ラオ博士の7つの顔 ★★★
(7 Faces of Dr. Lao)

1964 US
監督:ジョージ・パル
出演:トニー・ランダール、バーバラ・イーデン、アーサー・オコンネル、リー・パトリック



<一口プロット解説>
不思議な中国人(トニー・ランダール)が率いるサーカス団(団員も全てトニー・ランダールが演じている)が、とある町にやって来てサーカスを開催する。
<入間洋のコメント>
 ジョージ・パルと言えばSF映画の製作や監督で名高いが、その彼の最後の監督作品が「ラオ博士の7つの顔」であり、お得意のSF映画ではなくどちらかと言えばファンタジー映画の範疇に属する作品であると捉えるべきだろう。ヘンリー・レビンとの共同監督である前作の「不思議な世界の物語」(1962)もグリム童話を基にしたチャーミングなファンタジー映画であったが、SF映画とともにファンタジー映画はもともと特殊効果マンであった彼の才能を有効に活かせる縄張り領域であったのだろう。「ラオ博士の7つの顔」では、トニー・ランダール演ずるラオ博士率いるサーカス一座が(と言っても本書でも紹介した「地上最大のショウ」(1952)のようなサーカスではなくカーニバルショー的なものだが)、ある田舎町にやってきて不思議なパフォーマンスを繰り広げ、町の人々に不思議な影響を与えて再び去ってゆくというようなファンタジー映画にふさわしいストーリーが展開される。注目すべきは、主演のトニー・ランダールが、サーカス一座の団員全てに扮して一人七役を演じていることであり、これには、同年に製作された「博士の異常な愛情」(1964)で一人三役を演じているピーター・セラーズも真っ青であろう。

 そのようなファンタジー的な魅力に溢れるこの映画を見てふと思うことは、確かにサーカスには得もいわれぬ魅力があるということである。恥ずかしながら個人的にはサーカスなど一度も見に行ったことはないが、テレビのサーカスショーなどを見ていると、サーカス小屋に足を一歩踏み入れた途端別世界が拡がっているというような表現の意味が確かによく理解出来る。少し大袈裟な言い方をすると、日常世界が実は絶対確実でそれしか存在し得ないようなものであるわけでは決してないということを、心の奥底で目覚めさせてくれる何かがサーカスの世界には拡がっている。この映画の中でも、ラオ博士が率いるサーカス一座のテント小屋が外から見るとちっぽけであるにも関わらず中は随分と広いというようなことをある観客が呟くシーンがあるが、ただ単なる空間的な広さを越えた時空の拡がりがサーカス空間にはあることがこのシーンによって示唆されており、ずばりサーカスの持つ非日常性について言及されていると言っても良いだろう。実を言えば現代消費社会においては、非日常性或いは非日常空間などの用語がコマーシャル等によって氾濫している為、あたかも日常性の方が特殊であるような印象すら受ける程であるが、サーカスには単なるコマーシャリズムを越えた非日常性を感じさせる何かがある。気のせいかもしれないが、昔はよくテレビでサーカスショー番組が放映されていたように覚えているのに対して、最近はサーカスそのものの人気がほとんどなくなってしまったような感がある。コマーシャリズムによって非日常性や非日常空間というような言葉が飼い慣らされてしまった結果、本来本当にそのようなパワーを有していたサーカスというイベントまでもが飼い慣らされたコマーシャリズムの尺度で計られるようになり、結局他のもろもろの流行遅れとして廃れてしまったイベントと同じように廃れてしまったということであれば、それは実に残念なことである。

 それではサーカスの持つ非日常性とは何であろうか。それは、世界を見る別の見方が存在することに少しでも気が付かせてくれるパワーなのではなかろうか。たとえば、チベットに住むある僧侶は、コップに入った一杯の水を飲むのに、コップのどちら側から水を飲むかによって全く別の体験を得ることが出来、違った至福感に浸ることが出来るというような逸話がある。世俗の世界に住む我々は、それは冗談であろうと思うかもしれないが、そう考えるのは我々の方がある固定した見方しか出来ないように教育されているからではなかろうか。人間の持つパワーの1つは物事を抽象化する能力であり、この抽象化能力があるからこそ現在のような文化文明が発達し得たわけだが、しかしながらその途上で失ったものもそこには少なからず存在する。コップのどちら側から水を飲もうがそれはコップから水を飲むという行為には変わりがないと思うのは抽象化された思考のなせる技であり、コップのこちら側から飲んだ時とあちら側から飲んだ時では実は体験していることが全く同じではないという単純な事実がそれによって捨象されていることになるが、そのことに普段我々が全く気付いていないとすれば、それは我々の心の中には失われたものが数多く存在することのあかしになるだろう。

