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 映画 日記   (2003年12月から2004年3月まで)       池田 博明 


2003年12月〜2004年3月に見た 外国映画 (洋画)
見た日と場所 作  品        感  想     (池田博明)
2004年3月17日

DVD
永遠のマリア・カラス

伊・仏・英・ルーマニア制作

2002年
 フランコ・ゼフィレッリ(原案・脚本・監督)が歌姫マリア・カラスの思い出に捧げた映画。ファニー・アルダンが晩年のカラスを見事に演じます。現在の演技に全盛期の声を重ねるというアイデアを出すプロモーターのラリー役にジェレミー・アイアンズ。コラムニスト役はジョーン・プロウラウイト(オリヴィエの奥さん)。撮影はゼフィレッリやボロニーニと組んで傑作を残している名手エンニオ・グアルネッリ。ストラータス主演の『トラヴィアータ』も撮影している。
 せっかく完成した歌劇映画『カルメン』をカラスは破棄してほしいと訴えます。それが「ニセモノ」(fake)だからです。それまでどんなに最悪のコンディションで残されてしまっていようと(例えば晩年の日本公演のように)、それは間違いなく自分での姿であり、自分の声でした。それなのに、ニセモノで「勝負」したり、「復帰を賭けたり」することは出来ないのです。「いつも自分の真の姿でした」とカラスは言います。
 ゼフィレッリはカラスの人格を描きたかったと話していますが、その意図は十分に達成されているように思われました。 
2004年3月3日

BS2
19:55〜22:00
恋におちたシェイクスピア

ユニバーサル&ミラマックス
1998年
 シェイクスピア作品をアレンジした傑作。『ロミオとジュリエット』の場面が物語の構造とうまく融合して不思議な空間を作り出しています。シェイクスピアを熟知し、愛している英国民ならではの作品です。ジョン・マッデンの監督ぶりも見事なのですが、マーク・ノーマンとトム・ストッパードの脚本の出来がそれ以上にすぐれた一篇でした。
 シェイクスピアの時代の劇場の様子も分ります。また、シェイクスピアは既に結婚しており、妻子をエイヴォンに置いて都会に出て来ていました。シェイクスピアを独身だと思い込んでいたヴァイオラが酒場での会話から、間違いに気づき、立ち去る・・・彼女の後を追うつもりのシェイクスピアにマーロウの悲報がもたらされます。
 ラッセル・ジャクソン編『シェイクスピア映画論』(開文社出版,2004年2月)が出ました。その序論にはシェイクスピア的な要素が盛られた成功例として述べられ、終章には狂詩曲風な映画であると述べられています。トニー・ハワード曰く、“演劇と恋愛を、うそと真実によって支配された双子の土俵として探求している点で、ストッパードの『リアル・シング』の姉妹篇であり、喜劇的なドラマを弁証法だとする彼自身の手法にこだわり続けたものである。・・・ヴァイオラはシェイクスピアの詩のミューズとなり、その映画が上演される間観客は、偉大な芸術は、偉大な作家の非凡な経験の直接の賜物である、という神話に同意することになる”。  
2004年2月7日

フジテレビ
20:00〜23:30
ロード・オブ・ザ・リング
旅の仲間

USA
2001年
 話題作でしたが、これまで見ていませんでした。しかし、次々に登場する俳優たちを見ているだけでも興味深々でした。ガンダルフ役イアン・マッケラン、ビルボ役イアン・ホルム、クリストファー・リー、ケイト・ブランシェットや、新人俳優たち。
 また、背景や風景が俯瞰で描かれることが多く、その壮大さには感心しました。
 トールキンの『指輪物語』は30年前に読んだことがありますが、こんなふうに完全映画化されるとは思っていなかったので感無量です。フロド側、つまり善人たちがあまりにも強く、次々に斬り倒されてしまう悪の側の手下たちについつい同情してしまうのですが・・・。
 第2作『二つの塔』、第3作『王の帰還』も、今後ぜひ見てみたいと思いました。
2004年2月2日

