人間の絆 ★★★
(Of Human Bondage)

1964 UK
監督:ケン・ヒューズ
出演:キム・ノバク、ローレンス・ハーベイ、ロバート・モーレー、ナネット・ニューマン

向:キム・ノバク、背中:ローレンス・ハーベイ

サマーセット・モームの同名小説の映画化です。ぴあシネクラブの「人間の絆」の紹介欄には、「S・モーム原作の明るい文芸映画」と書かれていますが、この作品は非常に暗い映画であり、なぜ明るいのかさっぱり分かりません。「人間の絆」は、言わば魔性の女、悪女、或いはカッコつけて言えばファム・ファタルを扱っていると見なせます。しかしながら、魔性の女や悪女を扱ったフィルムノワール映画と「人間の絆」の大きな違いは、通常前者では野郎どもの人生を破壊するのが女主人公の役回りであるのに対し、こちらでは女主人公ミルドレッド(キム・ノバク)は自らの人生を自ら破壊していくのです。勿論、フィルムノワール映画においても、悪いことは出来ないもので悪女にも最後の最後には天誅が下るのが普通ですが、しかしながらそれはフィルムノワール映画の本質から考えればモラル的側面を無理矢理考慮した付け足し的なものであったと考えられます。それに対して「人間の絆」では、女主人公の人生が段階的に崩壊していく様子が、まさに必然的な展開として描かれているのです。このような点が、もともと映画的な美学の範疇のみで製作された映画と、純文学を原作とする映画の違いであると考えられるかもしれません。すなわち、純文学においては、魔性の女、悪女などというマテリアルを「スタイリッシュである」という範疇の下にテーマ化することは難しいのに対し、映画ではそれがいとも簡単にできるということです。純文学が原作である映画作品を見て、原作とイメージが全然違っていてがっかりしたことがあるとよく言われます。メディアとしての文学と映画の違いは、ファム・ファタルの描写のようなレベルでも歴然と存在しているのです。「人間の絆」は、映画ではありながらも純文学が原作である為に、展開はむしろ映画的であるよりも文学的であると言えるかもしれません。従って、演じているのがキム・ノバクであるということで、たとえばヒッチコックの「めまい」(1958)における彼女や、或いは「深夜の告白」(1944)でのバーバラ・スタンウイックのような映画的スタイリッシュさを女主人公ミルドレッドにも求めてしまうと、純文学的にリアルなあり方で人生崩壊していく彼女の姿にはどうしても違和感を覚えざるを得ません。何故ならば、この点に関しては無理矢理原作を捻じ曲げて映画的なメディアに合わせようとした様子がないからです(勿論原作がどうであるかについては読んでいないので語れませんが=この点については、原作を読んでからの評を後で述べます)。さて、「人間の絆」にも魔性の女に(最初は)魅せられる男がいて、この男をローレンス・ハーベイが演じています。しかし、彼はインテリジェントな医者の卵でもあり、ミルドレッドの本性を見抜くのにそれほど時間はかからないにも関わらず、状況的にどうしてもミルドレッドとの関係が断ち切れなくなります。そこで「人間の絆」というタイトルになるわけですが、早い話が俗な言葉を使えば「くされ縁」ということになるでしょう。「人間の絆」を興味深くしているのは、このような二人の主人公にキム・ノバクとローレンス・ハーベイが配されている点であり、良くも悪くもこの配役によって独特な雰囲気が醸成されています。キム・ノバク演ずるミルドレッドが徐々に、しかしながら確実にそしてまた絶望的に崩壊していく様もシネマティックな見ものですが、いわばオーディエンスに感情移入を許さない程度においては映画史上随一の俳優さんであるローレンス・ハーベイの存在は、このタイプの作品には極めて大きな影響を与えます。その影響とは、見る人によって良い方向に向かうこともあれば、反対の方向に向かうこともあるというようなタイプの影響であり、「人間の絆」の評価もそのようなローレンス・ハーベイの演技に対する見方によって大きく変わるはずです。個人的な見解としては、原作を読んでいないこともある故か、ローレンス・ハーベイの存在は「人間の絆」に抑制された独特な印象を与えており、全体として作品に大きく貢献していると考えていますが、そうではないと考えているプロの映画評論家もあちらにはかなりいるようです。いずれにしても、それは自分の目で確かめてみるのが一番でしょう。最後に、ロン・グッドウインの音楽が素晴らしいことを付け加えておきます。グッドウインというと戦争映画での勇ましいマーチをどうしても思い浮かべますが、この頃はこのような音楽も書いていたのかと思える印象的な音楽です。モームの「人間の絆」が原作の映画としては、1934年のベティ・デービス主演のものもありますが、なぜかそちらには谷崎潤一郎の長篇小説と同じ「痴人の愛」という邦題が付けられています。


