深く静かに潜航せよ ★★☆
(Run Silent, Run Deep)

1958 US
監督:ロバート・ワイズ
出演:クラーク・ゲーブル、バート・ランカスター、ジャック・ウォーデン、ブラッド・デクスター

深く静かに潜航せよ
(1958)
電撃命令
(1958)
潜望鏡を上げろ
(1959)


 最近(2002/12)も「K−19」(2002)という潜水艦もの映画が公開されていましたが、それを見て思ったことは、潜水艦映画とは専らsufferring(苦難、受難)を描く映画になったということです。狭い艦内に閉じ込められ爆雷が上からドカンドカン、神経をボロボロにするソナー音がピコーンという具合に、潜水艦の内部という環境がまさに受難を生み出す環境だからという理由もあるでしょう。「K−19」という作品は、冷戦時が舞台なので爆雷やソナーが登場するわけではありませんが、その代わりに乗員は放射能漏洩で受難します。従ってむしろ、「K−19」では受難というテーマが、よりくっきりはっきり刻印されていると考えられます。しかしながら、潜水艦はいわば兵器であり、もともと受難が目的で考案されたわけではないことは言うまでもありません。それどころか、敵の水上艦船にこっそりと忍び寄って彼らにアグレッシブに受難を与えるのがもともとの潜水艦の目的であったはずです。勿論、現実には敵の水上艦船に受難を与えたあと、一転して追われる身になった潜水艦の方が今度は受難を被る側になるのは確かです。しかしながら、潜水艦映画において、後者がわざわざ強調されるのが普通であるとなると、個人的にはどうしてもここには強調点の逆転があるように思わざるを得ないのです。実際、潜水艦が水上艦船から攻撃を受けるのは、潜水艦にとって水上艦船が脅威である以上に、水上艦船にとって潜水艦が脅威の対象であるからであり、最初から攻撃されることが目的で潜水艦が存在するわけではないからです。大陸間弾道ミサイルを搭載した現代の原子力潜水艦は別としても、それ以前の潜水艦の任務は敵の水上艦船を破壊することにのみその目的があり(第2次世界大戦当時世界最大の潜水艦であった日本の伊400型潜水艦は、アメリカ西海岸を砲撃するのがその目的の1つであったそうですが、これは例外中の例外でしょう)、それに対して水上艦船の本来の目的は潜水艦を破壊することでは全ないのです。従って、映画では潜水艦の受難が専ら描かれているとなると、どうしても現実との逆転があるように思えるわけです。このような潜水艦描写の逆転が起きたのは、「Uボート」(1981)辺りからではないでしょうか。というのも、1950年代の潜水艦もの映画を見ていると、潜水艦自らが受難するよりも敵に受難を与えることの方に焦点が置かれるケースが多かったように思われるからです。取りあえず国内でも既にDVDが発売されている「深く静かに潜航せよ」をレビュータイトルとして掲げていますが、このレビューでは、新年の大安売りということで4本の1950年代の潜水艦映画を取り上げてみたいと思います。他の3本は、ロバート・ミッチャム主演の「眼下の敵」(1957)、グレン・フォード主演の「電撃命令」(1958)及びジェームズ・ガーナー主演の「潜望鏡を上げろ」(1959)です。

 まず「深く静かに潜航せよ」ですが、この作品では、かつて自分が指揮する潜水艦を沈められた潜水艦の艦長(クラーク・ゲーブル)が、新たな潜水艦を指揮して、かつて自分に屈辱を味わわせた日本の駆逐艦を執拗に追い廻し復讐を遂げるというストーリーが展開されます。従って、勿論潜水艦ものお決まりの爆雷攻撃にひたすら堪えるシーンは見られますが、ハンターとしての潜水艦がメインに描かれていると考えられます。そもそも、潜水艦ハンターであるはずの駆逐艦を、専ら撃沈のみを目的として潜水艦がわざわざ追い廻すのは基本的に矛盾していると言わざるを得ないでしょう。ハンターをハントするハンターとしての潜水艦が、この作品での潜水艦の位置付けなのです。もし潜水艦の受難を描くのが目的であれば、主人公の搭乗した最初の潜水艦が日本の駆逐艦に撃沈されるシーンが、克明に描かれてもおかしくはないはずですが、そのシーンは一瞬で終ってしまいます。加えて、この作品には、艦長と副長(バート・ランカスター)の相克を描くドラマ的な側面もあります。潜水艦映画には、艦長と副長のいさかいに関連するドラマ要素が盛り込まれることが多いようであり、たとえば「K−19」ではハリソン・フォードとリーアム・ニースンが、「クリムゾン・タイド」(1995)ではジーン・ハックマンとデンゼル・ワシントンがそのような役割を演じています。不思議なことに、このような作品では、結局最後には争った当人同士が尊敬し合うというようなところに落着くのが普通のようで、水上艦船を扱った映画で、よく本当に叛乱が起きてしまうのとは対照的であるように思われます。恐らく、狭い潜水艦内という環境においては乗組員同士の結束が水上艦船以上に重要であるが故に、潜水艦そのもののイメージ自体が求心的な印象があるからかもしれません。ところで、瑣末な点ですが、この作品のように魚雷を横腹にではなく敵の艦首方向から発射しても命中しないのが普通なのでは?かつて、日本の巡洋艦隊が、当時の日本海軍の専売特許であり、無航跡の為に回避運動が取り難いはずの酸素魚雷を敵の艦隊の横腹に向けて100本以上放ったけれども、命中したのはわずか数本であったという話を聞いたことがあります。

