ゴールドフィンガー ★☆☆
(Goldfinger)

1964 UK
監督:ガイ・ハミルトン
出演:ショーン・コネリー、ゲルト・フレーベ、オナー・ブラックマンシャーリー・イートン


<一口プロット解説>
悪の親玉ゴールドフィンガーは、アメリカはフォートノックスに保管されている金塊を核汚染させて自らの持つ金塊の価値を相対的に高めようとする。
<雷小僧のコメント>
私目の住んでいるマンションの隣の映画館で本日(2003/03/08)よりボンドシリーズ第20作目の「ダイ・アナザー・デイ」が公開されるようなので、今回は007ジェームズ・ボンドシリーズ中の一本を取り上げてみました。実を言うと先週、ボンドシリーズ全19作が揃ったDVDをボックスでしめて4万円也で買ってしまったのです。何せどの作品にもメイキングやドキュメンタリーが収録されているようなのでそれに騙されて買ってしまったわけです(それがなければ買ってはいなかったでしょう)。私目は必ずしもこのシリーズのファンであるというわけではありませんが、それでもこのシリーズの作品は全て見ているはずですし(但し劇場で見たのは「ムーンレイカー」(1979)だけであり、久々に今回の「ダイ・アナザー・デイ」はそのうち見に行こうと思っています)、何回か見ているものも勿論あります。現在シリーズ全作品を最初からもう一度順番に見直しているところであり、ようやく4本程見ました。ということでその中の「ゴールドフィンガー」をここでタイトルとして一応取り上げたわけですが、「ゴールドフィンガー」を取り上げた理由が特にあるわけではなく、これはたとえば「ロシアより愛をこめて」(1963)等別の作品でも良かったということであり、このレビューで述べたかったことは「ゴールドフィンガー」という1つの作品についてであるというよりはボンドシリーズ全般についてです。
さて本題に入りますが、ジェームズ・ボンドシリーズの特に初期の頃の作品を考える場合、忘れてはならないことは、現在のボンド映画が現在のオーディエンスに対して持つであろう効果と60年代前半のボンド映画が60年代前半のオーディエンスに対して持っていたであろう効果とはかなり違うであろうということです(「あろう」というのは、60年代前半というのは私目はまだ生れたばかりでありそれらの作品をコンテンポラリーで自分の目で見たわけでは勿論ない為、想像で語っている部分があるからです)。何故ならば007シリーズは紛れも無くアクション映画の範疇に入るはずですが、現在においては日本で公開される洋画の半分以上は何らかの形でアクション映画であると言ってよい作品であるのに比べ、60年代前半にはアクション映画はまだそれ程存在してはいなかったからです。しかも存在していたとしてもそれはたとえば、「史上最大の作戦」(1962)のような戦争映画か、「スパルタカス」(1960)のように歴史映画か、或いは西部劇かというようにほとんどが過去(或いはSFもアクション映画の1つであると見做すと未来も)の出来事に関するストーリーであり、現在を舞台にしたアクション映画はほとんど(いや私目の思い出せる範囲では全く)存在していませんでした。何せヒチコックの「北北西に進路を取れ」(1959)のようなマイルドな映画が、ある意味でアクション映画であると見做されていたわけであり、齢既に50代のケーリー・グラントが息を切らせて走り廻るのがアクションであるとは現代のオーディエンスには信じられないものがあるかもしれません。そういうわけで現在(勿論1960年代当時の現在という意味ですが)が舞台になったアクション映画であるボンドシリーズとは、その当時にあってはある意味で画期的な作品であったということが出来るのではないかと考えられます。
しかしながらこれは単にアクション映画のアクション性が目新しかったというだけではなく、同時に作品としての提示のされ方にも画期的なものがあったと言えるように思われます。前節で歴史物のアクション映画は当時においてもかなり存在していたと書きましたが(50年代には数多くの歴史ロマン的なアクション映画が撮られていました)、それは何故かというと歴史物のアクション映画の多くにおいては、焦点が歴史の方にあったからであり、アクションの方にそれがあったわけではないからです(但し西部劇やチャンバラ活劇的な歴史映画などではアクションが主眼になったものも確かにありましたが、しかしそれらの映画においてもこれからボンドシリーズについて述べるような意味における語りの持続性首尾一貫性の軽視は存在しなかったわけであり、これらの映画においてもやはり語りとしての冒険談にその焦点があり、であるからこそ歴史的な舞台背景が選択されていたわけです)。「スパルタカス」はまず第一に歴史物映画であり、しかる後にアクション映画であったということです。すなわち「歴史」とは何よりも語られるべき何ものかであり、まず最初に語られるべきストーリー(物語性)が確固として存在するのが必然であったということです。