2000年までに発表した短編小説


『暴力芸人』

 「小説non」2000年5月号所収。喧嘩上等暴力芸人を名乗る、流々亭坊光にまつわる物語。──流々亭坊光、『粗忽拳銃』の天馬の兄弟子である。二つの作品に直接的な関連はないけれど、流々亭雨光っていうキャラクターだけは両方の話に出てくる。まあどっちもチョイ役だけど。
 暴力と笑いとの関係をちょっと考えてみたいなっていうのと、一人語りの落語に対する二人語りの漫才を書いてみたいなっていうコンセプトでできた作品。それに、“覆面レスラーに「久しぶり」って声かけられたら面白いかな”みたいなアイデアを足すとこういう話になるのである。

『シュールポップの活弁士』

 「小説すばる」2000年3月号所収。短編としては小説すばる新人賞の受賞第一作ってことになる。
 『粗忽拳銃』のゲラ校正などをやってる最中から次の長編の準備をしてたんだけど、そのうちに短編としての受賞第一作を書いてみてくれって話になった。ある編集者とは酒の席で高崎映画祭のことを喋ってるうちに(僕は10代の頃にちょろっとスタッフをしたのだ)そのことを小説にしてみたらと言われてて、別の編集者からは『粗忽拳銃』の良さを活かした路線で連作を意図した作品をってなことを言われた。その結果として出来たのがこの作品で、こういうコラボレーションみたいな成立過程ってのもいいもんである。着想から完成まで一人でやるしかなかった頃を考えると、プロデューサー的エディターの存在ってのはやはりありがたいのだ。
 さらに僕自身のテーマとして語り口の手法もとりいれてラジオのDJや活弁の要素を活かしたし、『粗忽拳銃』の広介その後みたいなことも考えてみたりした。ここからの展開がちと楽しみである。

『オートフォーカスの騎士』

 「小説すばる」2000年5月号所収(予定)。『シュールポップの活弁士』の続編、トンボヌマストリーの第2話である。
 『シュールポップの活弁士』はショージ中心の話だったが、『オートフォーカスの騎士』の主人公はヤゴ太郎。17歳の高校2年生って設定なので、僕の高校時代のことと微妙に重なる部分もある。国語の授業でふざけて作った短歌をちょこっと変えて作中に使ったりしてね。
 前作に引き続いての妙なタイトルだが、個人的にはこういう語感は気に入ってる。おおまかなあらすじ(原案時点では『トンボヌマの休日』と呼んでた)を考えた後でこのタイトルが浮かび、それに合わせて細かな設定をたてたのだ。

『月光プール』

 「三田文学」No.56(1999冬季号)所収。
 オンライン出版で「ブラック・ボックス」を出す挨拶のために三田文学編集部に行ったら、その場で依頼されてしまった短編。30〜40枚くらいのものっていう指定だったので、前に書いた短いフラグメントに手を加えて短編に仕上げた。書いてみたら1日でできちゃって、自分でも驚いた記憶がある。(ちなみにこのフラグメントは以前に別の形で中編にもしたんだけど、そっちの方はお蔵入り)
 内容はというと、真夜中の女子高のプールに忍び込む男子高校生の話。とにかく夜のプールで泳いでるシチュエーションが書きたかったんだけど、それをどういう形で作品に仕立てるかってことで結構迷った覚えがある。──まあ結局はそれなりのものになったわけで、その辺りに小説を書くコツみたいなもんがあるような気もするなあ。

『スペースシップ』  改訂版閲覧はここをクリック

 第五回ゆきのまち幻想文学賞大賞受賞作。同賞作品集(NTTメディアスコープ刊)所収。「ゆきのまち通信」No.38と「公募ガイド」の95年7月号にも掲載されている(公募ガイドは誤植あり)。それから青森の方のラジオ局でラジオドラマ化された(全然違う話になってたが)。
 前述の『ブラック・ボックス』を徹夜で書き上げた日の朝に思いつき、バイトに行って働いて、その日の夜に2時間くらいで書き上げた。──勢いというのは恐ろしいもんである。
 壁一面がガラスでできたレストラン「スペースシップ」。その命名の由来が謎になってて、大雪の降る晩に……って内容で、雑誌で札幌の藻岩山にそんな感じのお店があると読んだことから思いついたのだが、僕は後になって実際にそのお店を訪ねることになる。(エッセイ方面参照)
 執筆したのは1994年の夏。大学4年の僕は就職活動も行わずに小説を書いていた。
 そして1997年の春、この作品を何となく読み返してたら、少し手を入れたくなった。元の形は活字になってるわけだから、リライト・バージョンをこのホームページに掲載しておこうと思う。

『シニャックの船』

 第一回三田文学新人賞最終候補作、というと聞こえはいいが、要するに最終選考で落っこちたのである。「三田文学」No.37掲載の選考座談会の話題には上っているけれど。
 まあしかし、この『シニャックの船』という作品のおかげて僕は「三田文学」という雑誌に関わっていくことになる。──ただ単に学校の中で三田文学新人賞募集のポスターを見かけ、どんな雑誌かも知らないまま前に書いた『シニャックの船』を直して投稿したというだけだったのだが、それに目をつけてくれた当時の編集長の古屋健三先生が何か書かないかと声をかけて下さったのである。
 新人賞落選後も、手直しして掲載しようという話だったのだが、手直しを済ませた頃には編集長が代わってて、新編集長の元ではあえなくボツ。その後さらに手を加え、短編集『ブラック・ボックス』に収録することになった(同時収録は『ブラック・ボックス』と『ポケット』)。しかしこの短編集、修文社からオンライン出版されたのだが、事情があって版権は引き上げたので現在絶版。……なんだか僕はそんなことばっかりしてるようだが、まあ仕方ない。僕なりに筋を通そうとすればいろいろ軋轢もあるのだ)。
 作中に出てくるポール・シニャックは実在した画家。僕の仕事部屋には、彼の絵の絵葉書が何枚も飾られている。

『クロスロード』

 「三田文学」No.46(1996夏季号)所収。
 「ある日の小説1996・5・1」という特集のために書いた作品。8人の作家が8編の小説を寄せるという特集で、名だたる大作家の方もいれば僕のような駆け出しもいるという変わった趣向の企画だった。
 ある日、新しく三田文学の編集長になられた井伊直行氏から僕に連絡があった。「お願いしたいことがある」なんて話だったので、僕は「連載の依頼か何かか?」なんて浮かれつつ待ち合わせの喫茶店に繰り出した。
 だけど世の中そんなに甘くなくて、依頼は依頼でも短編小説の依頼であった。しかも、「できが悪けりゃボツだよ」なんておまけつき。依頼内容は、「1996年5月1日についての小説を、5月1日が過ぎた後に、400字詰原稿用紙10枚から20枚程度で書いてほしい」とのこと。5月1日という日付には何の意味もなくて、単に締切りとの関係で決めたのだとか。打ち合わせの喫茶店、井伊編集長が「いいこと考えたぞ」ってな感じの表情で熱っぽく語ってくれたのを覚えている。
 僕としては、どうせ先輩諸氏に囲まれて掲載されるならなるべく若造らしい小説を書いたろうかと思い、22枚の作品を書き上げた。
 幽体の感覚をあくまで日常の言葉で表現して、そのことで日常に生きて行く主人公を考えようとした。賛否両論のリアクションがあったけど、今から考えるともうちょっと突っ込んで書き込むと面白かったかな、と思う。

