怒りの河 ★★☆
(Bend of the River)

1952 US
監督:アンソニー・マン
出演:ジェームズ・スチュワート、アーサー・ケネディ、ジュリア・アダムス、ロック・ハドソン

左:アーサー・ケネディ、右:ジェームズ・スチュワート

いつ頃からそのような次第になったかは良く分かりませんが、西部劇には、インディアンと騎兵隊がドンパチやる映画であるというクリーシェ的なイメージがこびりついています。勿論、ここに取り上げる「怒りの河」には、インディアンがほとんど登場せず、また、50年代の西部劇の中でも最もポピュラーな例を挙げれば、「真昼の決闘」(1952)や「シェーン」(1953)にはインディアンが一人も登場しないなど、そのようなクリーシェが、まったくではないとしても基本的に誤りであることは、西部劇を少しでも見たことがあるオーディエンスであれば周知のところであるとはいえ、映画ファンではない人たちや、映画ファンであっても古い映画を見ないオーディエンスの中には、そのような固定化されたイメージをそのまま信じている人がかなり存在するのではないかと考えられます。これは、必ずしもオーディエンスばかりが悪いわけではなく、ハリウッド自らがそのようなイメージを作ってきたのではないかという印象を受けます。たとえば、今日の映画の中で、登場人物がテレビで西部劇を見ているシーンがあれば、それは十中八九騎兵隊がインディアンを追いかけているシーンであるか、開拓者がインディアンに襲われているシーンです。つまり、そこには、「古い映画=西部劇=インディアン」という図式が象徴的に示されており、意識的にであれ無意識的にであれ、極めて固定化されたイメージが投影されています。しかしながら、火のないところに煙は立たないという諺の通り、「邪悪なインディアン vs 正義の騎兵隊」というクリーシェが、その通り展開される西部劇が少なからず製作されていたことにも間違いはなく、「怒りの河」の前年に製作され、同様にジェームズ・スチュワートが主演した「折れた矢」(1950)が、インディアンの側に視点を置いた最初の西部劇であると言われていたのには、それなりの理由があったのです。個人的には、「折れた矢」は、インディアンの視点から見られた西部劇などではまったくなく、単純にインディアンを白人化させて描いたに過ぎないと考えていますが、しかしそうであるとしても、当時はそこに大きな意味があったからこそ、エポックメイキングな作品であると評されたのです。考えてみれば、無神論者の多い現在の日本とは異なり、エンターテインメントの王国ハリウッドにおいてであろうと、昔は、たとえば誰かが悪の化身として描かれれば、それには何らかのモラル的な、あるいは大袈裟にいえば神学的な理由が必要とされたはずであり、そのような風潮の中にあって、インディアンは悪の化身として格好の素材であったのではないかと考えられます。そして、一度、「インディアン=悪」というクリーシェを作ってしまえば、それ以後は、モラル的な側面を回避して、それをお気楽に再利用することができたのです。従って、「折れた矢」がインディアンの立場に視点が置かれた最初の映画であると賞賛されるとするならば、それは、「折れた矢」がモラル的に極めて疑わしい白人至上主義という考え方から免れた最初の西部劇であったからであるというよりも(前述の通り、外見はそう見えても、「折れた矢」は白人至上主義を裏返して提示したに過ぎないと個人的には考えています)、むしろそのようなクリーシェの再利用によるお気楽な映画製作態度に対して疑問を投げかけた点に大きな意味が見出されたからだと見なすべきでしょう。いずれにしても、そのような意味において50年代前半は、西部劇の1つの転回点であったのは確かでしょう。その50年代前半に、アンソニー・マンは、「怒りの河」の他にも、同様にジェームズ・スチュワートを主演に据えた「ウインチェスター銃'73」(1950)、「裸の拍車」(1953)、「ララミーから来た男」(1955)などの西部劇を監督しています。いずれの作品も、「インディアン vs 騎兵隊」などというお気楽なテーマが扱われているわけではなく、その意味でも彼の西部劇は、時代の新たな要請にマッチしていたと見なせます。「ビッグトレイル」(1965)のレビューでも述べたように、西部劇の良さの1つは、雄大な自然の描写の中で開拓史的な熱気が捉えられている作品が少なからずあることであり、「怒りの河」もそのような作品の1つに数えられます。この作品は、オレゴンに舞台が置かれ、広大な山々を背景とした開放的な空間描写からは、開拓というパイオニア事業がどのようなものであったかが窺われます。勿論、自分がそこに居合わせたわけではないので、作品が当時の様子をどれほど正確に反映しているかはよく分かりませんが、いずれにしても、ポートランドの町の様子であるとか、汽船で開拓地へ赴く様子であるとか、あるいは隊列を組んで進む幌馬車の一団であるとか、西部開拓時代とはこんな時代であったのかと相槌を打ちたくなるエッセンスを豊富に見出すことができます。特に興味深いのは汽船であり、西部の町の発達の初期段階においては、鉄道がまだ存在していなかっただけに、水上交通が大きな役割を果たしていたことがよく分かります。町の発達が成熟段階を迎えると、鉄道が到来する次第になりますが、たとえば「西部開拓史」(1962)においては、冒頭では開拓者たちが船や筏に乗って開拓地を目指す様子が描かれ、また、それから何十年の歳月を経たラスト近くでは鉄道が発達する様子が描かれていました。そのような開拓史時代を背景とし、ストーリーにも開拓というテーマが直裁に織り込まれている点が、「怒りの河」の最大の魅力なのです。尚、「怒りの河」は、ロック・ハドソンの初期の出演作の1つであり、それより以前の「ウインチェスター銃'73」では、彼は、インディアンの酋長を演じ、後のイメージとは随分と違うように見えたのに対し、「怒りの河」では、彼特有のチャームが既に花開きかけています。ジェームズ・スチュワート、アーサー・ケネディは別としても、彼の名前は、ジュリア(ジュリー)・アダムスなどという今日ではほとんど忘れ去られた女優さんの次にクレジットされているとはいえ、タイトル前に現れるので、丁度彼がビッグスターに成りかけていた時分であることが分かります。


2006/07/02 by Hiroshi Iruma
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