炎の人ゴッホ ★★★
(Lust for Life)

1956 US
監督:ビンセント・ミネリ
出演:カーク・ダグラス、アンソニー・クイン、ジェームズ・ドナルド、パメラ・ブラウン

<一口プロット解説>
画家ビンセント・ヴァン・ゴッホの半生を描いた伝記。
<雷小僧のコメント>
タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「伝記映画の見本<奇跡の人>」の章冒頭にも書きましたが、基本的に私目は伝記映画はもとより伝記そのものがあまり好きではない方ですが、例外的に好きなものもありその1つとして「奇跡の人」(1962)等とともにこの「炎の人ゴッホ」を挙げることが出来ます。勿論、かの有名な画家ビンセント・ヴァン・ゴッホの伝記ですが、一生が描かれているわけではなく炭鉱町に牧師として赴任する25才の頃から彼が亡くなる37才(だったかな?)までの半生がその対象になっています。映画も好きであり絵画も好きであるというオーディエンスには是非ともお勧め品ですが、そうでない人もこの作品は是非見るべきでしょう。とわざわざ言うまでもなく、映画ファンであればこの作品はまず少なくとも一度は見たことがあるのではないかと考えられますが、しかしこの作品は国内でも本年度に入って発売されたDVDバージョンで是非とも見るべきであると付け加えておきましょう。というのもこの作品は、ヴァン・ゴッホという画家が題材であることもあってかカラースキーマ及びワイドスクリーンによる画面構成が1つの大きなポイントでもあり、その点で言えばDVDバージョンによってようやくこの作品の本来の真価が認められるようになったと言っても決して過言ではないからです(勿論この映画を劇場で見ることが出来たという幸運に恵まれた人ならばそれに越したことはありませんが、少なくとも1960年生まれの私目はそのような幸運には浴することが出来ませんでしたので)。この作品は勿論私目もこれまでTV放映やビデオで何度か見たことがありますが、今年発売されたDVDバージョンを見て思わず唸ってしまいました。勿論カラーが鮮明なことも挙げられますが、もともとワイドスクリーンで撮影された映画が、ビデオ等でのようにテレビサイズに合わせてスタンダードサイズに裁断されると殊にこの作品の場合その良さの大きな部分が失われてしまうのですね。DVDバージョンを買った人に是非注意して見て欲しいポイントは、この映画には画面をフリーズさせてキャプチャすれば額縁に入れて飾っておくことが出来そうな程ほれぼれとするような画面構成のシーンが結構あることです。まあ正直言えば、あまり私目はそのような美術的センスがあると自慢して言える方ではありませんが、それでも、そのようなセンスでうーーーんと唸るようなシーンが多々あるのですね。
またこの映画を見る場合には是非とも夜間部屋の明かりを消して映画館のように暗い状態にして見ることをお薦めします(ひょっとしてそれでは目が悪くなるのかもしれませんがこの映画の場合はそうするまでの価値があるのですね)。というのも電灯の明かりの写り込みによって画面のコントラストが損なわれるとこの作品の素晴らしい色合いを鑑賞出来なくなってしまうからです。もともと画質の悪かったレンタルビデオ等ではさ程大差がなかったとしても、DVDで見る場合はそうするとしないでは大きな違いが出ることは、実際に部屋を暗くして見た私目が請け合います。ところで、色合いという点に関して言えば、ビンセント・ミネリが監督ということで、この映画としてはこれ以上は考えられない程のベストチョイスだと言えるでしょう。ミネリは、カラー映画が本格化する1950年代にあってカラーに対する実に先進的な感性を持っていた人で、彼が監督した映画にはミュージカルにしろ通常のドラマ映画にしろ独特な色合いを常に見て取ることが出来ます。カラーが当たり前になった現在の映画を見ていて思うことの一つに、現在の映画はカラーか白黒かという観点から見ると実はニュートラルとでも言えるような印象が強い映画が多いということであり、要するに色自体がオーディエンスの意識的な対象として扱われるべきものとして扱われることがほとんどないということです。たとえば最近の映画の中では私目が最も好きな作品の一本であるスピルバーグの「マイノリティ・リポート」(2002)などほとんどモノクロと言っても良い程カラーレスな映画であり、また「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのような本来もっとカラフルであって良いはずのファンタジー映画でも色合いが強調されることがほとんどないと言っても良いところです。昔テレビ放映が完全にカラー化されていなかった頃、新聞のテレビ番組欄にカラー番組には<カラー>というマークが付加されていた時期がありましたが、この頃はまだ映像がカラーであるか否かがオーディエンスの意識的な大きな関心事の1つであった頃であり、そのような時代と現在との間にはカラー映像に対する見方の差に大きな違いがあるのはむしろ当たり前だと言えるかもしれません。勿論それによって言いたいことはそのこと自体が良いとか悪いとかいうことでは全くなく、映画としての見るべきポイントとはそれが製作された時代時代によって変わってくるということであり、「炎の人ゴッホ」という映画はまさに色合いというポイントが大きな意味を持っていた時代に製作された作品であり、画家が主人公であるという題材的な側面との融合という意味合いも含めそのような時代にあってすらベストとも言える作品の一本であったということです。従っていくら内容とは大きな関係がないだろうとは言っても、この点を無視してこの映画を見てしまうとその良さの大きな部分を見失ってしまうことになことになり、またDVDの高品質な画像はこの作品を再評価するにはこれ以上ない程の機会を与えてくれるということが強調されてしかるべきでしょう。
ということでここまでは見てくれ的な部分についての素晴らしさについて専ら言及してきましたが、この作品の素晴らしさはそのような外面的な部分においてのみならず内容面においても存在することが忘れられてはなりません。この作品はヴァン・ゴッホという一人の画家が主人公ですが、実は私目はいつも絵画とはいったい何なのかなという疑問を抱いていました。勿論それによって反語的に何の意味もないのではないかということを言っているのではなく(世界の絵画の歴史を一人で否定したらそれこそ気違いだと思われるのが関の山でしょうね)、たった一枚のキャンバスに描かれているだけのものがどうしてそれを鑑賞する者にとって大きな意味を持ち得るのかという疑問です。たとえば、小説であれば一冊の本を通じて何らかの大きなテーマがそこには潜んでいるのではないかという印象を、たとえ錯覚であるとしても受けるのが普通であり、また映画にしてもそれは同様です。つまりこれらの芸術には明らかに語られるべき何かが背後にあるだろうという印象を与えるのが常であるのに対し、絵画にはちょっと見にはそれが存在するようにはとても思えないところがあります。要するに、絵画の場合そこに何が表現されているかを理解することは小説や映画の場合程容易ではないということです。では他の芸術でより絵画に近そうな音楽はどうなのかということになりますが、少なくとも近代音楽以前においては音楽自体にも、映画や小説同様、背後に存在する何かを語るという語りという意味でのナレーション的な側面が多かれ少なかれどこかに存在していたように思われ、たとえば調性音楽は一種のナレーション的側面を持っていた、すなわち表現されるべき何かが明確にその背後に存在していたと言ってしまうと専門家に笑われるでしょうか。よく「arts for arts sake」というようなことが言われますが、実は芸術の長い歴史の中では結局純粋な表現されるべきもののshowingよりもtelling(ナレーション)の方により大きな比重が置かれていた時期の方が遥かに長かったと言えるように思われます。つまり純粋に何かを表象するよりも、背後に存在する主題を作者が何らかの時系列的展開の中で語るというようなケースの方が一般的だったということであり、鑑賞する側もそういうモードに慣れているのですね。それが故に逆にtellingよりもshowingの方がより芸術的であると考えられたりもするわけです。何故ならば、表現されるべきものが厳然たる普遍的絶対存在として一種の達成目的として存在し、表現すること(telling)がその目的を達成する為の手段であると考えられると、表現することは表現されるべきものを実現表象する為の単なる手段或いは部分集合であるように見做され得るからです。勿論小説はtellingがより前面に出る度合いがどうしても大きくなる分野ですが、そのような考え方を延長すればその小説ですらそれが芸術であると見做されるならばshowingに純粋にフォーカスされるべきであるという「arts for arts sake」の考え方が頻繁に頭をもたげ始め、近現代小説の中にはそのようなモットーが極端な形で適用されているが故にほとんど読解不能とも思われるケースまで存在する程なのです(私目は読んだことはありませんが悪名高きジョイスの「フィネガンズ・ウエイク」等がその典型例なのでしょう)。またウエイン・C・ブースのような文芸評論家が、純粋芸術としては蔑まれるtellingの部分を実現するレトリックが小説の中では如何に大きな役割を果たしているかを豊富な実例を駆使して例証していますが、これは逆に「arts for arts sake」だけで小説を語り尽くすことがいかに不可能なことであるかを示唆しているとも言えるでしょう。このようなナレーション的な側面が入りこむ余地が極めて少ない絵画というジャンル(勿論絵画においてもナレーション的側面が入り込む余地がゼロであるわけではなく、たとえば風景画などは鑑賞者の頭の中に喚起された一種のストーリー的なナレーションに大きな比重が置かれていることは言うまでもないところでしょう、従って見慣れた風景画はあたかも一目見ただけでそれが理解出来るような気になるわけです)においては、そこに何が表現されているかを理解することは実はそう簡単なことではないはずです。そのような疑問に対する1つの回答或いは回答に至るヒントを、この映画からは見出すことが出来るような気がするのですね。
どこかの誰かが言うように遥か古代にプラトンが仕掛けたイデアと洞窟という魔術から未だに目覚めることが出来ないということかどうかは別として、我々現代人は抜き難い偏見を持っていて何事に関しても表現するものと表現されるものは全く別のものであり、理想状態としての表現されるものとは必ずそれを表象する媒介を通して表現されざるを得ないと考える傾向があるのではないでしょうか。前段で述べたshowing或いは「arts for arts sake」の考え方とは、理想状態としての表現されるものとは、それ自体として或いはそれがどうしても不可能であるならばあたう限りそれを表象する媒介なしにshowingされなければならないという考え方だと言えるでしょう。それに対しナレーション(telling)とは、表現されるべきものを媒介する手段として最たるものであると言えるでしょう。しかしながらいずれにしても、表現されるべきものと表現するものの違いが存在するという考え方が必ずどこかに前提として存在するということには相違がないのですね。かくして理想状態として表現されるべきものを普遍的なものとして捉えた場合問題になることは、それではその普遍的なものを表現するにはどのような表現が必要なのかということになります。すなわち、どのようなナレーションを通じて理想的なイデアたる普遍が表現されるべきかが問題になるはずです。この映画でアンソニー・クイン演ずるポール・ゴーギャンの考え方がまさにこれなのですね。すなわち、彼の絵画は彼が理想であるものと考えている何ものかを表現する為のナレーションとして存在しているのですね。彼が抽象性を重視していたことは知られていますが、抽象性が焦点となれば次に問題になることはどのようにしてその抽象性を実現するかということになります。ところが、ヴァン・ゴッホはゴーギャンとは全く正反対なのです。すなわち、彼が表現しようとしているもの全ては表現そのものと何の区別もないばかりか実は彼自身の存在そのものでもあるのです。彼の絵とは、この映画のタイトルが示す通り彼の「Lust for Life」なのです。すなわち、表現するものと表現されるもののギャップが極小であるのが彼のケースであり、表現するものと表現されるもののギャップが極めて大きなゴーギャンとはまるでその資質が異なるということです。従って、この映画でもゴッホとゴーギャンは気質的に対極にありながらも、いやそれだからこそ最初は馬があって一緒に暮らしたりもしますが、結局はそれが破壊的な影響をヴァン・ゴッホに齎してしまうのです。ゴーギャンが家の中に閉じこもって絵を描くことが出来るのをゴッホが不思議な顔をして見ているシーンがありますが、このシーンはこの二人の気質の違いをものの見事に表現していると言っても良いでしょう。すなわちゴーギャンが描いているのは表現されるべきものそのものというよりもそれを表象するナレーションであるが故に彼の全存在そのものとイコールであるようには彼自身も思ってもいないのに対し、ゴッホは自身が表現するものとはそれを表現しようとする彼の内的世界そのものとニアイコールであるが故に彼の存在が抑圧されたような状況下では絵そのものも書くことが出来ないわけです。またゴッホがゴーギャンの絵を見てどうしてそんなフラットなタッチで絵が描けるのかと詰問調に問いかけるシーンがありますが、ゴーギャンが描いているのは決して表現されるべき対象そのものではなく、又ゴーギャンその人の存在そのものでもないということがゴッホには理解出来ないのですね※。ヴァン・ゴッホは、画家でもあった詩人のウイリアム・ブレイクと同様、個別的な一瞬から一挙に永遠或いは普遍を見出すことが可能であった稀有の才能の持ち主であり、そのような才能の持ち主にとっては表現されるものと表現するものの間に垣根を設けることは何の意味もないことであったとすら言えるでしょう。一瞬の中に永遠を見るなどという神業が可能であった天才は、ヴァン・ゴッホやブレイク、或いはニーチェもそうかもしれませんが彼らのように狂気と紙一重でもあったのです。まあ、この映画を見ながら天才に生まれないで良かったと安堵のため息を漏らすことにしましょう。

※取り合えず言い訳をしておきますと、これはこの映画を見て私目が感じたことを書いたまでであり、実際にゴーギャンやゴッホの絵がこの解釈の通りであるか否かは問わないようにして下さい。それを判断出来るほど彼らの絵を見たことがあるわけではありませんので悪しからず。

2006/04/08 by 雷小僧
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