要するに、歴史とはすべからく特定のパースペクティブより後から構成されたものであるというE・H・カーの指摘を待つまでもなく、歴史とは何かについての1つの構成された語りであると言えるわけです。それに対して語りとして構成されるよりも種々のイベントが発生するその経過を提示することに主眼がある現在を舞台にしたアクション映画とは、語られるべきストーリー性よりも提示の手段としての視覚的なアクション性そのものが突出する可能性が極めて高くなる傾向を持っています。勿論いかに非現実的といえども(非現実的というだけであればたとえばおとぎ話も非現実的です)ボンドシリーズはスパイに関するストーリーであり、ここにも語られるべきストーリーが存在するには違いありませんが、しかしながらボンドシリーズにおいては、ストーリーはむしろアクションシーンを次から次に展開する為の繋ぎ役として存在しているのに過ぎないのです。いわば従来は語られるべき何かを語る為にアクションが発生していたのに対し、ここではアクションが提示される為に語られるべきストーリーが存在しているわけです。極端な言い方をすると、このジェームズ・ボンドシリーズという作品群は、作品を構成するシンタックスが従来の映画とは決定的に異なっていたということであり、60年代前半当時にあってはそれが当時のオーディエンスに新鮮な驚きを与えたのではないかということです。次にその点について「ゴルドフィンガー」からいくつかの例を挙げて説明してみたいと思います。
まず第一にオープニングタイトル前のプレタイトルシーンを取り上げてみましょう。実はこのシーンは、「ゴールドフィンガー」のメインストーリーとは何の関係もないのですね(誤解のないように付け加えておきますと、これは007シリーズ全般に関してそのように言えるわけではなく、メインと全然関係のないプレタイトルシーンとはこのシリーズ中にあっても例外的です)。確かにキャラクターを紹介する為にそのようなシーンが挿入されるケースもあるかもしれませんが、ことボンドシリーズ中の一本でしかも既にシリーズ3作目であるこの作品に関してはその必要があるとはとても思えないわけであり(この作品が公開された頃までには既にオーディエンスはジェームズ・ボンドというキャラクターによく馴染んでいて、ある意味でそのキャラクターを見に来ていたはずだからです)、要するにわざわざ本来のストーリー展開とは全く関係のないシーンが脈絡なく挿入されていることになります。このような語りの持つ持続性や一貫性を破壊するような構成がそれ程不思議に思われないのは、もともとこのシリーズ作品の焦点が従来的な語りにあるわけではなく、いわば語りとしての持続性一貫性よりも瞬間的な効果の方に重きが置かれているが故であるように思われます。それから有名な全身に金メッキをされた死体について取り上げてみましょう。このシーンがいかに当時のオーディエンスの驚嘆を呼んだであろうかは想像に難くないところであり、かの碩学ボードリヤールですら自分の著書の中で興奮のあまり(?)この金ピカの死体についてとくと語っていたりします。またDVDの特典では、現役ボンドのピアース・ブロスナンが子供の頃いかにこのシーンに衝撃を受けたかというようなことを語っています。実を言えばこの金ピカの死体もストーリー的には金ピカの死体である必要はまったくないと言えるでしょう。確かに一口プロット解説で述べたようにゲルト・フレーベ演ずる悪漢ゴールドフィンガーはフォートノックスの金塊を放射能で汚染させて自分の持つ金塊の価値を高騰させようとしているのでストーリー的に金がまったく関係ないというわけではありませんが、いかにボンドに不気味な印象を与えようとしていたのだと考えてみたとしても(そうするのであればそんな手の混んだことをするよりも、死体を八つ裂きにした方が効果的でしょう)、普通に考えれば死体に金メッキが施されなければならない理由は全体的な展開から考えればどこにもないわけです。従ってこのシーンにおいては全体を通したストーリー的な考慮よりもビジュアル且つ瞬間的な効果が狙われていて、その効果がこの作品の印象を一瞬にして決定付けていることになります。要するにこのシーンは、語りとしての関節をはずしてまでも、(ボンドに対してではなく)オーディエンスに対して強烈で不気味且つ奇抜な印象を与えようとしたと考えるべきであり、その効果は実際絶大であったと言えるでしょう。