『9レターズ』  ネット版閲覧はここをクリック

 「三田文学」NO.42(1995年夏季号)所収(ちなみにこの号には前述の江藤淳氏の講演録も載っている)。実際には『ブラック・ボックス』の前に完成させた作品だけど、編集部の意向で掲載は後になった(考えてみると、僕は「新人賞受賞第一作」ってのを書いてないわけだ)。
 手紙の文章を中心に構成された短編小説で、技巧的だとかわけ分からんとか言われたけれど、物語のストラクチュアへの関心やある種の文学観、物語観が色濃く表現された作品。今のところ唯一の、僕自身の手で映像化した小説でもある。
 『9レターズ』を発表して面白かったのは、僕の多くの作品を読んでくれてる友人達(当然若者)の多くが、「あれが一番好き」って言ってくれたことと、良識ある立派な文壇関係者の方々(当然中高年)が「あれはちょっと」っておっしゃってくれたこと。こーゆーギャップは楽しい。
 形としては、ネット上などで展開するハイパーテキスト的な作品だったのかもしれない(もっとも、この作品を執筆した1994年当時の僕はそんな概念を持ってなかったが)。そこで、1997年の暮れにネット版の『9レターズ』を作成してみることにした。
 この小説のタッチでもっといろいろ書いてみたいのだが、こういうのが好きな編集者と巡り会わないと無理かもしんない。
 一応、影響を受けた作品として夏目漱石の『こころ』と、村上春樹-久居つばきの「ねじまき鳥」ラインを挙げておこう。どこがじゃって言われりゃそれまでなんだけど。

『ブラック・ボックス』

 「三田文学」No.41(1995年春季号)所収。第二回三田文学新人賞受賞作。
 家族とか記憶とか人間とかってものをブラックボックス(内部構造の分からん装置)ととらえ、シーク&ファインドの技法と謎の女の子のキャラクターでストーリーテリングした作品。構成に苦労したけれど、執筆は半月足らずで一気に仕上げた。
 審査員の方々の選考座談会が同じ号に掲載されているし、受賞式の前にあった講演会で江藤淳氏が触れて下さった。
 その講演でとりあげていただいた箇所は、僕が意識的に工夫をこらして緻密に書き上げた、というところではなく、むしろ全く無防備に、ストーリー展開の勢いにまかせて書いてしまったようなシーンだった。どうしてそんなところを? と当時は思ったのだが、後になって、だからこそ何かを引っぱり出せて、その結果ある種の文学性が垣間見えたシーンだったんだな、と思った。
 これはある意味でディスコミュニケーションを扱った作品だけど、それと対になる作品としてコミュニケーションを扱った作品も書いた。(未発表だけどね)

『裏庭の不発弾』

 「三田文学」No.39(1994年秋季号)所収。
 テレビで不発弾処理をやっていて、のんきな兄弟がそれを見てる。そのうち二人で埋めた子供の頃の宝物のことを思い出して──という短編小説。記憶とか時間とかいうものをテーマに書いた。宝物のリストとか、飼っていたペットの名前とかがズラズラ出てくる。
 一応、ユーモア小説に分類しとけばいいのかな。

『ポケット』

 第六回舟橋聖一顕彰青年文学賞受賞作品集所収(漢字がこんなに並ぶと日本語じゃないみたいだなあ)。
 ビリヤード小説。ビリヤードの腕を競った友人が死んでしまい、通夜の翌日に彼の師匠である老紳士とビリヤードをして……というあたりで終わっているが、最初の構想ではもう少し書くはずだった。もう一つの死とその後の主人公を書こうとしていたのだが、書いていてふっと話が終わってしまったのだ。
 月に一作と決めて習作を続けていた頃、今月はまだ書いてないけどどうしようと思ってる時に友人と喫茶店に行き(自由が丘の「MURA」)、そこで思いついて確か一晩で書き上げた。後でだいぶ手直しして投稿し、彦根市が主催してる賞で佳作をもらった。一泊旅行の気分で受賞式に行き、審査員の偉い先生方に会ってすごく緊張した。
 どうでもいいことだけど、この賞の作品集にのっている僕の顔写真は思わず笑っちゃうほどひどい。もともとたいした顔じゃないけど、琵琶湖の風にあおられて髪がぐちゃぐちゃになった直後、半笑いの時に撮影され、おまけに慣れないネクタイをゆるめてた状態だったので、ほとんど怪しい酔っ払いである。あんな顔した奴が道の向こうからやってきたら僕は避けるだろうな、本当に。

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