ジャッカルの日 ★★☆
(The Day of the Jackal)

1973 UK
監督:フレッド・ジンネマン
出演:エドワード・フォックス、ミシェル・ロンスデール、アラン・バデル、デルフィーヌ・セイリグ



<一口プロット解説>
ドゴール暗殺の為に、凄腕の殺し屋ジャッカルが雇われ、このジャッカルとその暗殺計画を防ごうとする当局の息詰まる駆引きが描かれる。
<雷小僧のコメント>
ドゴール暗殺計画を題材としたフレデリック・フォーサイス原作の映画です。まあ、よく言われるようにドゴールは実際暗殺されはしなかったので、実名を出した以上結果は最初から見えているということになるわけですが、それでもこの映画は見事な緊張感を維持することに成功しています。このレビューでは、それが何故かという点について論じてみたいのですが、単純にそれを行うのは極めて困難なので、ここでは比較という方法を用いてその点について説明してみたいと思います。そこでこの「ジャッカルの日」と比較する映画は何であるかというと、同じフレッド・ジンネマンが監督した映画で「ジャッカルの日」のおよそ10年前に製作された「日曜日には鼠を殺せ」(1964)を取り上げます。この両方の映画ともに最後に暗殺シーンで終わり、ある意味でどちらも失敗に終る点が類似しています(或る意味でとは、後述するように「日曜日には鼠を殺せ」では、グレゴリー・ペック演ずる主人公は、彼の本来のターゲットであるアンソニー・クイン演ずる警察署長ではなく、その代りにかつての自分の親友である密告者を射殺するので必ずしも失敗とは言えないのかもしれませんが)。しかしながら、「ジャッカルの日」が極めてシンプル且つシャープであるのに比べると、「日曜日には鼠を殺せ」の方は実に曖昧で一貫性がない印象があります。そのような両者の違いが発生する原因がどこにあるかを述べてみたいと思いますが、「日曜日には鼠を殺せ」の方は「ジャッカルの日」に比べるとマイナーな映画であり、見たことがない人もかなりいるのではないかと思われますので、まず簡単に「日曜日には鼠を殺せ」のストーリーを紹介しておきます。
アンソニー・クイン演ずる横暴な警察署長に自分の父親を殺された一人の少年が、グレゴリー・ペック演ずるかつてのスペイン市民戦争の闘士を尋ね、この警察署長を暗殺するように依頼しに行くところから物語は始まります。最初は、ペックはこの少年を相手にはしないのですが、やがて自分の母親がクインのいる町の病院に収容されたことを聞き、クインと対決する決心をします。しかしながら、明らかに、自分がこの母親を見舞いにくるところをクインが待ち伏せしようとしていることはペック自身百も承知なので、かつての闘士もなかなか意を決することが出来ずグズグズしています。そうこうしている内にこの母親は死んでしまうのですが、その最後を見届けたオマー・シャリフ演ずる牧師は、母親が死んだこと(すなわち見舞いにきてもクインの餌食になるだけであること)を伝えにペックの隠れ家までやってきます。この時、ペックは丁度留守をしていてくだんの少年が一人で留守番をしているのですが、先を急いでいるオマー・シャリフ演ずる牧師は、ペックの母親が死んだということを書いた手紙をこの少年に渡して立ち去ってしまいます。ところが、少年はこの手紙をペックに渡すとペックはもう暗殺をしに町に行かなくなるであろうと思って、手紙を破り棄ててしまいます。しかしながら、ペックの親友が実は密告者であるということを知った少年は、ペックの母親がまだ生きているという密告者の嘘を暴く為にペックの母親が死んだという証拠が必要になり、くだんの牧師を探しに行きます。この牧師を見つけたペックは、牧師とこの友人を対決させ彼が実際に密告者であることを知りますが、かつての闘士も今は体が訛っていて、結局この密告者に逃げられてしまいます。その後、意を決したペックは、クインを暗殺する為に町へ行き、今まさに警察所にいる彼を暗殺しようとするところで、取り逃がした密告者がこの警察所へ入っていくのを見て、クインではなく密告者を射殺します。結局、それによって所在が知れてしまった彼は、逆に警官隊に囲まれてあえなく射殺されてしまい、最後はペックと母親が死体となって並んでいるシーンでエンドになります。
ということで、この映画の何が曖昧であるかということを次に説明します。この映画の冒頭では、前節で述べたストーリーが開始される前にドキュメンタリーフィルムが写し出され、そこではスペイン市民戦争でファシズム勢力に抵抗する闘士達が写し出され、ナレーションとしてこの戦争には全世界が注目したというような解説が入ります。次のシーンでは、スペイン市民戦争がフランコ将軍によって制圧された時、グレゴリー・ペック演ずる敗者側人民戦線のかつての闘士が、フランスに亡命する国境で再びスペインに引き返そうとして、同士達に止められる様子が描かれます。すなわち、グレゴリー・ペックは、ヘミングウエイも参加したスペイン市民戦争で人民戦線側の勇猛な闘士であったとして冒頭で位置付けられているわけです。また、ナレーションにあるようにスペイン市民戦争に世界が注目したのは、ファシズムに対する自由市民の戦いという観点に対してであったわけです。ところが、この映画の本編(敗戦20年後という設定です)が始まると、冒頭で確立されたイメージが次々に裏切られてしまうのですね。たとえば、ある意味でアンソニー・クイン演ずる警察署長及び彼が率いる警官隊は、スペイン市民戦争当時のドイツ、イタリアのファシズム政権にバックアップされたフランコ率いる反乱軍(反乱軍と言ってもファシスト政権にバックアップされた彼らの方が強力であり、この映画にもあるように最後は人民戦線の方が敗北します)を象徴していると捉えても良いように思われますが、ところがそもそもまずこのアンソニー・クイン演ずる警察署長そのものが、確かに傲慢な態度をしているとはいえどもそのような象徴性を担える程巨悪の塊のようには見えないのですね。まあしかしそれは大目に見るとしてもどうにも信じがたいのは、最後のシーンでペックは、実際にあまりそのようには見えないとはいえどもパブリックなレベルでの悪を象徴しているはずのアンソニー・クイン演ずる警察署長を暗殺するのではなく、自分のかつての親友である密告者を射殺することであり、結局これではただの私怨に過ぎないことになってしまいます。勿論、もし仮に本当にこのような立場に置かれたとしたならば、多くの人はペックと同様に密告者を私怨で射殺するかもしれません。しかしながら、これは映画であり、しかも冒頭でスペイン市民戦争の闘士として性格付けられていたペックが、パブリックな悪を象徴するアンソニー・クイン演ずる警察所長ではなく私怨で密告者を射殺するというのは、どうにも冒頭とそれ以後の展開の間に語りのレベルでの大きな隔たりがあるように思えてしまうのです。すなわちパブリックな悪としてのファシズムに対する戦いであったスペイン市民戦争が、ちんけな個人の恨みつらみのレベルに置き換えられてしまったような印象があるということです。要するに、この映画にはパースペクティブに関する一貫性のなさがあり、その一貫性のなさ、またそれから起因するのであろう曖昧さがこの映画全体に随所に現れています。たとえば、オマー・シャリフ演ずる牧師の手紙を破り棄ててまでも自分の父親の仇をペックに討たせようとしていたくだんの少年が、確かに密告者の存在によってペックの暗殺計画が知られてしまいそれが失敗に終る確率が高くなった(従ってペックが殺される確率が高くなった)とはいえ、ペックが暗殺計画そのものを諦めてしまう可能性があるにもかかわらず、今度は必死になって破り捨てた手紙に書いてあった内容が真であることを証明しようとするようになるのですが、その理由は明瞭ではないのです。また、それまでアンソニー・クイン演ずる警察署長が罠を仕掛けていることが分かっているので慎重であったペックが、自分の母親が死んでそもそも自分にとっては町に出掛ける必要がむしろなくなった(ペックの母親はクインに拷問されて死んだわけでもなく病院で病死しただけであり、ペックが母親の仇討ちをする理由はまるでないわけです)時点で、何故突如決意して町にクインを暗殺しに行くのかがいまいち良くわからないのです。
かくして「日曜日には鼠を殺せ」という映画は、非常に曖昧で語りに一貫性がない映画であると言うことが出来ます。しかしながら誤解してはならないことは、語りに一貫性がない(語りの一貫性とはプロットの一貫性とは異なることに注意する必要があります)ということは必ずしもそれだけでは批判にはならないということです。何故ならば、小説や映画というジャンルは語りの一貫性ではなく、むしろ語りの重奏性が重視されるジャンルであると言うことが出来るからです。ラブレーの研究で有名なロシアの文芸評論家ミハエル・バフチンが小説における語りの重奏性について強調していますが、小説というジャンルは、一貫した形式或いはパースペクティブに支配される詩歌等の古代から存在するジャンルとは極めて異なる近代的な様式であると述べられています。映画とは小説以上に近代の産物であり、ドキュメンタリー映画や一部のフォーマリズムに基く映画を除けば、映画というジャンルが詩歌などのフォーマリスティックなジャンルよりは遥かに小説というジャンルに近いことは間違いがないはずです。従って、語りに一貫性がないということは、映画にとってはむしろ当たり前のことであると言うことが出来ます。しかしながら、この「日曜日には鼠を殺せ」という映画は、前述したように冒頭でドキュメンタリーシーンを挿入して、いかにもこの映画は通常の映画とは異なるような印象を与えるのです。