マーフィの戦い ★★
(Murphy's War)

1971 UK
監督:ピーター・イエーツ
出演:ピーター・オトウール、シアン・フィリップス、フィリップ・ノワレ、ホルスト・ヤンセン


<一口プロット解説>
ドイツ軍のUボートに仲間を皆殺しにされたある水兵が、このUボートを見つけて破壊し執拗に復讐を遂げようとする。
<雷小僧のコメント>
昔、テレビ放映やビデオでこの映画を見ていた頃は、余り感心して見てはいなかった作品ですが、最近DVDを買って見るようになってからはかなりこの映画を高く評価するようになりました。ドイツ軍のUボートによって同僚が惨殺されただ一人生き残ったピーター・オトウール演ずる主人公が復讐に燃えてワンマンクルセイド(何しろ戦争が終っても彼には全く関係がないわけですね)にひた走るという内容は、マカロニウエスタン的な復讐劇的様相が色濃くあるような印象があって、それ故どう見てもとても一級の作品のようには見えなかったということが、昔あまりこの作品に対して良い印象を持ってはいなかった理由の1つとして挙げられます。ところがやはり劇場で見たことはなかったが故に、本来劇場ではどのように見えたであろうかということが分かってはいなかったのですね。すなわち、この映画の素晴らしさは、そのようなプロットをバックアップする背景(ここでいう背景とは文字通りバックグラウドとなる風景、舞台という意味です)にあり、どうやらエクアドルで撮影されたようですが、南米の濃厚な風土がこの復讐劇をまさに濃密たらしめているという点に存在します。濃密な復讐劇という言い方をすると何やら血で血を争うギャング抗争というように聞こえてしまうかもしれませんがそうではなく、復讐の鬼と化したピーター・オトウール演ずる主人公の粘液質的なというべきか偏執的なというべきかある種の澱んだパーソナリティが新たな空気に晒されることがないが故に時間を追う毎にますます密度を増して濃密になって行くというような意味合いにおいてそのように言っているわけであり、カラッと晴れ渡っているにも関わらず湿度がいかにも高そうな、しかも風があまり吹かないので空気が滞留していかにも重そうな南米の密度の高い気候によってそのようなパーソナリティが心象風景的にうまくバックアップされているということです。
ところで、そのようなアスペクトを画面上から感得するには、やはり最低でもDVDの解像度が必要なのですね。擦り切れたようなレンタルビデオで見ていては、どうしても細部を無視せざるを得ないが故に結局見ている画像は、相当抽象化されたものになってしまうわけです。その結果の1つとして細部のバックグラウドよりもプロットばかりを追ってしまうということに繋がってしまうわけです。この辺りがやはりDVDの良いところで、その解像度の良さによって今迄は気が付かなかったことにも気が付くようになるわけです。最近では同様な印象を同じくピーター・オトウールが主演の一人である「おしゃれ泥棒」(1966)でも受けましたがDVDの効用とはこのようなところでも現れていると言っても間違いないでしょう。もともと私目は必ずしもビジュアルインプレッションを重視する方ではありませんでしたが、勿論全てのタイトルにすべからくそれが当て嵌まるわけではありませんが少なくとも「マーフィの戦い」のようなタイトルに関してはDVDを買うようになってからビジュアルインプレッションもやはり重要な要素であるなと思うようになりました。殊にこのタイトルのDVDは特典が何も付加されてはいませんが、画像クオリティがこの年代の映画としては極めて高くビデオを既に持っていたとしても買う価値が十分にあるプロダクトであると言えるでしょう(※)。
※但し、このタイトルは国内版もあるようですが私目の持っている「マーフィの戦い」のDVDは2003年に発売されたものであり、それ以前に発売されていた国内販売のものと同じであるかは良く分かりません。
ということでやや本題からはずれてしまいましたが、いずれにしてもこの作品は主人公のパーソナリティにマッチしたステージが巧みに用意されていて、ピーター・オトウール演ずる主人公のほとんどパラノイアックとも言える復讐心がそのようなバックグラウンドを通して画面から見事に滲み出てくるような好作品であると言えます。またこのようなパラノイアックな人物を演ずるとピーター・オトウールはなかなかうまく嵌まるのですね。そもそも彼の名前を聞くと思い出さざるを得ない「アラビアのロレンス」(1962)でのT.E.