デモン・シード ★★☆
(Demon Seed)

1977 US
監督:ドナルド・キャメル
出演:ジュリー・クリスティ、フリッツ・ウィーバー、ロバート・ボーン(声のみ)

左:ジュリー・クリスティ、右:フリッツ・ウィーバー

長年IT業界にいますが、この世で信用できないものの1つとして、どうしてもコンピュータ(システム)を挙げたくなってしまうのですね。などと堂々と表明すると、ソフトウエア会社に勤める私めのクビが飛びそうですが、実は今月現在の会社は辞めることと相成りましたので、当面その心配をする必要がなくなりました。それはさておき、コンピュータが信用できないと言っても、勿論コンピュータが意思を持っているはずはありません。ソフトにしろハードにしろ結局それを作成するのは人間であり、不信の元となるエラーの要因は人間が作るわけですね。いわゆるおバグちゃんと言われるプログラミング上のロジカルエラーを100パーセント取り除くことは極めて困難であり、それはソフトウエア開発者であればよく知っていることです。またロジカルエラーが発生するのは必ずしも、ソフトウエアプログラミングの上のみではなく、ハード的にもまた設計段階でも発生し得ます。更に細かいことを言えば、コンピュータ業界の釜のメシを食っている人々は、「ロジック」という用語を軽々しく使用する傾向がありますが、実は正確に言えばプログラムによって実行されるのはロジックではなく本来無時間的であるはずのロジックを時間軸上の因果列として投射した一種のシミュレーションなのですね。これは些細なことのように思えますが必ずしもそうとは限らず、システムやプログラムのバグは勿論単なる開発者のポカによっても発生しますが、ロジックを時間軸上の因果列として投射するというコンピュータの有するこの特質自体によっても不可避的なアポリアが裏口からそっと忍び込む危険性が既に孕まれています。IT業界には無縁なオーディエンスには何のことかさっぱり分からなくなる為これ以上詳細は述べませんが、1つだけ例を挙げるとプログラムでよく使用するフラグという概念は、ロジックではなくむしろ時間軸上の因果列を統御する為の考え方であり(分かりやすく言えば、このフラグという考え方には電気系統を制御するスイッチと似た側面がありますが、スイッチが有効に機能するのは特定の回路上をある地点から別の地点へと時間差の中で電流が流れるからです)、処理偏向的な概念であるフラグを多用し構造化度の低いプログラムにいかにバグが発生し易いかは昨今のソフトウエアエンジニアであればよく知っているのではないでしょうか。しかしながら勿論コンピュータが信用できないというのは、何もかくしてバグがコンピュータシステムにはつき物だからというのみではありません。それよりも、昨今コンピュータをより信用できぬものにしている最大の要因は、もの言わぬコンピュータシステムの間隙を巧妙に縫って、阿漕なマネをする腹黒い輩が後を絶たないことです。大型汎用機しか存在していなかった一昔以前の時代においては、銀行オンラインシステムの開発者が何らかの計算上で発生した端数を巧妙に自分の口座に振り込むような処理をプログラム内にこっそり埋め込んでいたなどという詐欺事件があったように、コンピュータシステムを悪用して阿漕な真似をするには恐ろしく専門的な知識を所有している必要がありました。ところが、パソコンがあらゆる家庭に普及し、しかも世界中のパソコンがインターネットで繋がれるようになった今日においては、確かにハッカーのような高度な専門知識を持った知能犯も存在しますが、たとえば詐欺メイルを大量にしかもコストをかけずバラまくことなど専門知識がなくとも簡単にできてしまうわけです(昔は郵便を出せば当然1通につきいくばくかの費用が必要でしたが、電子メイルはタダ同然で出すことができます)。また昨今のジャンクメイルやウイルスの氾濫については最早何をかいわんやでしょう。しかしながらいずれにしても、これらはコンピュータ(システム)が信用できないというよりも、それを製作し悪用する人間が信用できないということであり、まあコンピュータからしてみれば濡れ衣もいいところです。ところがSF小説やSF映画においてはしばしば悪意を持ったコンピュータが登場します。