ワグ・ザ・ドッグ ★★☆
(Wag the Dog)

1997 US
監督:バリー・レビンソン
出演:ロバート・デ・ニーロ、ダスティン・ホフマン、アン・ヘッシュ、デニス・レアリー



<一口プロット解説>
アメリカ大統領のスキャンダルを誤魔化すために、大統領側近のロバート・デ・ニーロ達はハリウッドのプロデューサーであるダスティン・ホフマンを雇って、アメリカとアルバニアが交戦状態に入ったという擬似イベントをでっち上げる。
<雷小僧のコメント>
この映画を始めて見る迄は、随分と妙なタイトルだなと思っていました。というのも、Wagは犬が尻尾を振るという意味ですが、The Dog Wags (its Tail)でもなければ、その倒置型になるWags the Dogでもなく、原題でもWag the Dogだからです。これはWagを他動詞とした命令形であるとしか解釈出来ないので、「犬を(犬が尻尾を振るように)振れ」と言ってることになるからです。けれども、始めてこの映画を見た時、冒頭で次のようなメッセージが現れるのを見て早くもその謎が解けました。
Why does a dog wag its tail?
(何故犬は尻尾を振るのか?)
Because a dog is smarter than its tail.
(何故ならば、犬は尻尾より賢いからである。)
If the tail were smarter, the tail would wag the dog.
(もし尻尾の方が賢ければ、尻尾は犬を振るであろう。)
ということでこの映画は、尻尾が犬を振る映画なのです。それでは、犬/尻尾とはそれぞれ何のたとえなのでしょうか。それをこれから、このレビューで述べてみたいと思いますが、実は私目の持っているあちらバージョンのビデオには、バリー・レビンソン他関係者へのインタビューが映像特典として収録されていて、そこで彼らなりの回答が述べられており、だいたい私目の考えていたことと同じようなことが述べられていました。確か日本語版でもDVDが発売されているはずなので、このインタビューも映像特典として収録されているのではないかと思いますので、持っている人は是非映画本体だけではなくこのインタビューも見てみましょう。
まず最初に述べたいのは、犬/尻尾のたとえはマルチレベルで機能しているのではないかというのが私目の考えであり、いわば尻尾が犬を振るという本末転倒した状況というのは現代生活における様々なレベルで発生しているのではないかと思われます。まず最初に考えられるのは、この映画はアメリカ大統領に関与した映画であり、政治風刺の側面があるということが挙げられます。すなわち政治と選挙民に関する本末転倒がここには描かれているのではないかということが考えられます。勿論、アメリカは代議政体であり選挙民が直接政治に関与するわけではないのですが、いずれにしても選挙民の総体的な意志が伝わりそれに相応しい議員や大統領が選ばれるというのが、間接民主制であろうが直接民主制であろうが民主主義政体の最も理想とするところでなければならないはずです。ところがこの映画では、大統領(本人ではなくともその取巻き)の方がメディアを通して選挙民を操作するのです。またそれに関してこの映画の見事なところは、シンボリックな操作を通じて一般庶民を操作する様子が実にうまく描かれている点です。たとえば「アメリカン・プレジデント」(1995)でも述べたように、アメリカ人というのはアメリカ大統領という存在に対して、単に政治的有能さという範疇を越えたシンボリックなパワー(たとえば力強さであるとか健全さであるとか国家に対する忠誠度であるとか)を有するカリスマ性を求めるような傾向があるように思われるのですが、この映画では大統領の取巻き連中がそれを逆手に取って利用しているのですね。たとえば、ありもしない戦争(何とアメリカとアルバニアが戦争するというイリュージョンを形成するのです)をでっちあげるばかりか、それをフォークソングや何やらで愛国的な色合いに染め上げてしまうわけです。最も傑作なのは、前線の背後に取り残され捕虜になったシュー何とかという名前の兵士をこれまたでっち上げ、靴(シュー)を投げるパフォーマンスを一夜にしてアメリカ中に流行らせてしまうシーンであり、こういうシーンを見ているとアメリカ人というのは随分とシンボリックな操作に弱いなあという印象が強くするのですね(勿論、この映画のストーリーは作り話ですがこの辺り実に説得力があるのです)。またその捕虜の兵士が着ているシャツにモールス信号で「Courage Mom」と書かれているという下りになると、これは少し悪ふざけが過ぎるのではないかと思われるのですが、逆にアメリカ人以外の私目などの目から見ると、自虐的とも言えるパロディとも取れるのです。まあそのようにして人工的に作り出されたシンボリックなパワーをうまく利用して大統領の支持率を上げようというのは、人民と政治家との関係ということに関して、「人民の人民による人民のための政治」(だったかな?)が、「政治家の政治家による政治家のための人民」にひっくり返ってしまっている様子をうまく風刺的に表現しているように思われます。いわば政治(家)という「尻尾」が人民という「犬」を降っているわけです。
さて次の本末転倒ですが、それはメディアと情報に関してです。本来メディアというのは情報を伝える媒体であり、それが故にメディア(媒介)と呼ばれるわけです。けれども、この映画ではその媒体であるはずのメディアが情報をクリエートしているのです。すなわち本来情報が先にあってメディアがそれを媒介するはずですが(いやいや情報とメディアは不可分でありどちらが先にあるかと問うのはナンセンスであるという意見もあるかもしれませんが、取りあえずそれは置いておきましょう。う!都合がいい?)、ここではメディアが先にあって情報をクリエートするのです。そういうメディアが先走る危険性を告発した有名な映画にシドニー・ルメットの「ネットワーク」(1976)という傑作がありましたが、この「ワグ・ザ・ドッグ」においても、ダスティン・ホフマン演ずる映画プロデューサーがありもしない戦争をクリエートしたり、存在しもしない戦争捕虜をでっち上げたりして、(偽)情報を作り出しているわけです。