ロレンス役も、或る意味偏執的な人物が描かれていると言ってもよく、拡散的な(スキゾなというとさすがに言い過ぎなので拡散的なと言うことにします)傾向を持つ遊牧民的な砂漠の民の中にあって、偏執的とも言える熱意で1つの理念を追求する一種のワンマンクルセイド(砂漠の民の側からするとクルセイドという言葉が引っ掛かるであろうことは、ブッシュ大統領がアフガニスタンであったかイラクであったかに侵攻する作戦名からアラブ側の反発を恐れてクルセイドという用語を削除せざるを得なかったことからも容易に推察出来ます)を体現するのがT.E.ロレンスであったということが出来るでしょう。1つの極に収斂することのない世界で歴史を動かそうとすると、異常とも言える程に1つの極に集中することの出来るような人物が必要となるわけですが、それがまさにT.E.ロレンスであったということが出来、そのロレンスをピーター・オトウールは好演していたわけです。
「マーフィの戦い」からは少しはずれてしまいますがもう少しこの点を敷衍すると、アラブ世界すなわちイスラム的世界観とアメリカを含めたヨーロッパ西欧のキリスト教的世界感はわざわざ言うまでもなく大きな違いがあるわけであり(恐らく現在のアメリカとアラブ諸国の反目の根底に宗教観が全く影響していないとは言えないでしょう)、勿論具体的には私目がこれらのどちらか或いは両方に詳しいというわけではありませんのでこのようなことをいい加減な推測で書くことは問題であるかもしれませんが、しかしながら少なくとも私目の印象としてあるのはキリスト教の場合はあくまでも歴史上実際に存在したイエス・キリストという存在は神様と人間のミディエーター(媒介者)であるという位置付けになるが故にバックに存在する神の存在は或る意味で具体的な歴史的文脈からはややはずれたかなり抽象化された存在として捉えられているのではないかと思われ、且つ歴史上具体的に存在したイエス・キリストその人に対する信仰はアブストラクトな神様の存在に対する信仰に直ちに三位一体的な還元/昇華が行われるのではないかと思われるのに対し(誤解のないように付加しておくとこれはキリスト教を信仰する人々の神様に対する信仰そのものが具体的な文脈から離れていると言っているわけではありません)、イスラム教の場合は確かに「アラーの神よ」とはいいながらも、その権威の多くはむしろそれとはかなり独立して(すなわちキリスト教的に三位一体的な還元が行われることなく)存在するマホメットという歴史上実際に存在した予言者及びコーランという現世的な戒律を多く含んだ聖典に多くを依存しているが故に、キリスト教に比べるとより具体的且つより状況依存的な側面が強いのではないかと思われる点です。従ってイスラム教世界では線的な歴史観、すなわち過去、現在、未来というパースペクティブに依拠する歴史観(この言い方は既に冗長でしょうね。何故ならば「歴史」と言うこと自体が既に過去、現在、未来という線的な時間継起を前提とするはずだからです)はキリスト教世界程には発達しなかった、すなわち西欧的な意味合いにおける「歴史」という観点からは、アラブイスラム世界の歴史は実は全く動いてはいなかったと言えるのかもしれません。何故ならば、歴史が依拠する過去、現在、未来というパースペクティブを持つことは既に、具体的コンテクストからは離れたかなり抽象化された思考様式を必要とするからです。それに対し、キリスト教において未来における救済を語ることは既に過去、現在、未来というパースペクティブを前提にし且つ同時にそれを育むことにもなるわけです。要するに左の頬を打たれたら右の頬を差し出せというようなキリスト教的見方が未来における救済を前提しなければ恐らく必ずや成立し得ないであろうのに対し、イスラム教的な目には目をという考え方は、まさにこの未来における救済というようなアブストラクトな考え方の欠如を物語っているものと言えるのではないでしょうか。ここでクリーシェ的に西欧キリスト教世界=パラノ、アラブイスラム教世界=スキゾなどというようなことを言うつもりは毛頭ありませんが(と言いながら言ったことになるのかな?)、いわば部族単位でバラバラになっていたアラブ世界の統一という1つの目標を達成するのに何故外来者であるT.E.ロレンスという触媒が必要であったかというと、その1つにはキリスト教的なアブストラクトな見方がそれには不可欠であったということであり、またそのような見方をまさにパラノ的な極限まで突き詰めることが出来る人物が必要であったということではないでしょうか。
