イグアナの夜 ★★★
(The Night of the Iguana)

1964 US
監督:ジョン・ヒューストン
出演:リチャード・バートン、エヴァ・ガードナー、デボラ・カースー・リオン



<一口プロット解説>
説教壇で分裂症的なスピーチをして教会から追放された牧師のリチャード・バートンは、熱帯地方で観光ガイドを始める。この映画は、このバートンとあるバスツアーの乗客達とのやり取りを描く。
<雷小僧のコメント>
テネシー・ウイリアムズの戯曲に基いた映画なのですが、テネシー・ウイリアムズの戯曲に基いた他の映画、たとえば「欲望という名の電車」(1951)、「熱いトタン屋根の猫」(1958)、「去年の夏突然に」(1959)、「肉体のすきま風」(1961)等と比べると決定的に違うところがあります。それは、これらの映画がパラノイアックな人物或は人物達をパラノイアックに描いていたのに対し、この「イグアナの夜」はまったく逆のスキゾフレニック(分裂症的)な人物或は人物達をスキゾフレニックに描いているという点においてです。テネシー・ウイリアムズが関連した映画でこのようにスキゾフレニックな色彩を帯びているのは、私目の知る限りではこの映画と「渇いた太陽」(1962)くらいではないかと思います。
「イグアナの夜」がスキゾフレニックであることは、早くも冒頭から明瞭になります。まずはタイトルバックの月夜とイグアナの形象です。イグアナのデフォームされた形象は、ある筋道(物語性)に徹底的にこだわる我々のパラノイアックなメンタル様式をいきなり断ち切る暴力的なフィギュアの提示であると考えてよいと思います。ジル・ドウルーズ的に言えば、運動感覚的イメージ(sensory-motor image)の徹底的な切断であると言うことが出来るかもしれません。それから、リチャード・バートンがそれによって教会から追放されてしまう彼のスピーチです。この演説は誰がどう見ても(聞いても)説明の要がない程分裂症的であることが一目瞭然なのではないでしょうか。
こうして確立された分裂症的イメージを最後まで貫くのがこの映画なのです。たとえば、リチャード・バートンの台詞をよく聞いていると、最初から最後迄まるでコメディアン調のセリフなのですね。いわば道化師です。道化師の存在根拠の1つは、物語性の拒否あるいはその嘲笑であり、これは延いては決してそうではないにもかかわらず現実世界が物語的に構成されていると錯覚している我々の日常的な思考様式の転覆であると言うことが出来るように思います。いわばバートンの台詞は、全てどこにも収斂しないで常に拡散し続けているわけです。これはたとえば「熱いトタン屋根の猫」の登場人物達が、その会話のプロセスを通して尻上がりにエモーショナルなモーメンタムを蓄積していくのとは全く逆であると言えます。音楽にたとえて言えば「イグアナの夜」は無調音楽であり、「熱いトタン屋根の猫」は調性音楽であるということになるでしょう。後者は、ある主音が存在してこの主音に対するコンフリクトをそのパッセージの中で徐々に凝縮蓄積していって、最後に一気にこの主音に回帰することによってこの蓄積されたコンフリクトを解放させると言ういわばカタルシス的なプロセスに基いていると言えますが、前者には初めから主音など存在しないわけでありクロマティックな瞬間的微分的な陶酔にその根拠を置いているわけです。純粋な音そのものへの現代音楽の関心は、ここから後一歩であると言えるでしょう。
それからデボラ・カーとその祖父の存在があります。彼らは、スケッチを描いたり詩の朗読をしながら世界中をあてどもなく旅しているのですが、このような遊牧民的生活様式が定住農耕民的文化と比べるとはるかにスキゾな様式であることは、先のドウルーズ氏や浅田彰氏の言を待つこともないでしょう。デボラ・カーが涼しい顔をして包丁で大きな音を立てて魚の頭を切り落とすのも、彼女の存在がいかにパラノイアックな日常的世界からかけ離れているかを気付かせてくれるように思われます。それから、ビーチボーイを夜のお共に侍らせるエヴァ・ガードナー、ガミガミお母ちゃんのおせっかい且つ過保護な手から何とか逃れようとするスー・リオン、このようにこの映画の登場人物達は皆スキゾフレニックな性向を持っており、彼らを一緒にしても「熱いトタン屋根の猫」のような葛藤は局所的にしか発生しないのであり、たとえ発生してもそれが蓄積することは全くなくすぐに解消してしまうのですね。
このようにこの映画がスキゾフレニックな映画であることは、会話主体の演劇的な映画であるにも係わらず舞台が(亜?)熱帯地方に置かれているという異様な設定からもよく分かります。前にも述べたデフォームされたイグアナの姿、熱帯の多様な植生、こういうような普通とは異なる形象の提示はまさにオブジェ自体への喚起を促しているわけであり、パラノイアックで物語的な認識様式に対するアンチテーゼとして呈示されているのではないかと思います。ここで誤解を避ける為に付け加えますと、この映画がスキゾフレニックであると言っても、何もこの映画が何か病的な映画であると言うことを即意味するわけではなく、第一に全ての人は多かれ少なかれこういう性向を持っているものなのであり、日常生活がそれを隠蔽しているのだと言うことが出来ます。人々がカーニバルに熱狂するのも、こうした日常を一時停止させる為であり、こうしたはけ口というのはそこここに巧妙に設けられているものなのです。それと同様にこの映画には、何か日常の論理とは違った次元の世界が呈示されているようで、非常に魅力あるものになっているように少なくとも私目には思えます。
いずれにしても、熱帯地方を舞台にした白黒の画面が非常に美しい映画であり、発展することも緊張感を発生させることもないスキゾフレニックな会話のやり取りが実に心地よい映画であると言うことが出来ます。実を言えば、私目はこういう映画が無茶苦茶に好きなのですが、今日ではあまり見かけません。誠に残念です。そうそう、あの「ロリータ」(1962)でロリコンおじさん達に随喜の涙を流させたスー・リオンが、この「イグアナの夜」にも出演しておりまたまたロリコンおじさん達の随喜の涙をしぼり取っています。

2000/07/08 by 雷小僧
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