スペースシップ
竹内真
引っ越したばかりの町で気に入った店を見つけるのは、何だかとても
気分のいいことだ。町に受け入れられ、自分の居場所を用意してもらえ
たような気になってくる。
そこは北の町にある小さなレストランで、若いマスターと美人の奥さ
んが切り盛りしていた。季節の素材のたっぷり入ったスパゲティーがと
びきりうまくて、ビールもきりっと冷えている。感じのいいカウンター
があるのも僕の好みだった。
だけど僕が一番気に入ったのは、その店の窓だった。並大抵の窓じゃ
ない。ほとんど壁一面が巨大なガラスでできているのだ。
店は海に面した高台にあったから、その窓からは広々とした海原を見
渡すことができた。海はどこまでも広がり、視界をさえぎるものなんて
何もない。天気が良ければ水平線に沈む夕日を見ることもできる。
夕日はそこの売り物だったから、それを目当てにやってくる客も多か
った。地元では定番のデートコースだったし、わざわざ隣の町から車を
飛ばしてやってくるカップルもいた。
日没が近づいてくると、マスターは店に流れていたBGMを消してし
まう。それはとても厳粛な時間なのだ。音楽の入り込む余地はどこにも
なかった。
やがて夕日と水平線が触れ合い、太陽は名残を惜しむような速さで海
の向こうに沈み始める。夕焼けは店の中のあらゆるものをオレンジ色に
染め、僕らの息さえひそめさせる。
静寂の中、太陽が姿を隠していく。波のきらめき、空のグラデーショ
ン。──完璧な美なんてものがあるとしたら、その瞬間のことなんだろ
うと僕は思っている。
ただ一つ、その店に関して良く分からないことがあった。
スペースシップ──その店の名前だ。どうしてそんな名前がついたの
か、僕には見当もつかなかった。
店の中はシンプルで、宇宙船のパネルも模型も飾られていない。宇宙
にちなんだメニューがあるわけでもないし、客に宇宙人がまぎれている
わけでもない。──そんな名前をつける理由なんてどこにもないはずだ
った。夕日にちなんだ名前をつける方がよっぽど気がきいている。
どうにか常連とみなされるようになってきた頃、僕は命名の由来をマ
スターに尋ねてみた。初めて店に入った時から、ずっとその疑問が頭に
こびりついていたのだ。
だけどマスターは、とぼけた顔で首を横に振った。
「──そいつは、この店のトップシークレットなんだ。そう簡単には教
えられないね」
グラスを磨きながら、楽しそうな口ぶりでそう答える。こっちの好奇
心をあおるような言い方だった。
僕はしつこく食い下がり、マスターは口笛まで吹いてはぐらかす。渋
い外見に似合わず、案外子供っぽい人なんだと知ったのはその時だ。
「……じゃ、どうすれば教えてくれるんですか?」
僕がふてくされ気味に言うと、マスターはにっこりと微笑んだ。きっ
とそのセリフを待ち構えていたのだろう。
「これから毎日、うちの皿洗いをしてくれたら教えてやるよ」
「毎日って、何日間やればいいんですか?」
「雪の降る夜がくるまでさ」
マスターは陽気に笑った。厨房から出てきた奥さんも事情を察して微
笑んでいる。
「──冗談でしょ?」
僕はいささか面食らって言った。それは暑い夏の日で、僕はTシャツ
を着て店に来ていたのだ。──たかが店の名前の由来を教えてもらうだ
けで、何だって半年も皿洗いをしなきゃならないんだ?
「俺は大まじめだよ。トップシークレットってのはそういうもんだ」
マスターは人の悪い笑顔を浮かべていた。見かねて後ろから奥さんが
声をかけてくる。
「大丈夫、ちゃんとバイト料は出してあげるから。──食事もつけてね」
僕は二人の顔を見比べた。──どうも胡散臭かったが、二人が悪い人
じゃないのは分かってる。どうせ暇なのだからバイトするのも悪くない。
食事だって出るのだ。
そんなわけで、僕はレストラン「スペースシップ」の店員になった。
いつもカウンターに座っていた僕がエプロンをつけて皿を洗っている
のを見ると、常連客の何人かはわけ知り顔で微笑んだ。
「お、新しい船員さんかい?」
彼らは僕を店員とは呼ばなかった。理由を聞いても教えてくれない。
マスターや奥さんと顔を見合わせてにやにやするだけだ。
ヒントらしきものをくれたのは一人だけだった。僕の通う大学で助手
をやっている人だ。
「それにしても、今から出航待ちとはご苦労なこったね」
ビールのグラスを傾けながら、彼はわけ知り顔で口を開いた。
「出航待ち?」
僕は皿洗いの手を休めて聞き返した。とうして皿洗いが出航待ちで、
どうしてそれがご苦労なのか分からなかったのだ。
「だって、雪が降るまでこき使われるんだろ? 俺なんか、皿洗いを始
めて三日目の晩にはドカ雪が降って──」
彼はそのまま口を滑らせそうだったのだが、奥さんが人さし指を唇に
当てた。──トップシークレットは、そうやって守られているのだ。
「あら、うちはそこらのアルバイトより待遇がいいんですからね。こき
使ってるなんて言われちゃ心外だな」
そのまま話がそれてしまったが、僕はほんの少しだけ秘密に近づくこ
とができた。──スペースシップは、雪の降る晩に出航するのだ。そし
て新入りの船員は、皿を洗いながら出航の時を待っているのだ。
奥さんの言う通り、船員の待遇は悪くなかった。バイト料はしっかり
貰えたし、仕事の合間にはとびきりうまいスパゲティーが食べられる。
仕事が終わればビールを一杯。──だけど出航を待つ身には、それは長
い長い日々だった。
スペースシップはけっこう雪の多い町にあったのだが、どういうわけ
かその年はなかなか雪が降らなかった。初雪が例年より一ヵ月も遅れた
のだ。もう永遠に雪なんか降らないんじゃないかと思えるほどだった。
その夜はバイトは休みだった。僕はベッドの中で本を読みながらうと
うとしていた。そこに電話がかかってきたのだ。
「外を見てみな。お待ちかねのもんだぜ」
受話器から聞こえてきたのはマスターの声だった。僕は慌てて窓に駆
け寄り、カーテンを開いた。
雪だ。いつの間にか降り始めた初雪だった。
「店に来いよ。内輪のパーティがあるんだ」
マスターは楽しそうに言った。時計を見ると、もうとっくに閉店時間
は過ぎている。
「今からですか?」
「そうだよ。──早くしないと、先に行っちまうぞ」
何のことだか分からないまま、僕は慌ててアパートを飛び出した。ダ
ッフルコートに袖を通しながら自転車に跨がり、うっすらと雪化粧した
道路を急ぐ。舞い落ちる雪を顔に受けたまま、僕は必死にペダルを踏み
しめた。
息を切らしながら店に入っていくと、マスターと奥さんの他にも常連
客が集まっていた。暖房は切られているようで、みんな厚い上着を着込
んだままだった。
「よ、待ちかねたぜ」
マスターは僕の肩を叩き、グラスにワインを注いでくれた。奥さんが
上着についた雪を払ってくれる。
「さて諸君、新しいお仲間の登場だ」
マスターの芝居がかったセリフ、みんなの拍手──僕は呆気にとられ
てつっ立っていた。
「よし、みんなグラスは持ってるな? 各自の持ち場についてくれ」
みんなが席につき、僕は窓の正面にあるテーブルに座らされた。窓に
は厚いカーテンがかかっている。
「電気、消しますよ」
奥さんが声をかけ、明かりが消えた。店の中が真っ暗になる。
「じゃ、出航だ。──乾杯!」
マスターが陽気な声を上げ、みんなが声を合わせる。僕の後ろでさっ
とカーテンが開かれた。
振り返った瞬間、僕は言葉を失った。
巨大な窓一面、見えるのは降りしきる雪だけだった。
闇の中、無数の雪が静かに落ちていく。雪が白い光を放っているよう
だった。
不思議な光景だった。じっと見つめていると吸い込まれていくような
気がする。──次第に自分の足元の感覚さえ遠くなり、宙に浮かんでい
るような錯覚を覚える。
宙に浮く──そう、雪のかけらが落ちてくるんじゃない。僕らが浮か
び上がっているのだ。
スペースシップ──その瞬間、僕は店の名前の意味を理解していた。
雪しか見えない窓の外。その光景が与えてくれる浮遊感。それが謎の
答えを教えてくれた。
どれくらいの間、雪を見つめていたのだろう。僕はマスターの姿を探
して振り返った。
「分かったかい?」
カウンターの中から、マスターの声がした。振り向くと、店のあちこ
ちにロウソクの火が灯っている。
「こいつがこの店のトップシークレットさ」
ロウソクの向こうで、マスターが得意げに微笑んだ。みんなが陽気に
声をかけ、マスターは両手を広げてみせる。
「俺は昔、大人になったら宇宙飛行士になるって決めてたんだ。──ど
ういうわけだか、コックになっちまったんだけどさ」
「それで、ここに宇宙船を作ったってわけ。──雪の日しか飛び立てな
いんだけど」
奥さんがそれぞれのテーブルに燭台を配って歩きながら言った。
「私達の子供が大人になってる頃は、毎日飛び立てる船ができてるとい
いね」
そう言って、奥さんは軽くお腹を撫でた。悪戯っぽい笑顔がマスター
に向けられて、二人の視線が重なり合った。
「え、お前……」
マスターの顔に驚きが浮かび、ゆっくりと笑顔が広がっていく。みん
ながはやしたて、明るい拍手の音を響かせる。
暖かな光景を眺めながら、僕はワインを口に運んでいた。自分はこの
店に受け入れられている、そう思えることが嬉しかった。
グラスの中が空になり、僕は窓に目をやった。舞い落ちる雪の光景が、
不思議に暖かく感じられた。
降りしきる雪の中、スペースシップは空へと浮かび上がっていく。
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