DVD
狩人の夜

1955年

USA
93分
 チャールズ・ロートン唯一の監督作品。公開当時は上映禁止になったところも多く、批評もさんざんだったそうです。伝導師が連続殺人犯で、しかも金の為に執拗に子供を殺そうとする話ですからね、無理もありません。ロートンは次回作にノーマン・メイラーの『裸者と死者』を考えていたらしいのですが、この作品の大失敗で、誰もロートンに次回作を撮らせようとする製作者はいなかったそうです。
 しかし、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが高く評価して蘇った名作。フレンチ兄弟の『カルト映画』にも取り上げられています。デイヴィス・グラッブスの原作をジェイムズ・エイジーとロートンが脚色。撮影スタンリー・コルテス、音楽ウォルター・シューマン。
 子ども達のかくれんぼで始まりますが、一人の男の子が納屋で女性の死体を発見します。次いで車を運転するロバート・ミッチャムが肉欲を悪とみなす伝導師ハリーとして登場(まさにはまり役の名演です)。言葉の端々と、ポケットに忍ばせた飛び出しナイフで、最初から“犯人”であることが明らかにされます。男は未亡人を刺殺する性癖をもつようです。ヌード劇場で踊り子を次の獲物と見る伝道師でしたが、急に車の窃盗容疑で逮捕されます。
 場面は変わって、男ベン(ピーター・グレイブス)が自分の息子ジョン(ビリー・チャピン)に一万ドルの紙幣を見せ、どこかに隠します。「妹パール(サリー・ジェーン・ブルース)を守れ」という言葉を残して、彼は息子の目の前で警官たちに逮捕されます。銀行強盗で二人を撃ち殺した罪で、判決は絞首刑でした。刑務所で偶然、同じ房になったハリーはベンが隠した金のありかを聞き出そうとします。寝言で子供のことを言うのを聞き、ハリーは鍵は子供にありそうだと見当を付けます。
 刑が執行された後、子どもたちは犯罪人の子どもとして疎外されます。ハリーは未亡人になったウィラ(シェリー・ウィンタース)に取り入り、結婚することになります。しかし、初夜にハリーはウィラを抱くことを拒否しました。女の欲望は唾棄すべきものだと彼は考えているのです。左手に「HATE(憎悪)」、右手に「LOVE(愛)」と指の背面に刺青をしているこの男は、説教に指を使って愛が憎悪に勝つという話をしていました。
 夫から「鏡に映した自分の姿を見よ。アダムを陥れたイヴの体だ」と蔑まれる妻、「子供を産むための行為でなく、自己の快楽のための行為は悪である」と主張する男。金のありかを前夫から告解で聞いたという言葉を信じて、胸のつかえが下りたために結婚を決意したウィラでしたが、夜中にハリーが子供に金のありかを詰問しているのを聞いて、ハリーのウソに気が付きます。その夜、ハリーはウィラを刺殺してしまいます。車ごと沼に沈めて、ハリーは妻の失踪を装います。隣人スプーン夫妻(イヴリン・ヴァーデン、ドン・ベッドー)には「初夜から彼女は私を拒否した。密かに妻は酒に溺れていた」と嘘を付きます。
 しかし、ハリーを警戒していた息子ジョンには継父の正体を感じるところがありました。金の詰められた人形を抱く妹をかばい、間一髪のところで逃げて、舟による逃避行が始まります。舟を出そうとする幼い兄妹をあと一歩と追い詰めるハリー。満天の星がきらめく夜、恐怖の追跡と逃避のドラマが展開します。ジョンの友達でもあるバーディじいさん(ジェイムズ・グリーソン)はウィラの死体を発見したのに、自分に疑いがかかるのを恐れて酔いつぶれていました。
 川を舟が下る夜の美しさ。やがて岸に流れつき、納屋で眠ったジョンが起きて見たものは、遠景のシルエットではありますが、黒人霊歌「モーゼス」を鼻歌で歌うハリーが馬に乗っている姿でした。農夫を殺して盗んだ白い馬です。“蒼き馬”ではありませんが、馬に乗った殺人鬼はなにかの象徴でしょうか。幸いなことに、孤児を養っている(サロゲート・マザーの)、レイチェル・クーパー婦人(リリアン・ギッシュ)のもとで新しい生活を始めた兄妹でしたが、ハリーの魔の手は迫ってきていました。
 女が男に対してほんの少しでも情欲を見せると、例えそれが少女であっても、イライラしたハリーはポケット内で、ナイフの刃先を飛び出させます。すると鋭い刃先がポケットの隅を切り裂きチラッと見えます。これはかなり恐い。
 クーパー婦人は、「父親に子供を返してくれ」との申し出でジョンが逃げる姿を見て、即座に断ります。そして銃を持ち出し、ハリーに狙いをつけます。「伝導師なんてのもウソだ」と喝破します。「きっと戻って来る」と言い捨てて、ハリーはいったん退散。夜中に家の周りであの“テーマソング”を歌いながら近づいて来ます。鉄砲を抱えて、子供たちを守るリリアン・ギッシュの姿が神々しいまでに美しい。婦人はハリーの歌に唱和します。
 結局、婦人のガードが固く、ハリーは家に入れません。婦人は電話で州兵を呼びます。納屋に隠れたハリーを夜明けに州兵が「未亡人殺しの罪」で逮捕します。そのときジョンが駆け出します。
 ジョンは紙幣の隠された人形でハリーを殴りながら、「(州兵に)やめて。パパ!こんなものあげるよ!」と言います。人形は壊れて紙幣が風に舞います。実父ベンが大恐慌の時代、子供のためにと盗んだお金が空しく風に吹かれます。ジョンは“父親”が目の前で警官に捕らえられるのを二度も目撃したことになるのです。
 裁判の日、ジョンが検事に訊ねられています。「その男がお母さんを殺した男だね」と。しかし、ジョンは無言です。判決は絞首刑と決まったようで、興奮した町民たちは「青ひげ!吊るせ」と叫び、大群衆となって刑場に向います。ハリーは牢屋から引きずり出されます。喧騒の中、クーパー婦人は子供たちを連れて足早に家に向います。彼女は一切町の人々を見ませんし、喧騒そのものに目をやることもありません。孤児のうち年長のルビー(グロリア・カスティロ)は、ドラッグストアでジョンを探すハリーから「君は美人だ」と、お世辞を言われたことがあり、「あの人は悪くない」と呟いていますが、そんなルビーもクーパー婦人はどんどん引っ張っていきます。
 ほどなくクリスマス。そういえば町の店の看板にも「メリー・クリスマス」とありました。婦人の家ではささやかなプレゼント交換が行われています。子供たちから婦人へ、そして婦人から子供へ。ルビーは輝くブローチをもらいました。これはいわば婦人からの「あなたは立派な女になったのよ」という意味の勲章ですね。ジョンは隣室のテーブルの上のリンゴをナプキンでくるんで婦人に差し出します。婦人は「最高の贈り物だわ」と喜びます。そのリンゴはあの悪魔がやってくる前の夜、二人が心を交わした証しのリンゴでした。婦人はジョンに時計を贈ります。
 婦人はつぶやきます、「子供たちにはつらい世界です( It's a hard world for little things)。子供はいつも耐えているものです」と。幕。
 私の妻・小百合の解釈によれば、クーパー婦人が「失った息子」というのが、ハリーなのだそうです。その証拠には、夜、家に侵入しようとしているハリーと銃を構えた婦人はいつのまにか同じ歌を唱和したではないか、またハリーが偽牧師であり悪魔であることを一瞬にして婦人が見抜くのも、不肖の息子であればこそだし、処刑を子供たちに見せまいとするのも、そう考えれば納得がいく、お互いに一言も名乗りを上げることはないが、それで作品の神話的構造が深くなるというのでした。なるほどそのような解釈も成り立つ余地はあります。しかし、製作者たちはそこまでは意図していなかったでしょうが。
 『カルト映画 Cult Movies』より証言を紹介(池田訳):(1)ロートンはハリー役を最初こんな風に説明したという、「私があなたにやらせたい役は完壁な最低の人間(complete shit)です」と。ミッチャムは「ここにいるよ(Present)」と答えた。(2)コルテス撮影の全ショットは暗い妖精物語の雰囲気を持つ。コルテス曰く、「毎日、なにか新しい照明を考えていました。これまでには無かったようなとんでもないやつをね。私が一緒に仕事をした監督でそれを理解してくれたのは二人だけさ、オーソン・ウェルズとチャールズ・ロートンだ」。
 エイジーが最後に完成した脚本である。トム・ダーディスの『ときにはハリウッドの陽を浴びて』(サンリオ,1982)には、次のような記述があった。“映画全編を通じて、“テネシー山地”の雰囲気が溢れ、全体としては適度に現代的な手法で処理されている。一方では、『おののく影』やムルナウが二十年代後半に使っていたような“表現主義的な”効果もとりいれた部分がある。・・・ロートンは監督にあたっていろいろな手法を使いすぎたと批判されたが、この手法は大部分エイジーの脚本によるものである。” 
2004年1月20日

