ブラック・サンデー ★★★
(Black Sunday)

1977 US
監督:ジョン・フランケンハイマー
出演:ロバート・ショー、マルト・ケラー、ブルース・ダーン、ベキム・フェーミュ


<一口プロット解説>
テロ組織ブラック・セプテンバーのベイルートにあるアジトの奇襲によって押収されたテープによって、アメリカ国内で大きなテロが画策されていることが発覚する。
<入間洋のコメント>
 一口プロットに記したように、この作品は殊に昨今人々の話題に上ることが多くなったテロを扱った作品ですが、まずトリビア的な情報を2つほど記しておきましょう。実はこの作品は、公開が予定されながら国内での劇場公開が政治的理由から見送られたそうです。何と言っても、昨年公開されたスピルバーグの「ミュンヘン」(2005)でも取り上げられていたミュンヘンオリンピックテロ事件を引き起こしたテロ組織「ブラック・セプテンバー」が実名で登場します。まあ、でもどのような判断から公開が見送られたのかはよく分からないところですね。ひょっとすると、冒頭に登場するテロリストの一人は日本人であり、彼らがが使用する高性能爆薬は日本の貨物船によって密輸されることがおかみの気に触ったということかもしれません。それは冗談としても、確かに当時は連合赤軍によって引き起こされた浅間山荘事件やテルアビブ空港での乱射事件等の記憶もまだ完全には薄れていなかった頃であり、9.11同時多発テロ事件以後と同様、テロに対してはかなり神経質になっていたということかもしれません。因みに、この作品はそのようなわけで日本で劇場公開されていませんので本来未公開映画のコーナーに掲載すべきかもしれませんが、国内でも既にビデオ等で広く流布しているタイトルなのでそちらには入れませんでした。それから、この作品の原作者は、「ハンニバル」シリーズのトーマス・ハリスであり、多分彼のデビュー作ではないでしょうか。かの人食いレクター博士を後になって登場させる彼は、この頃はテロを扱った作品を書いていたということになります。そういえばまさにこれを書いている本日、シリーズ最新作の「ハンニバル・ライジング」(2007)が日本劇場公開されているようですが、わざわざ高いおゼゼを払って見に行くつもりは毛頭ありません。

 ところで、一端は下火になっていたかに思われていたテロに対する恐怖が、前述したように9.11事件が発生して以来再びクローズアップされるようになりました。そこで、それではテロとは何かなということを次に考えてみましょう。たとえば、最近もアメリカで発生しましたが銃の乱射事件はテロなのでしょうか。確かにこれらの銃の乱射事件に対して「terrorize」という語は適用できますが、現在一般に使われている語の意味から言えばテロであるとは言えないように少なくとも個人的には思えます。というのも、最近の銃乱射事件でもコロンバイン高校銃乱射事件でも或いはピーター・ボグダノビッチの実質的なデビュー作「Targets」(1968)がモデルとしたテキサスタワー銃乱射事件でも、実行犯は世に絶望した或いは世のあり方を憎むようになった青年の単独犯(コロンバイン事件の場合は2人)であり、この事実はこれらの事件をテロという用語が適用される範囲から除外するようにも思われるからです。それでは、その範囲とはいかなるものなのでしょうか。そこで、テロとはどのような条件が満たされればそのように呼ばれ得るかについて、その外延の確定を試みてみましょう。これはあくまでも個人的な見解ですが、テロと呼ばれる行為或いは組織には以下のような条件特徴があるように思われます。

1.テロ行為のバックには、無国籍的で強力なテロ組織が存在する。
2.その行為の背後には、強烈な宗教的或いは思想的なイデオロギーが存在する。
3.1にも関わらず実行面では、分子的小胞的な単位でテログループは機能する。
4.テロ組織は権力側には属さない。
5.2にも関わらずテロ行為の犠牲者としてのターゲットは無差別に選択される。但し象徴的なターゲットに関しては2に従って選択される。
6.テロ組織内部の秘密は徹底的に隠匿される。
7.6にも関わらずテロ行為の結果に関しては、可能な限り広範に世間に流布されることが最初から意図され、その為にはマスメディアの利用も辞さない。
8.自らの生命の安全の確保は、最後の考慮対象となる。