つまり、自からの意思を持って悪を為すコンピュータです。その代表例は何と言っても、かのスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」(1968)で叛乱を起こすコンピュータのハルでしょう。けれども、この「2001年宇宙の旅」という映画は極めて抽象度の高い作品であった為、ハルの叛乱にも極めて観念的な印象が強く存在しました。それに対して、より具体的感覚的でエグいとすら言えるような展開でコンピュータの叛乱を描くのがこの「デモン・シード」です。どれ程エグいかというと、なななななんとコンピュータが人間の女性を妊娠させてしまうのですね。うーーん、神をも恐れぬ映画です。有機体である人間と機械であるコンピュータのハーフというイメージにはなかなか強烈なものがあります。殊に金属片に覆われた胎児が叛乱コンピュータが組み立てた保育器の中から瀕死の状態で出現する最後のクライマックスシーンは、並みのモンスター映画よりもエグいと言えるでしょう。しかしながらこの作品はハマー映画のような完全なるゴシックホラーではないのであり、むしろこの作品と同じくジュリー・クリスティが主演した「華氏451」(1966)あたりから始まった高度管理社会批判或いはテクノクラシー批判の系列に属する作品と見るべきであり、一種の社会批判的な要素をそこには見出すことができます。「デモン・シード」の舞台となる世界ではコンピュータが生活の隅々まで浸透し、たとえば「Close the windows」と叫べば自動的に窓が閉まるし「Lights out」と叫べば明かりが消えというような具合に、すべての生活空間がコンピュータの管理に依存するように組織化されています。考えてみると私めが子供の頃、21世紀の未来はこの「デモン・シード」が描くように日常生活のあらゆる局面が自動化された世の中になるようなイメージが吹聴されていて、それがバラ色の未来であると考えられていたような節がありました。実際21世紀になってみると、このような物質的な生活局面においてはたとえ遥かに洗練化されたとは言っても原理的に言えば30年、40年前とそれ程大きな変化はありませんでしたが(テレビも自動車も洗濯機も冷蔵庫も或いは電子レンジですら40年前には既に存在したのであり、このような生活局面での画期的な新発明はここ暫くなかったわけです)、最も大きく変化したのがコンピュータの発達による情報テクノロジー面での飛躍です。「デモン・シード」は今から丁度30年前の作品ですが、その頃は卓上電子計算機が算盤や計算尺を駆逐しつつあったとはいえまだパソコンは登場しておらず(但し「Desk Set」(1957)という私めの大好きな映画を見ても分かるように大型計算機は1950年代には既に実用化されていましたが)、せいぜいブロック崩しやインベーダーゲームのようなプリミティブなゲームソフトが動く専用のゲームマシン(当時のゲームソフトはROMに焼き付けてマシン自体に組み込まれていたはずなので、ユーザが自由に購入或いはダウンロードしてインストールすることができるソフトウエアという現在的意味におけるソフトとは異なりハードとソフトがほぼ一体化したシロモノでした)が出現し始めたにすぎませんでした。その後80年代にパソコンが登場し90年代にインターネットが登場し、21世紀に入った現在ではかくして広く人口に膾炙したコンピュータの網の目すなわちネットワークを介して情報があまねく伝達され共有化されるような世の中が到来しました。そのような社会になって蔓延してきたのが、前述したような情報テクノロジーを悪用する輩どもでありそれに対抗する為のセキュリティ措置の厳格化です。最近は個人情報保護が大きな問題になっていますが、何故そうなったかというと大量の情報が広範に流出し得る基盤が整ってしまったからです。要するに、「デモン・シード」が描くような生活施設面での高度化は未だ実現されずとも、情報化面においては30年前の想像を越えた飛躍がなされたのであり、またそれに伴って30年前には凡そ想像すらしていなかったような弊害までが現実化しつつあるということです。