DVD
CATS

1998

UK
116分
 輸入版ビデオ(2本組)でも出ていたミュージカル「CATS」がDVDで出ました。
 舞台演出は才人トレヴァー・ナン、映像演出はデイヴィッド・マレット。1981年初演時のオリジナル・キャストもそろえて完全映像化した傑作。
 特典ディスクに「メイキング」やスタッフやキャストへのインタヴューが収録されていて、興味深いものがあります。「メモリー」を歌うグリザベラ役は最初ジュディ・デンチが演ずるはずでしたが、アキレス腱を切ったため、急遽エレン・ペイジに変わったことや、作曲のアンドリュー・ロイド・ウェッバーが子供の頃から母に読んでもらってこのT・S・エリオットの原作に親しんでいたこと、彼が公演の当ても無いときに自主的に詩に曲をつけていたこと、ストーリーが無いミュージカルが成功するとは誰にも思えなかったこと、グリザベラのことは最初の本の詩には含まれていなくて、エリオット未亡人が提供した詩稿のなかにあったこと、振付を担当したジリアン・リン、装置を担当したジョン・ネィピアなどの工夫や才能が傑出していたこと等等。
 輸入版ビデオには日本語訳詞が無かったので(歌の訳詞カードは挿入されていましたが)、猫たちの物語が理解しにくかったのですが、DVDは訳語付きです。個性的な猫たちの列伝になっていることがよく分りました。
2004年1月18日