ここで注意する必要があるのは、今やマスメディアが全ての情報を支配しているが故に、情報が真であるか偽であるかの区別は最早存在しない、極端な言い方をすると偽情報など存在しないことになるのですね(というわけで(偽)情報と書いたのです)。要するに、ここにメディアと情報の究極の本末転倒があるのですが、本来メディア自身の信憑性信頼性の方が、そのメディアが扱う情報の真偽の度合いによって推し量られなければならないはずなのに、全ての情報を支配することにより情報ばかりではなくその情報の真実性までメディアの方がクリエートしてしまうのです。またこのメディアがクリエートする言わばシミュレートされた真実性というのは、それを受取る側の視点から見れば常に掛け値なしの真実として受取られるわけです。一言で言えば、常に全ての情報をある一定のゲームのルール(この場合はメディアが規定するルール)の埒内で受取るそれら情報の受信者にとっては、(それらの情報が)そのゲームのルールに従っているその度合いによって情報の真実性が決定されることになるわけです。この映画の最後でダスティン・ホフマンが、自分がクリエートした擬似イベント(視聴者にとっては真のイベント)に関して自らのクレジットを要求してロバート・デ・ニーロ等に哀れ殺されてしまうのですが、これはまさにゲームのルールが暴露されるということは、彼らメディアがクリエートする真実性を構成するメカニズム、すなわち真実性=シミュレートされた真実性というからくりが情報の受信者に暴露されてしまうことを同時に意味するからなのです。まさに情報の媒介者という「尻尾」が情報という「犬」を降っていると同時に、本来視聴者に奉仕すべき立場にあるテレビを始めとするマスメディアという「尻尾」が視聴者という「犬」を降っているわけです。
さてこのように考えてみると、もう1つ根源的な本末転倒がその根底にあるのではないかということがだんだんと見えてきます。すなわち、現実と虚構の本末転倒です。たとえばジャン・ボードリヤールなどは「ハイパーリアリティ」というような言い方をしてこの本末転倒について語っているわけですが、今や何が現実で何が虚構であるかということを判断する明確な基準が存在しなくなっているのです。たとえばメディアがクリエートする虚構の中で常に生きている人にとっては、この虚構こそがリアリティなのですね。何故ならば彼らにとってそうでないようなリアリティなどどこにも存在しないからです。この「ワグ・ザ・ドッグ」のあるシーンで、アルバニアの兵士に襲われる少女の擬似イベントをクリエートするシーンがあるのですが、映像操作によって一人の少女と背景の村と(平和的なharmlessな存在であるというコノテーションが込められた)シンボリックな小道具である猫がモンタージュ的に巧みに組合わされて、擬似リアリティが組立てられていく様子が実に見事に描かれています。しかしこの映像を見る人にとっては、このイベントは決して擬似リアリティなどではなく(そうであるとしたらこの映像そのものの意味がなくなってしまうのです)リアリティそのものとして受取られることになるわけです。ここで私目が言いたいのは、何も擬似イベントを生成するマスメディアのモラルうんぬんかんぬんについてではなく、リアリティ自体の存在が現在では相対的な意味しか持ち得ないということであり、ここでもいわば虚構という「尻尾」がリアリティという「犬」を降っているという本末転倒が示唆されているということについてです。この「ワグ・ザ・ドッグ」に収録されている映像特典の中で、あるニュースキャスターが(あちらのニュースキャスターは、いかにもヒューマニスティックに快く響く決まりきったコメントしか出来ない日本のニュースキャスター(まあそうでない人もいるのでしょうが)よりも遥かにインテリジェントな印象があるのですが(あ!こんなこと言っていると怒られそう!))、「TV is reality」と言ってインタビューを締めくくるのですが、この映画のテーマである本末転倒という要素に則して言えば、「Reality is TV」と言った方がより真実に近いような気がします。
ということでこの映画は、一見すると政治風刺(Political Satire)がそのメインテーマであるように思われるかもしれませんが、リアリティと虚構の境目が消失してしまった現代という時代の時代様式そのものの風刺でもある実にシニカルなブラックコメディであると言えるように思います。実を言えば先程述べた胸にモールス信号で「Courage Mom」と書いてメッセージを伝えようとする戦争捕虜の写真であるとか、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロ、アン・ヘッシュ、ウッディ・ハレルソン等の乗った飛行機が、ハレルソンが暴れるので墜落してしまうにも関わらず全員ピンピンしていて墜落現場で3人して言い合いをしているシーンなどは、いくらなんでも悪ふざけが過ぎるような印象があるのですが、政治批判或は時代様式批判的なテーマがいやになるほどシリアスに描かれるのではなく、最近の映画にしては珍しく何やらデタッチされたブラックユーモアを持って描写されている点が爽快ですらあるのです。いずれにしても、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロという現代の二大スターが共演しているこの映画を見逃す手はないでしょう。それからカントリーシンガーのウイリー・ネルソンが出演していて、恐らくこの映画の中で歌われている曲は彼が作曲したのではないでしょうか。殊にデモクラシーうんぬんがテーマになっているコーラス曲は、アメリカ人の中でデモクラシーという抽象的概念がいかにエモーショナルな価値価と密接に結びついているかが分かり実に興味深いのですね。それからアン・ヘッシュは(そう言えば最近でも男に走ったなどというケッタイな(まあ最近ではそうでもないのかな?)ゴシップ記事を見かけましたが)私目は結構好きな女優さんなのですが(この人結構写る角度によって印象が変わるのがいいのですね)、まあ大統領の取巻きの一人であるようにはとても見えないのですが、それはこの映画がブラックコメディであるということで許してあげることにしましょう。

2001/07/07 by 雷小僧
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