アメリカン・プレジデント ★★☆
(American President)

1995 US
監督:ロブ・ライナー
出演:マイケル・ダグラス、アネット・ベニング、マーチン・シーン、マイケル・J・フォックス



<一口プロット解説>
アメリカ大統領に再選されることを目指すマイケル・ダグラスは、ある女性ロビーイスト(アネット・ベニング)と知合い付き合うようになるが、対立候補のリチャード・ドレイファスはそれをネタにここぞとばかりに論戦をしかけてくる。
<雷小僧のコメント>
Variety紙にはこの映画がロマンティック・コメディであるように書かれていますが、私目はもう少しシリアスな作品であると捉えています。その理由は後で述べますが、そもそもまず第一に主演のマイケル・ダグラスはロマンティック・コメディに主演する役者としては余りにも張り詰めすぎています。ロマンティック・コメディの主演男優と言えば、「或る夜の出来事」(1933)のクラーク・ゲーブル辺りから始まって(それ以前は全く分かりません)、ケーリー・グラント、ロック・ハドソンを経由して60年代はトニー・カーティス、70代は「ウイークエンド・ラブ」(1973)のジョージ・シーガル辺りへと流れていくと思いますが、皆さん軽妙洒脱な雰囲気を持ち合わせていていかにもリラックスしているのですね。ところがマイケル・ダグラスは全くその逆で、いつも緊張感を漂わせています。そういうわけで、もうここのところでこの映画は連綿と流れるロマンティック・コメディの系譜とはやや異なるなという気がしてくるわけです。でも、その代わりと言ってはなんですが相手役のアネット・ベニングが如何にもリラックスしていて、その辺のバランスはうまく取れているように思えます。これがたとえば同じくアメリカ大統領を扱ったコメディ「デーヴ」(1993)の主演女優シガニー・ウイーバーであったとしたらとんでもないことになっていたでしょう。「デーヴ」のところでも書いたのですが、エイリアンと闘う女武闘派ウイーバーとダグラスの火花の散らし合いで、フィルムが摩擦熱で溶けてしまいそうです。
さてそれは別として、もう少しシリアスな映画であると捉えたいと前段で言った主な根拠は何かというと、この映画によってアメリカ大統領というものがアメリカ人の間でどう捉えられているかがよく分かるという点においてです。一言で言ってしまえば、象徴としてのアメリカ大統領ということになるのですが、それはこの映画の最後でアメリカ大統領を演じるマイケル・ダグラスが行う演説を聞いているとよく分かります。この演説をよく聞いていると、大統領としての政策とかそういう事が語られているわけではなく、リチャード・ドレイファス演ずる相手候補によって貶められた彼の象徴としての地位の回復がその演説の主要な意図であるということがよく分かります。彼がこの演説でいみじくも述べるように、大統領に相応しいか否かというのは「character debate」に関するものであり、彼が持つ政策の良し悪しというよりも大統領という象徴にまず個人として相応しいか否かが第一に問題となるわけです。だから相手候補の攻撃対象になるのも、彼の恋人(ベニング)がその昔星条旗を燃やして抗議行動を行ったということに対してであり、彼の政策の良し悪しとかそういうことに関してではないわけです。つまり、星条旗というものも又アメリカを象徴するものであり、たとえ本人でなくともその関係者がそれを燃やすということは、いわば大統領という象徴的な立場には全く相応しくないわけであり、ドレイファスはそれをうまく利用するわけです。けれども、まさに大統領という象徴に相応しいパワーでそのドレイファスの攻撃を捻じ伏せるダグラスの力強い演説終了後、この演説を聞いた人々の晴れ晴れとした表情が写し出されますが、それが物語っているのは、彼らが合衆国大統領から聞きたいことを聞いた或いは感じたいことを感じたということであり、端的に言えばアメリカを統合する一つの力強い象徴をダグラス演じる大統領自身の中に再確認することが出来たということであり、彼の政策に賛同したとかそういうことでは全くないわけです。
さてそれでは何故そういうような力強い象徴がアメリカでは必要になるのかということが次に問題になる訳ですが、その点がよく分かる映画としてポール・マザースキーが監督してロビン・ウイリアムズが主演した映画「ハドソン河のモスコー」(1984)を挙げることが出来ます。この映画は、モスクワのサーカス団に所属するロビン・ウイリアムズがアメリカに亡命する話であり、他の多くのロビン・ウイリアムズの映画同様コメディ調なのですが、ストーリーそのものよりも、アメリカという国は世界中の色々な国から集まってきた色々な人々(人種層)から構成されているなということが実によく分かるところが非常に素晴らしいと言えます(何せ到来の時期は違ってもインディアンを除けば皆余所者なわけですから)。この多人種であるという事実には、アメリカという国には他の国にはない展望があると同時に他の国にはない問題を抱えていることが示唆されていると言っても過言ではないでしょう。たとえば、この「ハドソン河のモスコー」の中に、レストランの客全員が合衆国憲法を唱えたり、今日が独立記念日であると思い出しただけで今迄喧嘩していた野郎どもが仲直りするシーンがありますが、これらのシーンにはアメリカの長所と短所がうまく表現されているように思われます。長所というのは、色々な人種から構成される人々のアメリカに対する希望、すなわち何か新しいことが出来るのではないかという希望、伝統に固まって身動きの出来なくなったような国(さてどこかな?)では出来ない何かが可能なのではないかという希望が持てるという点であり、短所というのは、そういう希望を持って世界中から人々が集まってきているので、統一的な象徴がないと簡単に社会がバラバラになってしまうという点です。専門家は別として、いったい日本で何人の人が日本国憲法を暗記しているのでしょうか。ほとんどいないでしょうね。これは、何も日本人が怠慢だというわけではなく、そういう必要がないと言った方がいいでしょう。すなわち、いちいち何かによって自分が日本人であるということを確認する必要がないわけです。ところが、アメリカという国にはこういうように独立記念日であるとか憲法(「アメリカン・プレジデント」にもダグラスが自分の娘に分厚い合衆国憲法をプレゼントするシーンがあります)とかいうような自分がアメリカ人であるということを確認する示標が必要なわけですね。アメリカ大統領もそういう示標の1つであると考えていいのではないでしょうか。要するに単に政治的な能力だけではなく、本来王であるとか皇帝が持っている象徴的なパワーが大統領には要求されているわけです。これに対して、日本の首相に対してはあまりそういう象徴的機能が期待されているわけではないような気がします。それは何も象徴的なパワーとしては別に天皇がいるというだけではなく、もともとほぼ単一民族国家である日本ではアメリカほどそういう強力な象徴的なパワーが必要とされているわけではないということがあるように思います。よく日本の歴代首相は、アメリカの歴代大統領に比較するとカリスマ的パワーに欠けている人物が多いと言われているような気がしますが、日本国首相にはそれは余り必要ないのですね。要するにこういう点に関しては日本の方がきっとドライで、首相はきちんと政治を行っていればそれで十分であると考えられているように思われます。従って陰で妾を何人囲っていようがあまり日本人は某クリントン大統領の場合のようには気にはしないのではないでしょうか。そういうわけで、きっと「日本国首相」などという映画は絶対に制作されないでしょうね。何せ平穏無事に政治を行っている日本国首相を映画にしてもきっとドラマにも何にもならないでしょうから。
最後に付け加えておきますと、あるアメリカ人はこの「アメリカン・プレジデント」という映画が非常に嫌いだと言ってました。理由は聞かなかったのですが、何となく分かるような気がします。というのは、これまで述べたようにこの映画を見ているとアメリカ人の特にアイデンティティに係わる内面的な側面が何となく透けて見えそうな気がするわけで、きっと骨をしゃぶられるような気がしたのではないでしょうか。まあ推測ですが。

2000/06/30 by 雷小僧
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