DVD
ノルシュティン作品集

ロシア
 動画・監督ユーリ・ノルシュティン、美術・演出フランチェスカ・ヤルブソワ(ノルシュティン夫人)の傑作『霧につつまれたハリネズミ』(1975)と『話の話』(1979)を見ました。この2作品はアニメ関係者の投票による『世界と日本のアニメーションベスト150』(ふゅーじょんぷろだくと)で第一位と第二位に選出されました。
 毎晩、コグマ君と星を見るのを楽しみにしているハリネズミのヨーザックは、ネズの木の実を手土産に出かけます。しかし、今日は霧の深い夜、白馬やミミズク、コウモリが突然霧の中から出現して、ヨーザックはびっくりします。とうとう道をふみはずして川に落ちてしまいましたが、大きな怪物(山椒魚?)に助けられて、ようやくコグマ君と再会したヨーザックはコグマ君の心配の言葉も上の空、今晩の出会いをしみじみとふり返るのでした。
 『霧につつまれたハリネズミ』は、詩情が描かれたものの先に、つまり見えない部分に表現されるということを明瞭に示しています。フル・アニメが動物の動きを完璧に再現することを目指して、かえって想像力を限定してしまったことでも分るように、散文に対して詩がそうであるように、リミテッド・アニメが想像力を解放する役割を果たします。細部に神は宿るという言葉を思い出します。
 ノルシュティンは20年も『外套』(原作ゴーゴリ)に取りかかっているそうです。また、世界のアニメ作家が芭蕉の冬の日の連句を競作している由。楽しみですね。  
2004年1月7日

DVD
まぼろしの市街戦

1967年
フランス/イタリア

103分
 フィリップ・ド・ブロカ監督、ダニエル・ブーランジェ共同脚本のMGM配給の傑作がとうとうDVDになりました(2003年、イマジカ発売)。戦争をパロディにした寓話です。寓話は最後まで寓話らしく、楽しく、かつ淡々と進みます。
 第一次大戦中、フランスの片田舎の城壁に囲まれた村に駐留していたドイツ軍が街の中心部に爆弾を仕掛けて去っていく。ドイツ軍の一兵卒にヒットラーもいる。爆弾は午前0時、城の大時計の騎士が鐘を打つと同時に爆発し、街全体を吹き飛ばすようにセットされていた。レジスタンスの床屋が途中まで通報の電文を打ったところで、銃弾に倒れてしまい、様子がわからない英軍は、フランス生れの伝書鳩係りのプランピック二等兵(アラン・ベイツ)を床屋と接触させようと偵察に出す。
 ところが、床屋の情報を聞いた町民は既に逃げ出していた。ドイツ軍に追跡されて逃げ込んだ精神病院で「ハートのキング」を引いたプランは、患者たちに「帰って来た王様」に祭り上げられる。やがて、患者たちは街に出始めた。ドイツ軍が退却した後の無人の街に楽しげな音楽や踊りが響く。しかし、プランは気が気でない。どこかに爆弾が隠されていて、もうすぐ爆発するはずなのだ。そんなこととは露知らない町民、つまり患者たちは遊び気分で、王様に美しいフィアンセ・コクリコ(ジュヌビエーヴ・ビジョルド)を選ぶ。
 伝書鳩を撃ち落としたドイツ軍はプランが勘違いして送った「爆弾は消滅した」というメモを見て確認に来る。そこで爆弾のありかが分かる。英軍も間抜けな三人の斥候を出すが、街はすっかり患者たちの天国。撹乱された兵隊たちは逃げ帰る。
 爆弾を取り除くことができないプランは全員を海岸へ連れて行こうと考えるが、城門を出た瞬間、全員が街中へ戻り始める。そして、みんなが「外は恐いよ」「王様、戻っておいで」と呼ぶ。真に正気なのはこの患者たちだったのだ。
 あきらめて覚悟を決めたプラン「0時まであと3分しかない」。コクリコ「まだ3分もあるわ」。死を前にしてもうろたえない人々。コクリコから時計台の騎士が出て来ることを聞いたプランは、間一髪、騎士が鐘を叩くのを阻止する。英軍が入って来てお祭り騒ぎ。爆弾が爆発しないのを不審に思ったドイツ軍も戻って来る。翌日、街の中央で二つの軍隊は鉢合わせ。銃撃戦で両軍とも全滅する。「遊びが過ぎたね」「もう帰ろう」と患者たちは衣裳を捨てて病院に戻っていく。
 プランはちょうど侵攻してきた仏軍から勲章をもらうが、次の戦地へ移動するトラックから降りて街へ戻って来る。精神病院の前で全裸になって鳩の入った籠をもつプランの姿があった(米国版のエンディング)。精神病院の病室でみんなとトランプに興ずるプランが「ところでルールが分からないんだが」と言うと、将軍(ピエール・ブラッスール)の答えは「ルールなんかないよ」。公爵(クロード・ブリアリ)が、窓の外の生活を評する(オリジナル版エンディング)。 
 公開当時の本国での評価は散々なもの。あまりにも図式的かつ明瞭な寓話だったので、馬鹿馬鹿しく思えたのでしょう。監督自身も失敗作と考えたというほどでした。日本でも不入りで、ベスト・テンにも登場していません。しかし、ヴォネガットやアービングのするたとえ話が好きなUSAのフラワー・チルドレンの間で評価が高まって、現在はブロカの最高傑作と評価されています。音楽はジョルジュ・ドルリュー、撮影は『影の軍隊』も撮ったピエール・ロム。
2004年1月2日