またガジェットマスターQの発明した数々の秘密兵器(というべきなのかな?)に関しても同様なことが言えます。何せ、これから都合のよいシーンで都合よく使用される兵器が冒頭で紹介されていることになるわけですが、それでもそれを見てまるで未来を予見したかのような都合のよい兵器ばかりよく予め用意しておくことが出来たななどというようなチャチャは誰も入れないのですね。語りということを真面目に考えるのであれば、このQのガジェットは語りの関節をはずすようにしか見えないはずですが、普通であれば語りの信頼性を失わせるようなこのQのガジェットの存在も、ボンドシリーズの作品としての信頼性を失わせることには全くならないのです。何故ならば、語りによって語られる何ものかはボンドシリーズの映画ではさ程重要ではないからです。またボンドガールを取り上げてみましょう。ボンドガールとは、ボンドを最初から支援するガールということではなくむしろ最初は悪漢のガールフレンドである場合が多く、いわばボンドの敵方の人間である場合の方が多いのですね。或いは「ドクター・ノオ」(1962)のウルスラ・アンドレスのように海の中から突然出現したりしますが、このアンドレスの登場の仕方も当時は実に衝撃的であったようです。1つには勿論ビキニ姿のアンドレスが衝撃的であったということもあるかもしれませんが、それ以上に何の脈絡もないところから突然現れて以後ボンドにくっついている彼女の存在が実に唐突で新奇な印象を与えたということもあるのではないでしょうか。「ゴールドフィンガー」では、前出した金メッキされた死体になるシャーリー・イートンとオナー・ブラックマンがボンドガール(前者がボンドガールであると言えるか否かには議論の余地があるかもしれませんが、まあボンドといいことをしているのでボンドガールでしょう)として出演しています。しかしながら前者は、ゲルト・フレーベ演ずるゴールドフィンガーがジン・ラミーのようなトランプゲームでいかさまをするのを手伝っているのを見ればゴールドフィンガーの手下であることは明らかであり、オナー・ブラックマンに至ってはボンドと納屋でムフフとなった後でもゴールドフィンガーの命令でフォートノックス上空で催眠ガスを散布する(あのような仕方でガスを散布しても上空ですぐに拡散してしまうので効果があるはずがないではないかなどとは言わないことにしましょう)おねーちゃん飛行隊のボスでもあるわけです。ボンドガールであると言っても、その間で言ってみれば悪の片棒をかついでいるわけであり(しかもそうでありながら最後はボンドとムフフというシーンで終わるのです)、従来的にモラリスティックな観点或いは従来的な語りの観点から言えばボンドガールの存在は多義的に曖昧且つ捉えどころがないように思われるケースが多いのです。一言で言えばQのガジェットと同様、ボンドガールの存在は語りの関節をはずし一貫性や明瞭さを雲散霧消させるような位置を占めていることが多いにもかかわらず、それがこのシリーズの売りにもなっているわけです。しかしながらそのボンドガールの曖昧さとは裏腹に、ボンドシリーズの悪漢どもはこれはもう徹底的にまた滑稽な程に悪漢なのですね。言ってみればワルのクリーシェのような存在がボンドシリーズの悪の親玉(或いはその手下)なのです。けれども、ボンドシリーズの悪漢の明瞭性というのは語りの明瞭性と関係があるわけでは決してなく、むしろ瞬間的なフィギュアとしての明瞭性なのですね。たとえば、ボンドシリーズの悪漢にはよく出来た物語の主人公やそのライバルが持つ生い立ちや経歴が全く与えられていないわけであり、「ドクター・ノオ」のウルスラ・アンドレスが海の中から突然出現したように、ボンドシリーズの悪漢どもも何の理由もなくただそこに悪漢として出現するわけです。要するにボンドシリーズの悪漢どもは語りとしては明瞭であるどころか極めて不明瞭なのです。
かくして今でこそアクション映画は花盛りでそこそこのアクションなど見飽きたオーディエンスが大部分であるかもしれませんが、当時としてはそれがいかに新鮮であったかが容易に想像出来るのではないかと思われます。「ロシアより愛をこめて」のモーターボートチェイスシーンで海上に撒かれた油が一瞬にして燃え上がるシーンがありますが、現在のパイロテクニックで満ち溢れたアクション映画に見慣れたオーディエンスにとってはこのシーンは何でもないシーンにしか見えないとしても、当時のオーディエンスには驚異的に見えたのはまず間違いのないところでしょう。何せ如何に派手なビジュアル効果が得られるかに焦点があるようなそのようなシーンはそれまではほとんど存在していなかったからです。またそういうシーンが有効に機能する為には、ストーリー自体の構成方法が従来とは異なっている必要があり、何度も述べたように持続性継続性という観点よりも、瞬間性の方に重きが置かれる必要があるわけです。その視点の変更(まさに「ゴールドフィンガー」の金ピカの死体がそれを象徴していると言えるでしょう)が当時のオーディエンスには新鮮な驚きを与えたのであり、ボンドシリーズの映画としての映画史的価値はそこにあると言えるでしょう。しかしながら、アクション映画が花盛りの現在においては、逆にこのシリーズの独自性をどこに保つかはかなり難しい問題であるかもしれません。単に過去の名声で食いつなぐのか、或いは新機軸を何か打ち出してくるのか。そういう意味においては本日公開される「ダイ・アナザー・デイ」は1つの見ものかもしれませんね。
※その後「ダイ・アナザー・デイ」は見ましたが、単なるアクション映画でボンドムービーとしてもとんでもなくお粗末な代物であり、ボンド史上最低の作品でした。

2003/03/08 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp