チューズ・ミー ★★★
(Choose Me)

1984 US
監督:アラン・ルドルフ
主演:ジュヌビエーブ・ビジョルド、キース・キャラダイン、レスリー・アン・ウオーレン


<一口プロット解説>
ラジオ番組で恋愛相談のパーソナリティをしているが、実生活では恋愛経験が限りなくゼロに近いドクター・ナンシー・ラブ(ジュヌビエーブ・ビジョルド)が、キザでナルシスティックなキース・キャラダインに出会う。
<雷小僧のコメント>
非常にいいですねこの映画は。何が素晴らしいかというと、この映画は1980年代以前には余りなかったようなタイプの映画であり、又1980年代以後でもこの映画程現代的な感覚に溢れている映画は滅多にお目にかかれないのではないでしょうか。たとえを音楽にとってその辺を説明してみたいと思います。
音楽にたとえて言えば1980年代以前の映画(勿論現在の大部分の映画もそうですが)は、伝統的な調制に支配された音楽だと言えます。伝統的な音楽は、主音に還帰することが最初から意図され、全てのパッセージは主音に対する相対的な位置によって解釈されるわけです。このような仕組みの中では、個々の音よりも個々の音が集まって構成されるシンタックスレベルが重要視されるのであり、ひいてはそれをも越えた集合的な構成的形式(ソナタ形式だとか三部形式だとか。これを簡単に笑い飛ばしてはいけないでしょうね。何故なら、歌謡曲でさえ形式を無視したような曲がヒットすることはあまりないはずです)が重きをなすのです。それと同じように80年代以前の映画は、いかにストーリーを語るか、いかに解決されるかに映画の重点が置かれるわけであり、ある映画がたとえ何らかの特定の主題を持っていない場合でも、常に語るということ或いは最低でも描くということに力点があったわけです。たとえば、カフカの「審判」がいくら不条理な世界を描いていたとしても、物語として語るという意味においては一貫していたと言えます。ここには、物語性とは一体何かという問題が常についてまわるのですが、ある意味で線的な物語性がそれ程まで当為と見做されるのは、歴史的なものであって必ずしも認識論的絶対真理などではないということが最低でも理解される必要があるように思います。でないと、たとえばロバート・アルトマンが何故「プレタ・ポルテ」(1994)のような作品を製作するかが理解出来ないかもしれません。
ところで、この「チューズ・ミー」という映画は、そういう物語性はどうでもいいのですね。簡単に言ってみれば、非常に感覚的だと言えるのですが、語るとか描くとかいうことが映画の意図には含まれていないように思えます。確かにジュヌビエーブ・ビジョルドを筆頭に登場人物は全て自己に問題を抱えた人物ばかり登場しますが、けれどもこの映画は従来的な問題の提示−問題の解法−解決というシークエンスにはあまりにも無関心であるように思われます。言い換えると、この映画には問題の解消はあっても解法はないといえます。要するに、自己に問題がある人物をそのまま描写してその問題に対する明示的な一般的な解法を与えないのですね。この辺が非常に微分的というか、たとえば愛が世界を救うなどというような一般的命題に還元しようとはしないある意味で非常に分裂的な潔さがあるように思えます。何となくアンチオイディプス的というと余計にややこしい言い方でしょうか。音楽にたとえて言えば、クロマティック(半音階的)な陶酔がこの映画を支配していると言えます。クロマティックな陶酔というのは、主音に対するリファレンスから来る充足感とは逆の感覚なのですね。何故ならば、半音階的パッセージは、主音から構成される音階から逸脱するものであり、その陶酔感は純粋に現在進行中の瞬間的微分的な力動に端を発しているからです。かつて、シェーンベルク等によって創始された12音音楽というのは、全ての音価を等価にしてしまうことによって、伝統的な中心還帰的な構成(及びそういう構成様式によって支配されている聞き手の知覚様式)を破壊しようとしたわけです。ここから、音をまさにその瞬間的な個々の純粋な一音として把えようとする現代音楽的な発想にはもう一歩であると言えましょう。随分と脱線してしまったようなので話を元に戻しますすと、この映画にはこのような瞬間的感覚的な陶酔感というものが充溢しており、砕いて言えば非常にスタイリッシュでモダンな感覚に充ちているということです(それならば、ややこしいことを言わずに最初からそう言えと言われそうですが、それだと2行で終わってしまうので長々と書いてしまいました)。キース・キャラダインのキザっぽさがこの映画ではあまりキザに見えないのは、この映画自体が既にどうしようもなくキザだからでしょう。