DVD
御冗談でショ

1932年
USA
64分
 マルクス兄弟第4作。理解しやすいギャグが多く、楽しめる一篇。
 小林信彦は次のように書いています、「この作品ののびのびした気分は、芸人の芸が、時代とともに、はずんでいるところから生じている。芸に若さがある。
 マルクス兄弟の作品を<シネ・バーレスク>と呼ぶのが正しいことが納得できる」と。
 大学の学長に就任したグルーチョの歌「I'm against it(なんでも反対)」が面白い。
 酒場にアメフトの選手を買収に出かけたグルーチョは間違えて、密造酒屋のチコと犬飼いのハーポを雇ってしまいます。大学の生理学の講義が三人に乗っ取られ、風刺されるほか、教育熱やスポーツ熱が笑いのめされます。アメリカン・フットボールの試合がラストを飾ります。ギャグの解説はジンマーマンの『マルクス兄弟のおかしな世界』(晶文社)に譲りましょう。ジョン・ベルーシ主演、ジョン・ランディス監督の怪作『アニマル・ハウス』を連想させます。この次の作品が『我輩はカモである』です。 
2004年1月1日

ビデオ

(2004年6月3日 BS2
20:00〜21:50)
続激突!カージャック

1974年
USA
110分
 スピルバーグが『激突!』の成功に続いて製作を任された第2作で、原題は『Sugarland Express(シュガーランド急行)』。レンタル店にもなかった作品ですが、レンタル落ちのテープが中古ビデオ市場にとうとう出ました。公開当時に名画座で見て感動しました。“心優しい犯罪者たち”という、アメリカン・ニューシネマのテイストのあるスピルバーグの異色作で好篇です。
 ゴルディー・ホーンが、福祉事務所から取り上げられ養父母に任された2歳の息子を取り返そうと、服役中の夫クロビス(ウィリアム・アサートン)を脱獄させる妻ルー・ジーンを演じる、ロード・ムーヴィ。シュガーランドは息子の養父母のいる町の名前です。1969年にテキサスで起こった実話をもとにしています。この事件の後、一年半服役したルー・ジーンは、結局、子供を自分のもとに取り返したとか。
 映画の主役は犯人の車を追いかけるたくさんの車です。ある時は激しく追跡し、ある時は犯人たちを見守るように警護し、ある時は休み、そして眠る車。二百台以上の車が生き物のように現れます。途中でイケイケの警官や射撃キチガイの市民が勝手に犯人たちを攻撃する“狂った”場面もあります。
 途中の町では息子を取り返そうという主張に共感した群衆が集まりますが、それも一時の熱狂です。
 スナイパーに撃たれる夫。車は河原で停止してしまいます。夕日の映る川面に人質にされた警官スライド(マイケル・サックス)と隊長タナー(ベン・ジョンソン)のシルエットが寂しそうに浮き上がります。撮影ヴィルモス・ジグモンドの見事な腕前。音楽はジェリー・ゴールドスミス。
 「これまで一度も人を殺していない。これからもだ」という隊長タナーに、子供の引渡しと沿道での警護を要求し、約束させると、ルー・ジーンは、隊長に「タナーさん、あんたはいい人よ Captain Taner, I believe you」と言います。「信頼 Believe」と「裏切り」の構図、それもアメリカン・ニューシネマのひとつのテーマでした。

 【追記】 2008年にアメリカの「ゴルディー・ホーン自らを語る」(アクターズ・スタジオ・インタビュー)では、司会ジェームズ・リプトンが「ゴルディーの名演技が見られる作品」と評価し、スピルバーグの「彼女を誇りに思う。おかげで血の通った作品になった」という言葉を紹介しました。ゴルディーはスピルバーグを「Fantastic,Curious, Excited,粘り強い,Strong Vision,Fun」と評し、あの役は「自分自身を旅していた。自分の光と影の部分のすべてを投じたから、役から抜け出すのに一ヶ月かかったわ」と話していた。(2009年9月22日BS2で放映)
 DVDが2009年11月に発売されます。やった!
 公開当時の感想がわがミニコミ「幻の天使」1974年にありました。
2003年12月31日