この条件を考えると前述した銃の乱射事件は、1、2、7の条件に合致しませんし(勿論一種の無気力或いはニヒリズムがイデオロギーである見なされるべきならば2には当て嵌まるかもしれませんがこれは強引過ぎるでしょう)、3に関してももともと単独犯であることを敢えて分子的と言ってみたところでほとんど意味がないはずです。因みにマフィアやギャングの場合はどうかなと考えてみると2、3、5、7、8に合致しないことが分かります。次に各項目に関して簡単に説明を加えておきましょう。まず1ですが、ここで言う無国籍的とはいわゆる近代的な国家という範疇における意味において無国籍的であるということであって、ある特定のテロ組織のメンバーはどのような文化、民族、人種に属していても良いという意味ではなく、その点では2の条件に関連しても大きな限定を受けることになります。この2つの条件は重要であり、故に前述したようなきまぐれな個人が引き起こした銃乱射事件(勿論前述したテルアビブ空港乱射事件などはこの範疇に入りません)はテロとは言えないように思われるわけです。2に関して敷衍しておくと、東側ブロックの崩壊及び9.11同時多発テロ事件以後は、テロ行為とは専ら宗教的な狂信主義(ファナティシズム)が関連しているように思われがちになっていますが、かつては社会主義的共産主義的なイデオロギーの狂信者によってテロ事件が引き起こされていたこともあり、むしろ宗教的な対立が社会主義的共産主義的なタームに置き換えられているような場合すらあったのではないでしょうか。その点に関して言えば、日本国内でも、前述した浅間山荘事件やテルアビブ乱射事件を引き起こした連合赤軍や革マル派(情けないことに私めはその昔、「かくまる派」と聞いて、それは「角丸派」すなわち角材と丸太を振りかざしてあばれる人々だと真面目に考えていました)を思い出すことができます。しかしながら、東側ブロック崩壊後、そして殊に9.11のイメージが強くなった昨今では、テロというと専らイスラム原理主義の狂信的な信徒であるイスラム過激派による犯行であるものと考えられるようになったのではないでしょうか。真相に関しては諸説あるようですが、1995年に発生したオクラホマ連邦政府ビル爆破事件も、当初はイスラム過激派の犯行であると思われていたのが、犯人はアメリカ人であることが判明して世の当惑を招来したなどということもありました。3に関しては、テロは実行までは隠密が絶対条件とされる為に目立つ単位で行動は出来ないという不可避的な要件が必須であるが故であり、たとえば9.11の実行犯も小規模な小胞的な単位で行動していたことを思い出すことができます。言葉を換えれば実行面では一種のゲリラ戦術が採用されると言ってもよいでしょう。因みにテロリストのこのような小胞的な組織化に関しては、それがたとえ現代的なテロリストとはやや異なっていたとしても早くも19世紀中盤にドストエフスキーの「悪霊」の中で描かれていたことは極めて驚くべきことと言えるかもしれません。4に関しては、たとえばナチスドイツは確かにヨーロッパを「terrorize」したと言うことはできても、その存在がテロ組織であったとは決して言えないことから考えても明白です。すなわち、ナチスドイツは権力を持った国家として国際的にも認知されていたのであり、いかに残虐な行為を行なっていたとしてもそのような権力側に属する機関がテロ組織であると比喩的な意味以外で言われたことはないはずです。5の条件もテロに特徴的な条件であり、まさにターゲットがランダムであることがテロの恐ろしさの1つでもあるわけです。勿論ここで言うターゲットとは専ら犠牲者に関してのことであり、たとえば9.11の世界貿易センタービルのように象徴としてのターゲットは常に明確化されていることが指摘されねばなりません。世界貿易センタービルには、テロリストの同胞達も働いていたかもしれないことは承知していたはずなのです。それに対して銃の乱射事件の場合には、犠牲者がランダムであるという点においてはテロ的であると言えますが、象徴的なターゲットが明白ではなくその意味でもテロ行為とは言えないことになります。6は2とも関連しており、テロ組織内部の実態は闇に包まれていることが多いのが普通でしょう。しかしながらテロ組織が、マフィアや秘密結社と決定的に異なる点は、組織の秘匿性とは裏腹に自らの所業を一種のプロパガンダとして世に広く知らしめようとする傾向があることであり、アルカイダがアルジャジラを通じて自ら撮影したテープを放映したりしていることからもそのことがよく分かります。その昔私めは、ブラック・セプテンバーやモロ誘拐殺人事件で知られる赤い旅団のようなテロ組織が自分達の行なった犯行の声明を何故わざわざ公然と発表するのか不思議に思っていたことがありましたが、テロ活動とはそもそも一種のイデオロギーの宣伝活動でなのであり、人々にあまねく知られなければ何の意味もないということです。
8は、9.11や度重なる自爆テロから分かることですが、但しこれはむしろ比較的新しい現象のようでもあり、一説によればこの点に関しては日本の連合赤軍の影響がかなり大きいと言われているようでもありますね。

