ナポリ湾 ★★★
(It started in Naples)

1960 US
監督:メルビル・シェイベルソン
出演:クラーク・ゲーブル、ソフィア・ローレン、ビットリオ・デ・シーカ



<一口プロット解説>
イタリアに住む兄を事故で亡くしたアメリカ人ビジネスマン(クラーク・ゲーブル)が、その後始末にイタリアに赴くが、その事故で同時に亡くなった兄嫁の姉妹(ソフィア・ローレン)と兄の息子が現れる。
<入間洋のコメント>
 クラーク・ゲイブルとソフィア・ローレンが主演であるにも関わらず何故かそれ程人気があるとは言い難い作品であるが、実は個人的には非常に気に入っている映画の1つである。何が素晴らしいかというと、タイトル通り陽光溢れるナポリ近郊が舞台になっており、とりも直さずそのゴージャスなカラーが見る者を圧倒する点が素晴らしい。1960年代前半の作品の中では、この作品とマルセル・パニョル原作でマルセイユが舞台である「ファニー」(1961)がそのような映画の双璧だろう。この両作品はゴージャスなカラーと言っても、1950年代の映画にしばしば見受けられ、カラー映画の申し子ビンセント・ミネリの作品によって代表される人工的な色の豪華さではなく、自然の持つゴージャスな色合いが巧みに捉えられている点が特徴的である。カラー映画が本格化しつつあった1950年代に、カラー映画の利点を最大限に引き出す為にアフリカやアジアを舞台とする映画がしばしば製作されていたことはこれまでも述べてきたが、この2作品を見ていると、1960年代に入ると何もそのような遠方までわざわざ出掛けなくともヨーロッパ内部にもそれにふさわしいロケーションがあることにあたかも気付いたかのような印象すら受ける。

 しかしながらこの作品の興味深さは、単にゴージャスなカラーが素晴らしいところのみならず、色のゴージャスさによって代表される余剰性に対する見方とはある意味で文化的な様式とも不可分な関係にあるのではないかということに気付かせてくれるところにもある。この映画の主人公はアメリカからイタリアに用事でやってきたビジネスマン(クラーク・ゲイブル)であるが、彼は明るい陽光に溢れたナポリの祭り好きで陽気な人々とは全く対照的に常に合理的な計算によって行動しようとし、殊に最初は常に効率的、合理的、規則的というようなビジネスライクな思考様式を基盤として振舞う。たとえば、現地の生水は飲まない、夜遅くなっても人々が自宅に帰らないのを不思議に思うというような具合であるが、極めつけは、ハンバーガーを作る時に個々の材料をアセンブリラインのように並べてまるで自動車工場のように規則正しくハンバーガーを調理する(というよりも組み立てる)シーンであろう。そのようなモノトーンとも言える彼の行動様式を見ていると、モダンでビジネスライクな思考様式とは、実は色彩のゴージャスさによって代表される過剰性或いは多様性を適切に扱えない或いは認めることが出来ないのではないかという印象を受ける。このことは、ビジネスライクな環境が当然なものとして生活する我々日本人にしても同様であり、たとえばどこの会社のオフィスにしたところで溢れんばかりの色彩で満ちているなどということはまず有り得ないだろう。いかにシンプルであるか、いかに効率的であるかが主要な関心事であり、色彩的なゴージャスさとはイコール余分で過剰なものと見なされるのが現代社会の一種の掟になっているようでもある。

 言い方を変えると現代社会とは経済社会であり、需要と供給の関係が支配する経済社会とは、大量消費社会という表看板とは裏腹に、本質的な面においては実は過剰性を許さない社会なのではなかろうか。ものの本来の価値よりも金銭的価値という相対的尺度に依存する経済社会では、供給過剰とは価格破壊(価値破壊)を意味し、過剰であることはむしろネガティブなものと見なされる傾向がある。そのような社会で育った人々の考え方とは、事象を常に相対的な価値システムに照合して間接的に推し計ろうとし、余剰なものに対する評価を行うことが得てして不得手である傾向がある。クラーク・ゲイブル演ずるビジネスマンは、最初は文字通りそのような思考様式をベースとして振舞う。確かにジョルジュ・バタイユを筆頭として経済をも含めた文化事象一般を稀少性という観点からではなく余剰という観点から捉えようと試みた人はいないわけではないが、現実の現代社会は希少であることすなわちネガティブであることが価値を持つ社会であり、もの本来が純粋に持つポジティブな価値は二次的なものとして扱われる社会だと言えるのではなかろうか。一言で言えば、過剰や強度はビジネスの世界ではなくアートの世界に属し、これら2つの世界は完全に相互排他であると考えられるのが現代社会では普通だということである。

 それに対してイタリアの持つ豪華な色彩は経済的原則とは別の次元に属するものであり、この映画のポイントの1つは、経済原理を金科玉条とする社会からやって来た主人公が、徐々にそれとは全く別の環境に馴染んでいくことによって考え方或いは生き方そのものを変えていくところにある。確かに色彩は豊かであっても人々の生活は豊かではないのではないかと疑問を呈することも可能ではあるが、しかしこの見方は一面的であり、この映画のエネルギーに満ちた祝祭シーンなどを見ていると豊かさとは一体何が豊かであるのか或いは何の為の豊かさなのかがもう一度問われる必要があることに気付くことが出来る。そのような観点でこの映画を見直してみると、忙しい現代社会でミツ蜂のように働いていた人物が、何もない無人島に出掛けて何もしない生活を始めたところ、最初は何もしないことが不安で仕方がなかったのだが、徐々に環境に慣れるにつれてそれが至福に感じられるようになったというような逸話を思い出す。別にこれは怠惰を奨励する逸話ではなく、人間には生来備わった独自のリズムがあるにも関わらず現代社会に住む我々はそのようなリズムを忘れて異常とも言えるストレスの中で生きているのではないかという警鐘でもある。主人公が最後に悟るのもこの点であり、自分がそこからやってきた社会のあり方が実は必ずしも全てではないことに気が付きイタリアに残る決心をする。基本的にこの作品はロマンティックコメディであり、これまで述べてきたような或る意味で比較文化論的とも言える極めてシリアスなテーマが軽妙洒脱に語られている点がこの作品の最大の魅力である。付け加えておくと、アレッサンドロ・チコニーニの恐ろしく祝祭的な音楽が、この作品の雰囲気を更に盛り上げ実に素晴らしい。国内でもDVDがようやく発売されたようであり、これを機にもう一度見直されてしかるべき作品の1つである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/05/12 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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