ビデオ
マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ

スウェーデン
1985年
102分
 リンドグレン原作『やかまし村の子供たち』などを製作・監督したラッセ・ハルストレム作品。辛口のカート・ヴォネガットが誉めていたので、気になっていた映画でした。この映画の原作・脚色はレイダル・イェンソン。
 少年イングマルは人工衛星に載せられたライカ犬の運命よりは自分の方がましだと考えています。なぜそんな風に考えるのかというと、自分の人生にあまり明るい希望が持てないからです。母親は病気がちですし、兄は意地悪、父親は自分達を捨ててしまいました。イングマル自身もへまばかりしでかしています。ガールフレンドが裸になったところを運悪く、よその人に発見されて逃げ出し、愛犬とたき火をしていると、大火事になってしまいます。もと写真家で本好きの母親は手のかかるイングマルを田舎の叔父のところに預けることにしました。
 少年は新聞や本で見つけた運の悪い人のことをいつも考えていて、自分と比較することで人生を生きる元気を得ています。この運の悪い人たちの挿話はまるでヴォネガットの小説の中に登場するキルゴア・トラウトのSFのような味わいがあります。
 さて、田舎でのイングマルの生活は信じられないようなものでした。叔父さんと叔母さんには子供がいないので、イングマルを優しく扱ってくれます。同居の姑は小言を言いますが、それもあまりうるさくはありません。その夫は寝たきりの老人で、少年に下着雑誌を読んでくれるように依頼します。人が来ると、その雑誌をあわてて隠すのがとてもおかしい。
 イングマルはサッカー・チームに入りますが、そこで一番の選手はなんと男勝りの「女の子」サガ。しかし、ボクシングの試合で無手勝流でサガに向っていき、サガから一目置かれるようになります。叔父の働くガラス工場でのアイドルは大きいおっぱいのベッキー(という名前だったか)。彼女をヌード・モデルにして彫刻を作ろうとするアーティスト気取りの職人もいて、イングマルはいろんな形で人々と関わります。ちょっとふくらみ始めたサガの乳房に布を巻く手伝いもイングマルの仕事です。
 半年が過ぎ、イングマルは帰宅しますが、母親の病気は悪くなっています。母親へのクリスマス・プレゼントにトースターを買ったその日に母親は亡くなってしまいます。イングマルは冬の田舎に再び戻ることになってしまいました。
 老衰のため老人は亡くなり、姑は別居しており、サガは少し女らしくなっていました。しかし、彼女の妙な愛情表現(「自分の胸を見せたんだから、あんたのあれを見せて」)を拒絶し、二人の間はギクシャクします。イングマルにモーションをかける別の少女も現れて、三角関係のもつれは深くなります。
 イングマルは自分の愛犬を呼び寄せて欲しいと叔父に依頼しますが、叔父は購入したばかりのテレビに夢中です。実は愛犬は既に死んでいるのでした。
 屋根修理を習慣にしていた男も屋根から降りて冬の川に入りこんだりして、季節の変わり目が来たことが理解されます。ロケットに見立てた手製のロープウェーが街のなかに出来ています。改修されたロケットに乗り込んだサガとイングマルと友達、ロケットは途中で勢いがつき過ぎて止まらず、墜落してしまいます。泥だらけになった三人をみんなは暖かい笑いで迎えます。
 幸福そうにソファでまどろむイングマルとサガ。ラジオから世界選手権のタイトル・マッチでイングマル・ヨハンソンが勝ったことが報じられ、街のみんなが国民的英雄の誕生に大喜びしています。これはイングマルの夢なのでしょうか・・・。
 悲劇的な人生を喜劇的に語るというヴォネガット・テイストのある作品です。
2003年12月30日

DVD
マルクス兄弟/けだもの組合

USA
1930年
93分
 マルクス兄弟の映画出演作第2弾『けだもの組合 Animal Crackers』。これまで私が見たマルクス兄弟は『我輩はカモである』と『ラヴ・ハッピー』(ハーポだけ)の2作品だけでした。
 映画の内容はジンマーマンの労作『マルクス兄弟のおかしな世界』(晶文社)に譲りましょう。舞台をほぼ忠実に記録した作品だそうです。狂燥的なギャグのすべてが理解できたわけではありませんが、グルーチョ・マルクスのめまぐるしく価値を転換するおしゃべりが魅力であることがよく分かります。日本語版字幕はかなり頑張っていると思われました。
 小林信彦は次のように書いています(『映画を夢みて』ちくま文庫より、この解説はジンマーマンの本に付されたもの)。
 “残酷な天使のようなハーポが、家中に発砲し、小鳥を殺し、二人のレスラーが組み合っている彫像に発砲すると、彫像が撃ち返すという信じがたいギャグがある。
 一方、グルーチョもエクセントリックなダンスを踊りまくる。パリのシュールリアリストが熱狂したというのは、この映画あたりであろう。
 グルーチョ、ハーポ、チコがもっとも生き生きした作品で、『ココナッツ』とこれによって、彼らの舞台の凄まじさがうかがえる。
 これらはアメリカ独自の芸というより、ヨーロッパの道化芸の伝統がブロドウェイで育ったとみるべきであろう”。
 『けだもの組合』は1974年に再公開されてマルクス兄弟ブームの決定打となりました。小林信彦は兄弟の映画はパラマウント作品5本立てで観るのが望ましいと主張しています。その5本とは毎年1本ずつ製作された『ココナッツ』(1929)・『けだもの組合』(1930)・『いんちき商売』(1931)・『御冗談でショ』(1932)・『我輩はカモである』(1933)です。マルクス・ブラザーズBOXとしてDVD3本がセットされました。次は、BOX2として『ココナッツ』『いんちき商売』『オペラは踊る』をセットして欲しいですね。
2003年12月28日
DVD
リア王

