黄昏 ★★☆
(Carrie)

1952 US
監督:ウイリアム・ワイラー
出演:ローレンス・オリビエ、ジェニファー・ジョーンズ、エディ・アルバート、ミリアム・ホプキンス

左:ローレンス・オリビエ、中:ジェニファー・ジョーンズ、右:エディ・アルバート

ウイリアム・ワイラーの作品ですが、彼の次回作である「ローマの休日」(1953)があまりにもポピュラーになり過ぎて、それに比較するとあまり知られてはいない作品ですね(え!比較する対象が悪い?)。とはいいつつも、最近では国内でも500円DVDでも発売されているようなので見た人も少なくはないのではないでしょうか。まず第一に指摘すべきことは、原題は「Carrie」でありキャリーとはジェニファー・ジョーンズ演ずる田舎からシカゴにやって来る主人公の名前ですが(但し念力でいじめっ子に復讐するような能力は持っていません・・・何のこっちゃ?)、個人的にはローレンス・オリビエ演ずるレストランのマネージャーの方が興味深いところです。キャリーが社会の底辺から舞台のスターへと駆け上がるのとは対照的にオリビエ演ずるマネージャーの方は、キャリーを見初めたがばかりに高級レストランのマネージャーからホームレスへと凋落していきます。この作品は、「陽のあたる場所」(1951)と同様セオドア・ドライサーが原作ですが、そのような点ではサマーセット・モームが原作の「人間の絆」(1964)を思い出します。「人間の絆」では、キム・ノバク演ずるレストランのウエイトレスが次第次第に人生崩壊していく様子が描かれていて、男女の違いがあるとはいえども似たような側面があります。実は「人間の絆」のレビューを書いた時点ではまだ原作を読んでおらず、「たとえば「深夜の告白」(1944)でのバーバラ・スタンウイックのような映画的スタイリッシュさをこの映画の彼女にも求めてしまうと、純文学的にリアルなあり方で人生崩壊していく彼女の姿にはどうしても違和感を覚えざるを得ないということになるかもしれません。」などというお気楽なことを書いていますが、原作を読んで気が付いたのは、映画ではキム・ノバクが演じているミルドレッドは原作においては最後に死にもしなければ、彼女の人生崩壊に焦点があるわけでもないということであり、実は「人間の絆」のミルドレッドの扱いは純文学的であるどころか、全く映画的な美学に沿ったものであったということです。つまり、ミルドレッドとは「深夜の告白」(1944)でのバーバラ・スタンウイックのようなフィルムノワール的悪女ではなかったとしても、映画的スタイリッシュさの1つのバリエーションであったということに気が付くことができます。それと同じことが、「黄昏」のオリビエ演ずるマネージャーにも当て嵌まるでしょう。ミルドレッドにしてもそうですが、何故人生崩壊して最後はホームレスになってしまう彼を取り上げてスタイリッシュであると言えるのかという疑問が湧いてくるのは当然でしょうが、実はここに映画の魔術があるのですね。勿論現実世界においてミルドレッドやオリビエ演ずるキャラクターに出会ったと仮定したならば、彼らをスタイリッシュであるなどと呼べるはずがありませんが、映画ではそれが可能になります。何故ならば映画はそう呼べるようなコンテクストを作り出してしまうからです。確かに映画は虚構であるという点もその1つの理由になるかもしれませんが、しかし必ずしもそれだけではないということが次の2点を考えても分かります。1点目は、現実世界においてもそのようなロジックが全く機能しないかというとそうでもないという点です。たとえば、ボロボロのTシャツを着たり擦り切れたGパンを履いたりすることが1つのスタイルであると考えられる場合があります。2点目は、同じ虚構であるとは言えども小説の場合にはやや事情が異なるように思われる点であり、これは「人間の絆」が良い例になります。つまり虚構であるという点は、映画の持つ魔術の十分条件ではないどころか、場合によっては必要条件ですらないかもしれないということです。では映画は何故そのような魔術を持つことができるのでしょうか。その1つの回答は、有名な社会学者のアーヴィング・ゴフマンの殊にフレームの考え方によって得られるかもしれません。ここでゴフマンに関して詳細に述べることはしませんが、重要なことはフレームという概念は必ずしも虚構の世界だけに適用可能な概念なのではなく現実世界にも等しく当て嵌めることができる概念であることを指摘しておきます。いずれにせよ、映画自体の大きな意義の1つはこのような魔術が発生し得るようなフレームを提供することにあるとも言えます。ここで、フレームとは何かを分かり易く具体的に説明すると、たとえば舞台には舞台という1つのフレームがあり、その中で役者がモノローグを開始したとしても観客は何ら不思議なこととは思わないでしょう。ところが同じことをそのようなフレームが存在しない現実世界でおっ始めたならば、その人は必ずや頭がいかれていると思われるはずです。また同じ虚構の世界でも、映画では一般的には登場人物がモノローグを開帳することはまずありません。映画の中で登場人物の独り言を通してプロットが展開されるような展開があれば、それは「へぼい」と見なされるのが一般的です。何故ならば映画にはモノローグを許すようなフレームが一般的には存在しないからであり、その証拠に映画の中の登場人物のつぶやきは単なる独り言であって、モノローグという特別な用語で呼ばれることはまずありません。その代わり、映画には現実世界や舞台劇では許されないような独自のフレームを持っているのであり、その1つがミルドレッドやオリビエ演ずるキャラクターを1つの美学として構成するようなフレームです。但しそれも年代によるのですね。「黄昏」が製作されたのは1950年代初頭であり、1950年代初頭と言えば1940年代から継続されてきたフィルムノワールというジャンルがピークを迎える頃であり、確かにオリビエ演ずるキャラクターはフィルムノワール的なキャラクターとは言えませんが、ネガティブな様相がポジティブな様相に魔術的に転換されるようなフレームがその頃絶頂期を迎えていたことに相違はありません。しかしながら、価値観が大きく変わる1970年代であれば、もはやそのようなアスペクトが美学的に捉えられることはなくなり、むしろリアルさを持って捉えられるが故に、「黄昏」や「人間の絆」のような映画は存在し得なくなるわけです。そのような意味において、「黄昏」は極めて興味深い映画であり、またそれが故にローレンス・オリビエ演ずるレストランのマネージャーの方が原題にもなっている主人公のキャリーよりも興味深いと冒頭で述べたわけです。尚、シカゴが舞台ということですが、ローレンス・オリビエが主演していることもあってか、何やらロンドンが舞台ではないかと思わせますね。


2006/08/13 by Hiroshi Iruma
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