 次は、「眼下の敵」です。この作品は、他の3本と若干様相を異にしています。1つは、「眼下の敵」(原題「The Enemy Below」)というタイトルが示すように、メインの視点が水上艦船側に置かれていることです。しかし、それ以上に他の3本と異なる点は、水上艦船と潜水艦のタクティカルマニーバーを描いた映画であることです。ラストシーンで駆逐艦の艦長(ロバート・ミッチャム)とUボートの艦長(クルト・ユルゲンス)が互いに相手に敬意を表すのは、タクティカル・マニーバーに優れた資質を持つ両者が、それに関する相手の卓越した行動や戦術眼に対して敬意を抱くからです。「ビスマルク号を撃沈せよ!」(1960)のレビューでも述べましたが、このようなタクティカル・マニーバーに関する優れた資質から生まれる敬意の念や尊敬の念、更には騎士道精神が水上戦闘もの映画の素材として扱われることがしばしばあります。ところが、潜水艦もの映画ではなかなかそういう展開にはなりません。なぜならば、潜水艦は相手の知らない間にこっそり忍びよって必殺の一撃を加えるというように、たとえると敵の背後から撃つイメージが強く、騎士道精神や尊敬の対象になるどころではないように思われるからです。また、追われる段になると潜水艦は一方的に追われる立場にならざるを得ないので、いわば水上艦艇対潜水艦の戦闘とは、どちらか一方が一方的に攻撃することになり、対等な立場で公正な一騎打ちが行われるような展開にはならないからです。その意味においても、「眼下の敵」は、通常の潜水艦もの映画とは一線を画していると見なせ、潜水艦が登場するとは云え、ジャンルとしてはどちらかというと水上戦闘ものの海戦映画に含めるべきかもしれません。

 次は、「電撃命令」です。この作品では、グレン・フォード演ずる潜水艦長が、「深く静かに潜航せよ」のクラーク・ゲーブル同様の執拗さで、日本の空母「Shinaru」を追い廻します。つまり、ハンターとしての潜水艦に焦点が置かれています。しかしながら、この作品には、sufferingのテーマが萌芽的に出現します。というのも、空母「Shinaru」の魚雷避けの盾の位置に配置されている輸送船にPOW(戦争捕虜)として自分の妻子が乗っていることを知りながら、主人公の艦長はギャンブルに出て魚雷を発射した結果誤ってこの輸送船を撃沈してしまい、それ以後彼は悩める人になってしまうからです。しかしながら、これは、潜水艦の乗員の精神的肉体的受難をサディスティックなまでに描くのとは全く異なり、主人公の苦難はいわば個人の内面における倫理的苦難であり、それを描くことのみが目的であれば、主人公は爆撃機の機長であっても一向に構わなかったはずです。というわけで、主人公の個人的な苦悩を除けば、この作品においても、潜水艦は基本的にハンターなのです。ところで、全くの余談ですが、「Shinaru」とはまた奇妙な日本語であり、これは恐らく第二次世界大戦中世界最大の空母であった「信濃」をもじったものでしょう。というのも主人公の乗る潜水艦の名称は「グレイフィッシュ」ですが、空母「信濃」が撃沈されたのは「アーチャーフィッシュ」という名称の米潜水艦によってであり、またアメリカの潜水艦の名称の語尾に「フィッシュ」を付加する伝統などないはずなので、単なる偶然ではないと考えられるからです。但し、この作品の対象となる時期には、空母「信濃」は存在しなかった上、「信濃」は竣工後10日で日本本土近郊の潮岬沖で撃沈されたことを付け加えておきます。

 最後に「潜望鏡を上げろ」です。タイトル(原題「Up Periscope」)にも関わらずエドモンド・オブライエン演ずる艦長が指揮する潜水艦は、特殊工作員(ジェームズ・ガーナー)を輸送する輸送船のように扱われ、水上艦艇との戦闘シーンはほとんどありません。むしろ、浮上中に戦闘機と交戦するシーンの方が多いほどです。主人公の特殊工作員が南太平洋の島で日本軍の暗号を盗む為に隠密行動をしている間、潜水艦の乗組員は海底で酸素の欠乏に堪えながらじっと主人公の帰還を待つシーンがあり、ここには潜水艦乗員の受難が描かれていることは間違いないでしょう。しかしながら、勿論潜水艦乗員の苦難自体を描くのがこの作品の目的ではなく、全体としては潜水艦に搭乗する主人公達が暗号ハンターとしてアクティブに行動しているのであり、「K−19」のようにまるで神様から見放されたかのように自らの意志とは全く関係のないところで乗員達が受難を被る様子が描かれているのとは全く異なります。尚、作品としては極めて平凡なアクション映画と見なした方が実情に適っているかもしれません。

 付け加えておくと、50年代の潜水艦もの映画の主役を演じているのは、「眼下の敵」のロバート・ミッチャムとクルト・ユルゲンスは別としても、皆海の荒くれ男という印象よりも陸に上がって女の子のおケツを追い回すロマンティックコメディで活躍する方が遥かに似合っているような役者さん達ばかりであり(クラーク・ゲーブル、グレン・フォード、ジェームズ・ガーナー)、「Uボート」のユルゲン・プロホノフのように岩のようにゴツゴツした顔を持つ役者さんとはほど遠いのが面白いところです。また「眼下の敵」以外の3本は太平洋が舞台であり、従って敵とは日本ということになります。「潜望鏡を上げろ」で日本軍の将校がさくらさくらを歌っているのには思わず「ほんまかいな?」と思ってしまいます。最後に「深く静かに潜航せよ」以外の星勘定をしておくと、「眼下の敵」は★★☆、「電撃指令」は★☆☆、「潜望鏡を上げろ」は残念ながら一番凡庸に思われ☆☆☆と云ったところでしょうか。


2003/01/11 by 雷小僧
(2008/10/12 revised by Hiroshi Iruma)
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