ロシア
1971年

132分
 コージンツェフ監督の遺作で、映画『ハムレット』とともに傑作として名高い作品。ビデオも無いため、見ることができなかったが、アイ・ヴィー・シー社から2003年に『ハムレット』に次いで『リア王』も発売された。
 両作品とも白黒作品であり、映画的な傑作である。音楽はともにショスタコーヴィッチが作曲している。
 この作品の紹介は《シェイクスピアの劇と映画/『リア王』》という別のページに書いたので、そちらを参照して下さい。
2003年12月17日

ビデオ

モース警部シリーズ vol.3
死者たちの礼拝


英国
1986年

103分
 コリン・デクスター原作モース警部シリーズ第3話『死者たちの礼拝』。
 脚本ジュリアン・ミッチェル、監督ピーター・ハモンド、撮影クライヴ・ティックナー。
 原作を読んだのにすっかり内容を忘れていました。いやはや。
 礼拝の直後に教会で殺人が起こる。十字架で刺殺されていた。参列者に確認してもらったところ、被害者は教区委員のハリーという男だと言う。ハリーは教会の募金に手をつけたり、競馬ですったりしていたが、神父をゆすっていた形跡もある。すると怪しいのは神父だということになってしまう。検死の結果、被害者は刺殺される前にモルヒネを飲まされて死んでいたことが分かる。礼拝で聖杯にモルヒネが仕込まれていたとすると、奇妙なのは、いつも最後に飲む神父が死ななかったことである。
 モースは礼拝の後で姿を消した浮浪者が神父の弟だと知る。弟も神父にたかっていた形跡がある。そうすると、殺人者は神父なのか。
 少年に対する神父の強い関心も気になる。神父には少年愛の性癖があるのだろうか。
 重要参考人として神父に出頭を求めると、神父は教会の尖塔の上から身を投げて自殺してしまった。そしてその後、礼拝に参加していた人々が次々に殺されていく。
 いったい誰が何のために殺人を犯しているのだろうjか。
 犯人らしき男は途中で出現するが、私たちにもこの男の正体は分からない。なぜ分からないのか、その正体は最後に明かされる。
 モースが礼拝に参加した女性に惚れる一篇でした。
 礼拝のことを英語ではServiceというのですね。

2003年12月〜2004年3月に見た日本映画 (邦画)
見た日と場所 作  品        感  想     (池田博明)
2004年2月27日

NHK総合
よみがえれ教室

50分
2004年
 神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校の授業の記録(NHKスペシャル)。構成・増田秀樹。
 5年前に新しい教育のパイロット校として設立された浜之郷小学校の初代校長・大瀬俊昭氏と教師たちの試み。不登校児が無くなったこの小学校のいちばんの中心は授業。教室と廊下をさえぎる壁が無く、教師の授業は誰でも見ることができる。当初、校長は年間150日の公開授業を提案したという。しかし、教師の反対が強い。まず第一に校長は、教師の授業にかける時間が勤務時間の3割だったのを、会議・雑務の時間を減らし、6割に替えた。そして、ひとりひとりの子供の「つぶやきをつなげて作る授業」や、子供に「自信と安心をもたらす授業」を工夫していった。校長自らも末期ガンで点滴で延命している自分自身の身体を教材に「いのちの授業」を行っていたが、年末に亡くなった。学力向上を目指すというより、生徒を生かす授業をという浜之郷小学校には全国から教師たちが見学に訪れているという。
 公開授業では子供を生かす授業になっているかどうかが徹底的に検討され、批判される。知識を与えて借り物の言葉で話す生徒を作り出す授業ではダメだ、自分の頭で考えてつぶやきでも生かそうとする授業を作ろうとする教師たちの試みは、なまものから学ぶことの多い高校生物の授業でも同じだと感じた。
 三学期の授業に向けて「死を意識したとき、どう生きるかが初めて出て来る」と抱負を語っていた大瀬校長の最期の言葉が印象的。
2004年2月25日

