりのやりとりがあったのだが結果として閉鎖されてしまった。しかしここで知り合った人たちはみんな、自分なりに震災後について何らかの行動を起こさなければ、と考えている人たちばかりであった。


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