また、この映画の登場人物は程度の差こそあれ皆ナルシストだと言うことが出来ます。一般的にナルシストとは自己満足に浸っている人々のいいだと思われるかもしれませんが、実はそれは全く逆であり自己が自己であるという確たる信念がないので常に自己の確認をしなければいけない人々のいいであるという方が正しいのです。要するに自己が二分していて、一方の自己が他方の自己を確認するというプロセスを通して、自己存在の確証をしなければならないということです。神話のナルシスが、池の表面に写った己の姿に見入って溺れてしまったのは、まさにそうして自己確認をしなければならなかったが故の悲劇だと言えるのではないでしょうか。ところで、この「チューズ・ミー」の中では電話をかけるシーンが必要以上に多いのですが、これは偶然ではないように思います。何故なら、ナルシストとは外界と接触する時は、常に何らかのインターフェースを通じてそうすることが多いからです。外界とのむき出しの接触というのは、ナルシストにとっては致命的な破局を齎す可能性が多いのですね。というのは繰返しになりますが、彼らにとっては自己の確立を行う為には、常に二分した自己の一方が他方の自己を確認するというプロセスを経なければならないのですが、外界との直接の接触ではこれが危殆に晒されるからです。では、何故インターフェースを通じて外界と接触すれば、そういう危険が緩和されるのでしょうか。これは非常に難しい質問なのですが、おそらくそれは或る役割への同化という過程を通して、自己のアイデンティティの危殆をその役割における危殆に置きかえることが出来るというメカニズムによってなのではないでしょうか。社会学者のアービング・ゴフマン等の書物を紐解くと役割とアイデンティティに関する非常に面白い論考があったように覚えていますが、或る意味で役割としてのアイデンティティというのは或る状況での自己アイデンティティの避難所のようなものとして機能することが出来るのではないでしょうか。つまり、役割に付随している役割アイデンティティに同化することによって本来の自己アイデンティティとは違ったアイデンティティを一時的に身に纏うことが出来るのではないかということです。たとえば、主人公のドクター・ナンシー・ラブは、ラジオ番組を通じて恋愛相談をしているのですが、現実生活では全くのナイーブちゃんなのですね。ラジオ番組のパーソナリティという役割が、ある意味で本来の自己のアイデンティティを保護しているから、番組では大胆な発言を次々行えるわけです。第一、ドクター・ナンシー・ラブという名前がこれはまたすごいではないですか。また、キース・キャラダインも常にカメラを首にぶらさげて写真を撮っていますが、これも外界とのインターフェースとして機能しているのでしょう。レスリー・アン・ウオーレンも、バーで働いている最中にカウンターごしにお客と話している時や、ナンシー・ラブのラジオ番組に電話している時を除くと、不安に駆られてしまうのです。こういう点の描写が、この映画では非常に面白いように思います。
それから、もう一つ私目がこの映画を好きな個人的な理由があって、それは主演のジュヌビエーブ・ビジョルドのよさがこの映画ではよく出ているように思われるからです。この人は、60年代にデビューした人で、名前が示すようにフランス系カナダ人のようです。もともとはルイ・マルやフィリップ・ド・ブロカのようなフランス人監督の映画に出演していたのですが、「1000日のアン」(1969)でアン・ブーリン役をやってからは英米の映画にも出演するようになったようです。そういうわけで70年代は「大地震」(1974)とか「コーマ」(1978)等のいかにもアメリカ的な映画に主に出演していたのですが、どうも今いちの感がありました。けれども、80年代に入ってからはアラン・ルドルフの映画に出演するようになったのですが、この映画に見られるように、この人はアメリカ的ド派手映画よりもこういう映画の方が合っているようですね。因みに、私目はこの40歳をとうに過ぎてもベビーフェイスのままで、アップにしなければ女子大生でも通りそうな(さすがにそれは無理かな?)この人のファンなのでこの映画でその良さが見られるのは何とも嬉しい限りです。

1999/04/10 by 雷小僧
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