四つの願い ★★☆
(Darby O'Gill and the Little People)

1959 US
監督:ロバート・スティーブンスン
出演:アルバート・シャープ、ジャネット・マンロー、ショーン・コネリー、キーロン・ムーア

左:アルバート・シャープ演ずるダービー、右:小人妖精レプラホーンの王様ブライアン

「四つの願い」はアイルランドを舞台としたフェアリー・テイルです。フェアリー・テイルとは、とんでもないほら話を茶化してそのように言う場合もたまさかありますが、勿論ストレートな意味においては、妖精が登場する一種のファンタジー・ストーリーのことを指します。映画でフェアリー・テイルと言えば、真っ先にディズニーの作品が思い浮かび、実はこの「四つの願い」もディズニーの製作作品です。アニメーション、実写に関わらずディズニーの作品には数多くの妖精達が登場するのが普通ですが、しかしながら実を云えば、ディズニー作品に登場する妖精達は、一般的にはディズニーのテイストに合わせて変容させられているというのが本当のところであり、いわゆるいにしえの時代から伝わる妖精物語に登場する妖精達とはかなりかけ離れたディズニー仕様とも呼べるようなあく抜きされた存在と化しているのですね。けれども「四つの願い」に関してのみ云えば、いつものディズニー的なフィルターがほとんど掛かけられていない独自なフェアリー・テイルに仕上がっているように思われます。というのもこの作品の舞台となるアイルランドはいわば妖精の本場であり、アイルランドに古くから伝わる妖精伝承がディズニーフィルターという遮蔽物を通すことなく巧みに取り入れられていることが素朴さが強調されたビジュアル面においても一目で分るからです。しかしながら勿論私めは妖精の専門家などではないのでそのように判断する資格はないのでは?と言われそうなので、妖精とは何かについて専門家の意見を参照してみることにしましょう。妖精に関する著書や訳書を数多く出されている妖精学の権威とでもいうべき井村君江氏の「妖精学入門」(講談社現代新書)という本が現在手元にありますが、それによると妖精のルーツとして以下の6つがあるそうです。

1.元素・自然の精霊
2.自然の擬人化
3.卑小化した古代の神々
4.先史時代の精霊、土地の霊
5.堕天使
6.死者の魂

この内1に関しては、井村氏はノーム(地の精霊)、ウンディーネ(水の精霊)、サラマンダー(火の精霊)、シルフ(風の精霊)を挙げていますが、このタイプの妖精はイメージ的には思弁的な要素が加えられているような印象が個人的にはあり、アイルランドというケルト的な世界が舞台である「四つの願い」とはあまり関係がないものと考えられます。5に関しては、明らかにキリスト教的コノテーションが含まれており、「四つの願い」に登場するレプラホーンやバン・シーといったキリスト教の立場から見ればモロに異教的な妖精達とは全く関係がなさそうです。但し、ご存知のように、一神教であるキリスト教はケルト、ゲルマン、ギリシア等の多神教的アニミズム的な土着の宗教を弾圧する場合が一般的には多かったとはいえ、土着の宗教にキリスト教を接木するようなストラテジーが採用された地方もあり、聖パトリックの伝統を持つアイルランドもこの方針が取られた地方に属します。従って、アイルランドにおいては、キリスト教の影響を受けながらも、土着の信仰も保護されていたが故に、一種独特の文化を今日まで維持することができたのだとも言えるでしょう。このように考えてみると、他の多くのディズニーの作品に登場する妖精達が、いわばキリスト教フィルター+ディズニー・フィルターというダブル・フィルター(※)のかけられた代物であるとするならば、ケルト的な要素に溢れた「四つの願い」においてはディズニー作品の中では珍しくもどちらのフィルターもかけられていない稀有の例であると見なすことができるように思われます。

※たとえば、ディズニーには「シンデレラ」や「白雪姫」などグリム童話から取られたアニメーション作品がありますが、グリム兄弟は採取された昔話にかなり脚色を加えており、また昔話と云えば誰もが想像するように全国行脚して素朴なおじーちゃんおばーちゃんから昔話を採取したというわけではなく、身近なそれも教養程度の極めて高い人々から聞き取りを行なったということについては、鈴木晶氏の「グリム童話/メルヘンの深層」(講談社現代新書)などが詳しいので参照して下さい。グリム兄弟はドイツ統一を目標とした辞書編纂で知られる学者でもあることに鑑みれば、それがキリスト教的であったか否かは別としても(むしろ彼らにとっては、ドイツ的なものの復興においてはキリスト教から見れば異教であるゲルマン的なエッセンスを強調しキリスト教の影響からのテイクオフが必要であるように考えられていてもさ程不思議はありませんが、鈴木晶氏の「グリム童話/メルヘンの深層」によればグリム兄弟の片割れヴィルヘルムは、「メルヘンが本来もっていた異教的な要素をできるだけ払拭し、そこにキリスト教信仰を盛り込んだといえる」そうです)、童話編纂にあたって一種ナショナリズムにも繋がるようなバイアスがかかっていたことは間違いのないところでしょう。近代におけるネーションステート(国民国家)の成立にあたってフィクショナルで想像的なパワーがいかに重要な役割を果たしたかについては、「民族とナショナリズム」(岩波書店)のアーネスト・ゲルナーや「想像の共同体−ナショナリズムの起源と流行」(リブロポート)のベネディクト・アンダーソン等の著書を参照して下さい。ダブル・フィルターとはそのようにして採取されたグリム童話が更にディズニー風にアレンジされているということですね。尚、鈴木氏は自身のホームページ(http://www.shosbar.com/)で「グリム童話/メルヘンの深層」の全文を公開されているので、興味がある人はご参照下さい。余談ですが、氏にはSFやコリン・ウィルソンのようなアカデミックな枠からははみ出るような著者のベストセラーから心理学者のエーリッヒ・フロム、ロロ・メイ、社会学者のルネ・ジラール、神話学者のジョゼフ・キャンベル、サブリミナルテクニックについて論じたウィルソン・ブライアン・キイ或いは個人的にはまだ読んだことがありませんが近年注目されるようになった思想家のスラヴォイ・ジジェクに至るまで多数の訳書があり、個人的にも訳書のいくつかを読んだことがあります。氏はどうやらサンディ・デニスのファンでもあるようであり、かつて彼女に関するコメントをメイルで頂いたことがあります。