 それでは何故人は、そのような単純な事実を見失ってしまうのか考えてみよう。人間の知覚とは実は全ての情報を無制限に受入れる受動的なプロセスではなく、自分に必要なある一定の情報を背景から取捨選択する能動的なプロセスであるということが哲学や心理学の領野ではしばしば言及されている。しかしながら、知覚のこのような特徴には、ポジティブな面とネガティブな面がある。ポジティブな面とは、論理的に言えば知覚が何を選択し何を捨象するかという取捨選択パターンには無限の組合せが可能であろうということであり、ネガティブな面とは一旦ある一つの取捨選択パターンが確立されると強力な要因が突然発生しない限りはそれとは別の取捨選択パターンに切り替えることが極めて困難な状況に陥ってしまうことである。また、良い意味においても悪い意味においても、知覚の持つこのような特質が世界を見る見方の固定化を招いているようにも思われる。或る一人の人間が社会に適合するとは、社会が正しいと見なすある一定の固定化した見方をその人が獲得することを意味し、そのことなしには社会の存在が危殆に瀕することになる。しかしながら、時にはそのような日常社会とは異なる見方が存在することに気がつくことも、新たな何かが模索されなければならないような行き詰った状況下に置かれた場合には必要なのではなかろうか。そのきっかけを与えてくれるのが、たとえばサーカスでありカーニバルであり祭りの持つ非日常性である。

 たとえば「ラオ博士の7つの顔」では、町にやがて鉄道がやって来るという貴重な情報を独占し、そうとは知らない町の人々から土地を安く買い上げようとする欲の皮が突っ張ったビジネスマン(アーサー・オコンネル)が最後に改心するが、彼が改心するのも弱肉強食の日常社会とは全く異なる非日常の世界を垣間見て一種のイニシエーションを経たが故であり、そうでなければ彼はいつまでも自分が正しいと信じている世界観から抜け出すきっかけが全く得られなかったはずである。民族学等でしばしば言及される通過儀礼により取り行われるイニシエーションとは、ある一連の体験を経過することによって、今まで自分が当然としてきた世界から、全く別の世界へメンタル面で移行することを意味するが、そのような移行を可能にするパワーとは移行前の世界が持つパワーでもなければ、移行後の世界が持つパワーでもなく、それらの間の移行を可能にする全く別種のパワーでなければならないはずである。またこのパワーは三人称的な理知的理解力を通してではなく、常に一人称的な体験により媒介されていなければ効果は期待出来ない。何故ならば個人の体験領域における変化とは、一般化された知識によってではなく各個人自らの体験によってしか成就され得ないものだからである。そのようなパワーこそが、どのような固定化された日常社会にも属さない非日常世界のパワーであり、ラオ博士が率いるサーカス一座の持つパワーでもある。

 それに関連して言えば、この映画で少し残念なのは、ラオ博士が、サーカスのクライマックスとして、私利私欲に走る輩が跳梁跋扈するいにしえの町が古代ローマのポンペイのように火山の噴火によって滅亡してしまうという内容の教訓映画を町の人々に見せることで、個人的にはややこれは作品の本題からはピントがずれているようにも見える。何故ならば、教訓映画とは理知的な理解力による把握すなわち抽象化能力に大きく依存した三人称的観点からの見方が前提とされているのに対し、非日常性が持つパワーとは個々人が具体的な体験を通して享受しなければならない何ものかであるからである。具体的な体験という点に関しては、この作品中ではたとえば虚栄心の強いオールドミス(リー・パトリック)が不思議な手相見と対峙することによって得る体験、モラル高いお嬢さん(バーバラ・イーデン)がギリシャ神話に出てくるアモラルな牧羊神パンに誘惑される体験、前述した計算高いビジネスマンが自分と瓜二つの容貌を持つ奇妙な蛇に嘲られることによって得る体験等が挙られるが、これらは常に個々人の具体的な一人称的体験が媒介になっている。これに対し、前者の教訓映画に関しては、町の人々が一同に集まって全く同じ内容の映画を鑑賞し、しかも過去に起こった不幸な出来事を自分が直接体験するのではなく、全く赤の他人が経験したことをスクリーン上で見ることにより代理体験するのであり、ここには一人称的視点ではなくより一般化された三人称的な視点が前提とされている。従って、一人称的な体験を媒介とした非日常世界が描かれているこの作品にあって、このクライマックスシーンのみは、クライマックスとして提示されているが故に余計にピントがズレているように見えてしまうのである。

 しかしながらいずれにしてもそれは些細な点であり、この作品の持つパワーはそのような非日常的世界が存在し得ること、非日常的世界の体験とは常に一人称的で具体的な体験であることをオーディエンスに教えてくれるところに存在する。ラオ博士が干上がった川で釣りをして実際に魚を釣り上げ、見ている町の人々に驚嘆の念を抱かせるチャーミングなシーンは、勿論ファンタジー映画であるからこそ許されるわけだが、それにより示唆されていることは奇跡(ミラクル)が持つ本来的なパワーがどこに存在するかということである。すなわち奇跡とは、確かに見ている本人が起こすのではないとしても、そのような体験を三人称的批評家的観点から見るのではなく、常に一人称的にシェアすることにより真の意味を汲み取ることが出来るようなものだということである。ラストシーンで町を去り行くラオ博士が、町の子供に向かって自分の心の中にも少し見方を変えればサーカスの世界は存在するというようなことを語りかけるが、まさにその通りであろう。そのような世界が自分の中にも本来存在することに気が付き、一人称的な体験として自己の一部として再統合すること、或る意味で精神分析的にも響くこのことこそが現実社会の束縛に絡めとられて身動きが取れなくなった人々にとって最も大事なことであるということが映画全体を通して言わんとしていることである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2005/04/30 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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