※因みに上記のレビューを書いた後に原作を読みましたが、原作読了後のコメントを以下に挙げておきます。

映画バージョンでは、専らローレンス・ハーベイ演ずるフィリップとキム・ノバク演ずるミルドレッドの間のインタラクションが描かれていますが、原作ではフィリップとミルドレッドが出会うのは凡そ全体の2/5が経過した後です。それまでは、フィリップの子供時代、ドイツ留学時代、画家になる為にパリで勉強する時代が描かれており、そこで出会う人物の何人かはミルドレッドほどではなかったとしても、フィリップの人生にいくばくかの影響を与えます。映画は上映時間が限られているので、フィリップとミルドレッドのインタラクションに専らフォーカスされているのは至極当然ではあります。しかしそれは別にしても、映画と原作で決定的に異なる点があります。それは、映画ではフィリップと同様にミルドレッドにも大きな焦点が当てられていて、確かに主観的な視点はフィリップに置かれていることに間違いがないとしても、次第に人生崩壊してゆくミルドレッドにもそれに劣らないくらい大きな重心が置かれ、それ故か悲劇であるかのごとく彼女は最後に死ぬのに対して、原作ではミルドレッドは確かに大きな存在ではあれども、フィリップという主人公の傍らでかなり付帯的に扱われており、殊に彼女が最後に彼のもとを去った後は、ほとんど彼女に言及されることはなくなり、映画のように敢えて彼女の悲劇的な運命が強調されることもなく、死ぬこともありません。むしろ原作で人生崩壊の淵に立たされるのは文無しになってホームレスのような生活を強いられるフィリップの方なのです。ということは、原作と違って映画では、ミルドレッドが次第に人生崩壊していく様子が描かれているのは、まさにこれもフィルムノワール映画のファムファタール同様、映画的な美意識を演出する装置であったことになり、「無理矢理原作を捻じ曲げて映画的なメディアに合わせようとした様子がないからです」と上に書いたのは、全くの見当違いであったことになります。要するに、原作ではミルドレッドが占める位置は小説全体の中にあって映画での扱いほどには大きくはないのに対して、映画ではミルドレッドの位置は場合によっては主人公のフィリップ以上に大きな位置を占めているのです。それがネガティブなものであったとしても、映画「人間の絆」でのミルドレッドは、フィルムノワールでファムファタールが果したのと同じ位置を映画的構図の中において占めていることになり、一言で云えば、フィルムノワール映画同様、映画の文法或いはこう言ってよければ映画的な滅びの美学の中で、結局ストーリーが展開されていることに何の変わりもないのです。従って、上に書いた「映画的スタイリッシュさをこの映画の彼女にも求めてしまうと、純文学的にリアルなあり方で人生崩壊していく彼女の姿にはどうしても違和感を覚えざるを得ません」というコメントはあまりもお気楽すぎたと言わざるを得ません。キム・ノバクと言えば「めまい」における現実(ジュディ)から幻影的イメージ(マデリン)への大変身を思い出しますが、「人間の絆」における彼女は、ちょっと考えるとその逆である幻影的なイメージから現実への没落が描かれているようにも見えます。しかし前述の通り「人間の絆」の中で描かれているのは映画的な滅びの美学であり、従ってこの作品におけるキム・ノバクは、ある幻影的イメージからそれとは別の幻影的イメージへの変化を被っていると捉えるべきでしょう。また、キム・ノバクのミルドレッドは、最後は別としても原作のイメージに沿っているように見えるのに対して、ローレンス・ハーベイのフィリップはイメージ的にはかなり異なる印象を受けざるを得ません。但し、ローレンス・ハーベイのフィリップも彼なりのパーソナリティが活かされていて、それはそれで悪くはないのも確かです。かくして、原作とは大きく異なるところが多々あることに気が付いたとはいえ、優れた映画であるという印象に変わりはなく、この手の文芸大作の映画化は大概クエスチョンマークがつかざるを得ないケースが多いことを考慮すれば(たとえばドストエフスキーやトルストイの大長編を映画化するのは無謀を通り越えて正気の沙汰ではないように思えますね)、「人間の絆」は成功した作品であると評価できます。


2002/09/08 by 雷小僧
(2008/10/26 revised by Hiroshi Iruma)
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp