阪神淡路大震災と私 NO.10
1995年2月23日

搬出

 今回は総勢3台のトラック部隊となった。先日一緒に訪れた青年部の連中と、もう一度よく話し合い自分たちの技能を生かした救援方法を提案していたのだ。前回一緒に行ったあとの部会では、一時ボランティアを見合わせるという方向に傾きかけたのだが再度、現地の窮状を説明し、みんなの協力を取り付けることができた。前回、「もっとひどいとこないの?」といっていたメンバーも自分の認識の甘さを謝ってくれた。

 阪神高速の湾岸線、鳴尾浜出口付近でみんなと落ち合い、六甲小学校へ向かう。現地ではいつものようにT君が今日の引っ越し予定を整理して説明してくれた。僕たちは3班に分かれ、それぞれに手伝いの学生ボランティアのみんなと一緒に搬出先へと向かった。

 自分は避難所の小学校から中央区のマンションへと荷物を運ぶKさんのお手伝いをすることになる。途中の車中でKさんと色々な話をしていた。Kさんは神戸の老舗ホテルの厨房につとめる調理人だ。震災前までこのホテルからの出向で調理学校の講師を務めていたらしい。しかしこのホテル自体が震災の被害が大きかったため営業再開を断念しており、現在は自宅待機の身だという。荷物を運び込んだマンションは新神戸駅近くの所にあった。一家4人が暮らして行くにはあまりにも手狭に見えたがこれでも見つかっただけましだ、とKさんは笑っていた。

 午後からは倒壊した家から荷物を運び出したあと税関近くにあるトランクルームへの家財移動の手伝いだった。2所帯分の荷物の混載である。僕のトラックにそれぞれの家人に乗ってもらい、そのあとをお手伝いの学生ボランティアが5人乗用車で追走していった。トランクルームと言っても波止場にある倉庫の一角だ。

 事務所の受付で申し出たあと荷下ろし場に向かう。荷を降ろそうとしたときちょっとしたトラブルになる。荷受け係のおっちゃんは「梱包していない荷物はうけとられん」といいはる。どうも倉庫内での紛失等を予防するため持ち込む荷物は全部梱包しないといけないことになってるらしい。そのことを当人たちは電話での受付の時に聞いていなかったという。

 「こっちで梱包してやっても良いけど料金が**だけかかるよ」とおっちゃんはいう。震災で家が倒壊し仮設住宅が見つかるまで保管する場所がない、お金もそんなに残っていないと当人たちは説明していたが、おっちゃんは「みんなそんな事ばっかりいって、震災やからって甘えたらいかんわ」と突き放す。しばらくこんなやりとりが続いていたのだが、話をしているうちに僕たち若いもんがみんなボランティアで引っ越しを手伝っているという話を聞くと状況が変わってきた。僕らの行動に感銘してくれたのか、そのままの状態でも荷受けを引き受けてくれた。それからのおっちゃんは、やけに優しかった。


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