阪神淡路大震災と私 NO.11
1995年3月2日

PTAで

 自分は、たまたまこの年に子供の通う小学校のPTAの会長職にあった。役員会の時に神戸での自分の活動の様子などを話していたら数名のお母さんたちが自分たちで現地の様子を知りたい、と言うことになった。震災発生直後からここのPTAでは自発的に募金活動などを行ってきたが、それだけでなく「何か私たちにできることは無いんだろうか」という想いが満ちあふれていたのであった。この日に例によって引っ越しの手伝いに行く予定があったのでお昼頃、現地で待ち合わせ、一緒に小学校の先生方やPTAの方を訪ねることになった。

 お昼過ぎに4名を出迎え、六甲小学校の職員室を訪れた。応対していただいた教頭先生から、地震発生直後の苦労話などを聞く。幸いにもここの学童自体には震災による犠牲者はでなかったということであった。こちらから何かできることはありませんかという申し出にも現在は物資も十分に足りているとのことであった。多くの小学生からの励ましの手紙なども届いているらしい。児童向けの救援物資もあまり与えすぎると子どもたちがそれに慣れてしまうことにならないかと、教育的な配慮があるようであった。教室は避難者でほとんど埋まっており授業は2、3の教室で午前と午後の入れ替え制で行われているという。児童たちのこと、避難者への応対、また我々のような外部からの訪問者への応対にお疲れのようで、あまり長居をせずに引き上げた。

 校舎の裏では、ここのPTAの有志の方たちが湯茶の炊き出しのボランティアをしていた。お湯を沸かすドラム缶を囲みながらしばらく話をしていた。授業が再開されて子どもたちが登校するようになってからは通学路の安全確保に頭を悩ませているという事であった。まだまだ道路に向かって傾いている家や、撤去作業の建設重機があちらこちらにあったのだ。また、撤去作業に伴う粉塵が児童に与える影響も心配されていた。PTAの方から市の災害対策本部に通学児童のための粉塵用マスクを要望しているのだがまだ色好い返事がないらしい。同じ年頃の子供を持つ私たちにも、現地のお母さんたちの心配が痛いほどわかった。


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