さて、この作品に登場する主要登場人物(妖精?)の一人は、レプラホーンと呼ばれる小人妖精の王様ブライアンです。妖精というと、たとえば本年からJリーグ名古屋グランパスの監督になったストイコビッチは現役時代「ピクシー(妖精)」という渾名を頂戴しており、実は私めは「妖精 = ピクシー」という等式が成立するかのように考えていましたが実はそうではないようで、井村氏の本の中では「ピクシー」は60種(妖精に関して「種」という用語を適用することが正しいか否かはよく分かりませんが)以上挙げられている妖精達の中の1種としてコーンウォールの妖精として数え上げられているにすぎません。つまり、「妖精 = ピクシー」ではなく、「妖精 ⊃ コーンウォールの妖精 ⊃ ピクシー」ということになります。それと同様、ケルトの妖精として挙げられているのがレプラホーンであり、「妖精学入門」ではこの妖精に関して以下のように解説されています。

・老人姿のけちんぼ片方靴屋。月夜の原で踊った妖精のすり減った片方の靴を直す。地下に金貨の壷を隠し持ち、捕らえて在処を白状させれば金持ちになるといわれる。百姓の息子のトムがレプラホーンを捕らえ、宝の隠し場所を教わり、野菊の茎に赤い靴下止めを目印にした後、シャベルを手に戻ったが、野原一面は靴下止めだらけだった。人間を騙す才覚もある。いたずらを考えるときは赤い三角帽子の先を軸に、逆立ちしてクルクル回る。

このように記されているレプラホーンは、先の分類に当て嵌めると3、4辺りに相当すると考えられ、井村氏は3の説明の中で「リトル・ピープル」という用語を使用していますが、まさにこの用語が原題中にある「the Little People」に相当するわけです。「四つの願い」に登場するレプラホーンは、老人姿のけちんぼ片方靴屋ではありませんが、それ以外の記述にはマッチしていて、古くからの伝承がきちんと抑えられているなという印象を強く受けます。まず、この映画でもレプラホーン達は地下に金貨を蓄えていて、それを何とかモノにしようとする主人公の老人ダービーと、レプラホーンの王様との知恵比べが繰り広げられますが、人間を騙す才覚のあるレプラホーンを騙すのは容易ではないのですね。またさすがにレプラホーンの王様は王冠を被っていますが、それ以外のレプラホーン達の多くは赤い三角帽子を被っていて、細部にもなかなか正確なものがあります。但し、CGのない当時にあっては再現困難であったのか、さすがに逆立ちしてクルクル回るというようなシーンは存在せず、その代わりにダービー老人の弾くバイオリンに合わせて馬に乗ったレプラホーン達が円を描いてクルクル回るシーンがあります。このような妖精レプラホーンと主人公の老人ダービーが織り成すアイルランドの地方色が見事に捉えられたメインプロットの他に、彼の娘ケイティ(ジャネット・マンロー)と、なななななんと!恐ろしく若いゲジゲジ眉がチャーミングなプレボンド時代のショーン・コネリーのノホホンとした田舎のラブストーリーから成るサブプロットが巧みに交錯します。バン・シーに取り付かれたケイティにあの世から迎えの馬車がやってきたのに対して、父親である老人のダービーが身代わりになるけれども、くだんのレプラホーンの王様が彼を騙すことによって彼を助けるラストシーンもなかなかファンタジーとして洒落ており、民話的要素とファンタジー的要素及び素朴なラブストーリーがほどよくミックスされていて珠玉の小品という趣のある作品に仕上がっています。因みに井村氏の解説によるとバン・シーは人の死を予告する不吉な妖精だそうであり、であるとすると新婚旅行でどこどこに行ってバンシージャンプをしたなどというよくある自慢話は恐ろしく不吉な様相を帯びてくることになりますね。ということで、ディズニーの作品でありながらも、ディズニーディズニーしたところが抑えられているという点においては、個人的にこれまで見た作品の中では「トマシーナの三つの生命」(1964)と共に出来の良い作品であるように思われます。どうやらこの作品のファンがそこそこいるという事実にも頷けますね。素朴な田舎の風景にも素晴らしいものがあります。今日と比べた時の特殊効果における技術レベルの低さは仕方がないとして、それ以外のただ一つの難点として、主人公の老人ダービーを演ずるアルバート・シャープのあまり掃除していなさそうな映画俳優とは思えない程ガチャガチャな歯並びがアップになるたびに気になることが挙げられますが、アイルランドの田舎の老人ということでこれはわざとそのようにメイクしているのでしょうか?リアリズムを売りにするような作品ではないように思われますが。そうそう、それからさしたるメイクもせずに素顔でも魔女妖精として通用しそうなエステル・ウインウッドが出演していることを付け加えておきましょう。


2008/02/15 by Hiroshi Iruma
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