ということでまたまた寄り道が過ぎましたが、そのようなキャラクターを演じた時のピーター・オトウールはまさに絶品であると言えます。他にも「将軍たちの夜」(1967)での役も実に興味深く、誇大妄想的な戦争マニアのように戦車でワルシャワの街を蹂躪しながらも、戦争とは全く関係のないパーソナルな猟奇的殺人をその裏で人知れず繰り返すという異常なパーソナリティを演じていて鬼気迫るものがありました。ゴッホの絵の前でひきつけを起こしながら次の日にはまたそれを見にいく様子は、死せるキリストを描いたハンス・ホルバインの絵の前で癲癇発作を起こしそうになりながらも、次の日には再び引付けられたようにその強烈なインパクトのある絵をもう一度見ようとしたという癲癇持ちのドストエフスキーのようでもありますが、ドストエフスキーのそれが天才故の過剰に由来するとするならば、ピーター・オトウール演ずるメガロマニアックな人物のそれは虚無の中でのむなしきあがきに由来すると言えるかもしれません。言い換えると、ドストエフスキーのそれが創造的なパワーに関連するとすれば、ピーター・オトウール演ずるパーソナリティのそれは何も生み出すことのない破壊的なパワーに関連するとも言えるでしょう。そのような虚無のパワーに取り憑かれて生命感の全く枯渇した人物を、まさにその通りに演じているのが極めて印象的でした。また「オリエンタリズム」のエドワード・サイードがオリエンタリズム的な小説の典型例の1つとして取り上げるジョセフ・コンラッド原作の「ロード・ジム」(1965)では、異常な程の執拗さで自らの恥ずべき過去の贖いを得ようとする主人公を演じていました。また国内未公開であるように思いましたがピーター・メダックのややわけのわからない映画(それ故評価も実際定まっておらず、私目も一度見ただけで何じゃコリャと思ってそれ以来見てはいないのですが)「The Ruling Class」(1972)でも自分をイエス・キリストであると思っている(実際教会の壁に架けてある十字架に自ら磔付け状態になっているのですね)人物を演じています。そのオトウールの面目躍如たるパフォーマンスをこの「マーフィの戦い」でも見ることが出来、或る意味で彼がこれまで体現してきたキャラクター像をこの作品では最も明快な形でストレートに演じていると言っても過言ではないでしょう。最近作「トロイ」(2004)にも出演して、まだまだ現役であるところを見せてくれたオトウールですが、ということで彼の持っているエクセントリックなパーソナリティをこの「マーフィの戦い」という作品では、典型的且つより明快に見ることが出来ると言えるように思います。尚、蛇足ですが当時奥さんであったシアン・フィリップスも共演しています。
それからストーリーそのものに関係する話ではないのですが、以前見た時からこの映画に関して不思議に思っていることを2つ程挙げて締めくくりとしたいと思います。1つはいくら南米の川とは言え、第2次世界大戦当時のかなり大型の潜水艦が川を溯り、ましてやダイブなど本当に出来るのかいなという疑問です。最後のシーンでピーター・オトウール演ずる主人公が偏執的に追いつめるドイツのUボートは、急速潜航して海底(ではなくて川底でした)の泥に突っ込んで動けなくなってしまいますが、そもそも最初から潜水艦が川を溯るなどもともと鮭でもあるまいし不可能なのではないかという気がするのですが実際はどうなのでしょう。結局まあ、あちらの人は瀬戸内海を川であると思って「日本にもこんな大きな川があるのか」と思ったというような逸話があるくらいなので、まあ実際はこの映画のようにそれが可能な程南米の川は雄大であるということなのかもしれませんが。それから南米の川で第2次世界大戦中にドイツのUボートが一体何をしているのでしょうかという疑問です。歴史的に本当にドイツのUボートが南米の河川に出没したことがあるかということは全く知りませんが、そんなところでUボートの本来のジョブである通商破壊戦をして一体何の意味があるのかなということですね。それとも何か別のジョブがあるのでしょうか。河川を溯ると言えば植民地帝国主義の権化たる砲艦の存在が知られていますが、と書こうとしましたが先も「アラビアのロレンス」のレビューを書く時に書くべきであるようなことをここで書いてしまいましたのでこの話題に関しては「砲艦サンパブロ」(1966)のレビューを書いたた時にでも触れようかなと思い直してここでは止めることにしました。いずれにしても、第2次世界大戦中にドイツのUボートが南米の河川で何をしているのかということについては、フィクションであるから気にしないことにしておきましょう。

2004/08/28 by 雷小僧
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