すなわちこの映画はドキュメンタリー的な映画であって、語りの重奏性というような曖昧性ではなく、より明晰で首尾一貫したパースペクティブが重視されるような映画であるような印象が冒頭で与えられてしまうのです。このあたりの矛盾がどうしても払拭出来ないのがこの映画なのですね。たとえば、もしこの冒頭のドキュメンタリーシーンがなかったとすれば、恐らく最後のシーンでペックがクイン演ずる警察署長ではなく密告者を射殺するのもさ程不思議には思われずに済んだはずです。何故ならば、語りの重奏性はむしろ主人公のレベルで言えば個人的な内面の葛藤(すなわち異なる声の重奏)を反映するものであると捉えることが出来、ドキュメンタリー的な語りのコンテクストから外されれば主人公がそのような個人的な煩悶から私怨に走るのは小説の世界では日常茶飯事であるからです。
さて、このレビューの本題ではない「日曜日には鼠を殺せ」に関する記述があまりにも長くなってきましたのでこの辺で本題の「ジャッカルの日」に戻ります。それでは前節までで述べた「日曜日には鼠を殺せ」に比べて「ジャッカルの日」のどこが優れているのでしょうか。それは、後述する1点のみを除いて語りの重奏性を全て綺麗に捨て去って、まさにシンプルなパースペクティブを最初から最後まで貫く点です。すなわち、フレデリック・フォーサイスの小説が原作であるとはいえ、あらゆる意味においてこの映画は、小説的な映画ではなくドキュメンタリー的な映画であるという点に徹して仕上げられているということです。この映画を見ていて感心するのは、ほとんど全く展開に無駄がなく、余分な装飾が可能な限り排除されていることです。恐らく60年代も含めそれ以前であれば、ドキュメンタリー映画とそうでない映画の境界は厳然としてあったでしょうから、このようなタイプの映画はジャンルとして存在し得なかったかもしれません。冒頭でも述べたように、この映画は見ない内から結果は分かっている映画であり、曖昧性によってサスペンスを醸成することが全く出来ない映画であり、その曖昧性を齎す語りの重奏性を最初から最後まで削ぎ取っているのはまさに天晴れとしか言いようのないところで、言ってみればこの映画は語りの明晰性、迫真性でサスペンスを醸成しているのですね。すなわち、エドワード・フォックス演ずるジャッカルと、彼の暗殺計画を阻止しようとするミシェル・ロンスデール等当局との駆引きが、たとえば最近の映画にありがちなメインプロットから視線を逸らせる為にサブプロットを挿入しわざと展開を曖昧にして先を読みにくくするというような小賢しい細工を一切しないで、ストレートに表現されています。
そういう意味で言うと、この映画を見ていて無駄なエピソードであるように思われるのは、エドワード・フォックス演ずるジャッカルとデルフィーヌ・セイリグ演ずる有閑マダムとのロマンスシーンくらいのものです。正直に言うとこの映画を見る度に、このシーンだけは何故存在するのかがいまいち良く理解出来ないのです。時間的にもこのシーンを削った方が丁度よくなるはずなので、余計そのような印象があるのですね。無論、最後にセイリグはフォックスに殺されてしまうので、彼の冷酷さを表現したかったということなのかもしれませんが、しかし展開的に考えると一匹狼のプロフェッショナルであるジャッカルが、任務遂行中に必要以上に自らの立場を危険に晒すような行動に走ることがいまいち良く理解出来ないのです。その証拠にこのシーンでのみは、殺人マシーンを演ずるエドワード・フォックスのしゃべるセリフがシンプルではなく重奏的になってしまいます。しかしながら、これはマイナーな点であり、このシーン自体が全体を台無しにしているというわけではありません。ということで、この映画は、サスペンス映画というのはこのように簡素にシンプルに構成することが可能であることの見本のような映画で、ある意味でそれまでとは少し異なったアプローチによる映画であると言うことが出来ます。豪華で過剰な映画を好む人或いは明晰性よりも小説的な曖昧性(たとえば主人公の心理的な葛藤など)を重視する人にはあまりお薦めは出来ない映画であると言えるかもしれませんが、そうでないような映画も歓迎する人には推薦出来る映画であると言えます。最後に付け加えると、この映画のリメイクであるとも言われる「ジャッカル」(1997)というブルース・ウィリス主演の映画がありますが、この映画をリメイクであるというのは余りにもフレッド・ジンネマンに失礼であると言えるでしょう。何故ならば、「ジャッカルの日」の持っていた簡素さが「ジャッカル」には全くないないばかりではなく、無駄と過剰の連続のような単なるアクション映画に終始しているからです。最低でもリメイクであるようなふりだけはして欲しくないところです。


2003/08/02 by 雷小僧
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