 さてではこの基準に従って見た場合、「ブラック・サンデー」という映画はどうなのでしょうか。そう考えながら見ていると、この作品はテロ組織の有するこれらの特徴をうまく捉えているように思われます。まず1に関してですが、これは冒頭でロバート・ショー演ずるキャプテン(画像中参照)がベイルートにあるテロ組織のアジトを襲うシーンからも分かるように、この映画が描くテロ事件のバックには大きな組織があることが分かります。というようりも、そもそもブラック・セプテンバーという実在のテロ組織の名前が挙がっているわけであり、それを思い起こすだけでもバックには大きな組織及び2で言及した政治的イデオロギーが存在することが分かります。但し、この作品の欠点の1つは、主人公のテロリスト達がそのような政治的信条を持っていることが分かるようなセリフやシーンがほとんどないことであり、その点すなわち2の特徴の敷衍という点においてやや説得力に欠けていることです。この作品は、冒頭のシーンが過ぎると、焦点はアメリカにおける2人のテロリスト(マルト・ケラーとブルース・ダーン、画像左参照)の活動に焦点が置かれますが、これは3で述べたテロリストの特徴に合致します。中東から高性能爆薬を輸入して(何と!製造元はどうやら日本のようです)、それをアメリカの郊外にある一般のマンションの一室でひっそりと人目に立たないように強力な破壊力を持った兵器に組み立てていく様子は、9.11直前の乗っ取り犯の行動を思い出させるものがあります。4と6に関しては言わずもがななので省略します。5の前半部に関しては、かくして組み立てられた爆薬をスーパーボール会場で爆破させ無差別殺人を行なうことが画策されていることからも明瞭であり、世界貿易センター同様、スーパーボール会場にはテロリスト達の同胞も当然いるはずです。但し象徴的なターゲットとして何故スーパーボールが選択されたのか、或いはスーパーボールの何がテロリスト達によって象徴と見なされたのかについては、それ程自明ではないかもしれません。もしかすると次に述べる7の条件に従って人がたくさん集まり多くの人々の注目を浴びているという理由のみによって選ばれたのかもしれませんが、そうであるとすると先の定義5の後半部からは逸脱してしまうので、スーパーボールはアメリカ文化の象徴であると考えられたからこそターゲットとして選択されたのだと考えるべきであろうと個人的には思っています。7はまさにスーパーボール会場が選ばれた1つの大きな理由でもあります。すなわち、世界中とまでは言わないにしてもテレビの生中継を通じて全米の注目を浴びているスーパーボール会場で犯行が行なわれれば、これ程大きな宣伝効果になることはないわけです。また冒頭のシーンでロバート・ショー演ずるキャプテンによって押収されたテープ(攻撃成功後にテロリスト達によってマスメディアに声明文として流されることが意図されていた)によって、テロリスト達の計画が察知されるのも象徴的だと言えます。8についても明瞭です。すなわち、主人公のテロリスト達は飛行船からスーパーボール会場に爆弾を投下しようとしたのかそれとも爆弾もろとも突っ込もうとしたのかは、ロバート・ショー演ずるキャプテンのジェームズ・ボンド並みの活躍によって阻止されたが故に不明ですが、いずれにしても速度の遅い飛行船で逃げ切れるはずもなく、最初からテロ遂行後も無事に生きていられるとは思っていなかったはずだからです。このように考えてみると「ブラック・サンデー」という映画には、テロ行為の本質が見事に捉えられ描かれていることが分かりますが、そのような分析を行なわずとも、テロリスト達が飛行船を乗っ取り、スーパーボール会場に突入していくシーンは、4半世紀後に発生する9.11同時多発テロ事件をイメージとして彷彿させると言ったとしても、ややクリーシェめいていたとしても必ずしもそれは大袈裟ではないことが明瞭なはずです。確かに9.11事件が発生する以前にこの映画を見た時は、最後の飛行船突入シーンはあまりにも途方もなく(画像右参照)、単に007的にド派手なアクションを見せたかったが故に挿入された極めて下らないシーンに過ぎないように思っていました。しかしながら、製作当時はそのような意図があったとしても、9.11以後はそれが単なる子供騙しのアクションシーンには見えなくなったことも確かです。世界貿易センタービルに旅客機が激突するなどというシーンは、それが発生する以前に一体どれくらいの人が思い浮かべたことがあったでしょうか。それを考えると、この作品のあるシーンで、ロバート・ショー演ずるキャプテンが、スーパーボール会場の支配人に向かって、スーパーボールを予定通り開催するつもりなら、上空を通る全ての商業航空機のフライトをキャンセルせよと述べているのには何とも意味深長なものがあるように思われます。

 ということで、この作品はテロが主題となった作品としては恐らく最も早いものの内の1つであったと言うことができ、その意味でも貴重な作品であると言わざるを得ませんが、それだけに留まるわけでもありません。というのも、確かにやや立ち上がりがスロー過ぎるような印象がありますが、一度ストーリーにエンジンがかかってくると極めて緊張感溢れるドラマが展開され、オーディエンスを強く画面に引き付けるパワーを持っているからです。監督のジョン・フランケンハイマーに関しては、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「重厚なドラマによる政治哲学的テーマの敷衍 《大列車作戦》」でも述べたように、白黒映画においては大きな能力を発揮していましたが、カラー映画になるとイマイチになってしまった印象があります。その例外になるのが、この作品であり、カラーで撮影されているにも関わらず、白黒時代に撮った彼の作品の持つ緊迫感が見事に伝わってきます。或る意味で、この作品は白黒的な作品であると言えるのかもしれません。彼が15年前に監督した「影なき狙撃者」(1962)では、キューバ危機前後の東西冷戦下の誇大妄想に捉えられた世相が奇妙に誇張された仕方で見事に描かれていましたが、「ブラック・サンデー」においては21世紀にもつながるテロの悪夢が既に70年代において見事に捉えられていたことになり、このような政治性を孕んだテーマの扱いに関しては、それが必ずしも正統的なものであるとは言えなかったとしても、彼は独特な手腕を発揮する能力を持っていたと言えるように思われます。いずれにせよ、彼の全作品見ているわけではありませんが、個人的には「ブラック・サンデー」はジョン・フランケンハイマーのカラー作品の中ではベストであると考えています。

2007/04/21 by Hiroshi Iruma
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