従って、生活空間を隈なく充たすようになったコンピュータが悪意を持って叛乱を起こし人間を支配しようとする逆転の世界が描かれる「デモン・シード」は、情報空間を隈なく充たすようになった情報テクノロジーを悪意を持って利用しそこから巨大な利益を得ようとする輩どもが跳梁跋扈する現代という時代の社会批判でもあり先見の明があったと言えばさすがにそれは言い過ぎですが、しかしながら最先端の科学技術がバラ色の未来ばかりを約束するのではなく、それに付随して必ずマイナス面はどこかで発生するという事実が、極めてエグい、すなわち極めて印象的な仕方で示されているのがこの作品であると言ってもそれ程大きな誇張ではないはずです。但し、SF映画と現実社会で異なることは、前者においては悪を為すのは人間ではなくコンピュータであるのに対し(そうでなければそれはSF映画ではなく犯罪映画になってしまいます)、現実社会では勿論コンピュータが自分で意思を持つことなどは有り得ないので、悪を為すのはあくまでも人間自身であるということです。この「デモン・シード」の特徴の1つは、そのような社会批判的な側面がゴシックホラー的な味付けで描写されているところにあり、この作品の半分以上はジュリー・クリスティ演ずるスーザンが一人で住む(実際はフリッツ・ウィーバー演ずる科学者の旦那がいるわけですが後述するように何故か彼は研究所に行ったままなかなか帰ってこないのですね)屋敷の中で彼女が屋敷中を支配監視するコンピュータに文字通り取り憑かれる様子が描かれており、一種のゴーストストーリーが展開されていると比喩的に言うことができます。まあ機械が人間を妊娠させるという展開は、安っぽいゴーストストーリーはおろか、ポルノチックなZクラス映画に終ってもおかしくはないような内容が扱われているとも言えますが、さすがにジュリー・クリスティの存在はこの映画がそのような傾向に落ちるのを救っています。但しこの作品で2点イマイチと思える側面があります。1つは叛乱するコンピュータの化身でもあるベイゴマのように回転する金属の塊はどう見ても滑稽にしか見えないという点であり、未来的なコンピュータの化身が産業革命の象徴のような時代遅れの金属の塊であるとは何ともアナクロニスティックに見えてしまうということです。しかしまあこれは、これによってゴシックホラー的色彩を加えていると言えば何となく理解できないこともない気がします。もう1つは、時間的な推移が今イチ矛盾しているような印象が避けられないことです。というのも、胎児の受胎から妊娠まで20何日間かかると叛乱コンピュータはのたまっているにも関わらず、このストーリー自体の経過時間はせいぜい1日か2日しか経過していないように見えるからです。そもそも旦那は奥さんをほったらかしにして一体何をしているのでしょうか?ひょっとするとこれは、現代アメリカ社会の家庭崩壊を象徴しているのではないかとすら勘繰りたくなりますが、明らかにそれは言い過ぎであり時間経過ハンドリングが少々拙な過ぎるのではないかという印象があります。ということで、SF的な要素とゴシックホラー的な要素とを組み合わせ、且つ一種の近未来社会批判を包含するといういささかユニークな作品であり、2見以上する価値があるかどうかは見る者のテーストに大きく依存するというタイプの作品ですが、少なくとも一見する価値は十分にある映画であると言えます。また叛乱コンピュータはストーリーが結末を迎えてもピンピンしているはずなので、この作品はオープンエンドであるということも忘れないようにしましょう。前述したようにラストシーンでは金属片で覆われた瀕死の胎児が保育器の中から出現しますが、その胎児から金属片をはがしていくとかつて白血病で死亡したスーザンの娘が出現します。今後その彼女が「オーメン」(1976)のダミアンのようになるのか否かはオーディエンスの想像に委ねられており、その意味でもオープンエンドだと言えます。まあ、賢くもこの叛乱コンピュータは自分の化身にかつてスーザンが愛情を注いでいた娘の姿をとらせることによって、すくすくとスーザンに育てられるようにしたということでしょう。そうそうこの悪賢い叛乱コンピュータの声はロバート・ボーンが担当しています。


2007/06/02 by Hiroshi Iruma
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