DVD
冬の日

IMAGICAエンタテインメント
105分
2003年
 芭蕉の連句「冬の日」をもとにした連作アニメーションで内外のアニメーション作家が競演している。俳句の短い言葉から連想されるイメージを再構成して短篇アニメーションにしている(第一部は45分程度)。絵解きになってはつまらないし、かと言ってもとの句と無関係では、独りよがりである。なかなか難しい世界である。35人の36作品が終わった後で各作家が創造の秘密を語ってくれる映像が続いている。
 それぞれの作品は興味深いものだったが、観る人の好き好きですね。私にはノルシュテインの発句が良かった。作家たちのなかでは、久里洋二が「(句の内容が)古臭くって困った」と語っているのが爆笑もの。彼が一人で作成したアニメーションは俳句の世界とは無縁の奇妙な出来である。
2004年1月30日

DVD
座頭市凶状旅

大映

1963年
 脚本・星川清司、監督は第3作に続いて田中徳三、撮影・牧浦地志、美術・太田誠一。座頭市シリーズ第四作。公開当時の併映作品は『続・忍びの者』でした。
 賞金目当てに斬りかかった若者を斬り捨てた市は、その若者の母おさき(村瀬幸子)に詫びを入れ十両を届けます。おさきが乳をふくませた佐吉はいまや下仁田一家の二代目でした。しかし、生来の気の弱さに矢切の十九郎(安倍徹)につけこまれます。
 やくざ渡世の争いが、おさきと、捨て子にもかかわらず、元貸し元の島造に育てられたおのぶ(高田美和)の視点から否定的に描かれます。居合の名人の浪人(北条寿太郎)と一緒に旅をしている女は市の初恋のひと・おたね(万里昌代)でした。
 最後には市を厄介者扱いして襲撃する近在の親分衆をすべて斬ります。そして、斬り合いを止めようとするおたねを斬った浪人と決闘となる市。別れの言葉で、おさきは市が息子だったらよかったと言います。市はおさきを一言「おっかさん」と呼びます。
 田舎中心のロケが美しい一篇。宮川一夫の助手だった牧浦カメラマンのスムーズな移動撮影が楽しめます。ほんの少し国定忠治(名和宏)も顔を見せますが、市とお互いに凶状持ちという会話をかわす程度。忠治役はこの後、『座頭市千両首』で島田正吾が名演します。

【参考書】『RESPECT田中徳三』(シネ・ヌーヴォ、2006)より、田中徳三いわく、
 “『座頭市凶状旅』ぐらいまでは、ヤクザもんは裏街道を、お天道さまの下は大きな顔して歩けねえ、そういう雰囲気がありましたが・・・・少しずつ勝ちゃんらしい工夫がね。例えば握り飯を、道端で座り込んで食べる。あの独特の食べ方をね、勝ちゃん考えてるんですよ。”
2004年1月12日・19日・26日・2月16日・2月23日

NTV
乱歩R
第1回「人間椅子」

第2回「吸血鬼」
第3回「復讐鬼」
第6回「陰獣」
第7回「地獄の道化師」
各45分
 一話完結の江戸川乱歩原作の映像化。第一話は、そのままでは時代錯誤な乱歩作品を新しい娯楽に仕立てた製作者の工夫が見ものでした。脚色・丸山智子、演出・福本義人。
 やや頼りない三代目の明智君(藤井隆)にヒントを与えるのが、年老いた小林少年(大滝秀治)という設定が可笑しい。三代目を蔭ながらフォローアップする探偵事務所の面々(岸部一徳、本上まなみ)のキャラクターも楽しい。事務所にコーヒーを呑みに来る刑事(筧利夫)も情報をもたらす。
 第一話はアパートの大家さん(根岸季衣。うまい!)が持ち込んだ店子の女性の行方不明事件と、金持ちの令嬢の失踪事件が、家具製作の町工場でひとつにつながっていきます。職人気質の工場長(武田鉄矢)が究極の家具・人間椅子を作っています。犯人は既に分っているので、謎解きで見せるわけにはいきません。そこでいろいろな展開の工夫で見せることになります。所長が購入してきたアンティークな椅子、好奇心いっぱいの大家さんの息子、隣室のマドンナ(乙葉)、きびしい工場主任など。
 第2話のゲストは菅野美穂。
 第2話は劇『吸血鬼』の主演女優にふりかかる呪いに秘められた謎。途中で本上まなみが「わたし、犯人わかっちゃぃました」と菅野美穂主演のテレビドラマ『ケイゾク』の決めゼリフを言う“遊び”や、ポーの振り子運動する斧や、『オペラの怪人』風な、仰々しい演出があります。演出家・加瀬大周、ライバル女優・菊池麻衣子などが出演。舞台や奈落、控え室といった大げさな道具立てが多くて、やや散漫な出来でした。
 第3話のゲストは仲間由貴恵。伊志田一家に一家皆殺しの予告が来る。「わたしの“家族”を救ってくれ」という依頼で明智は張り込むが・・・。途中で明智小五郎の血筋は三代目には母方を通じて流れているという説明がされます。主筋の展開は、時代がかかった設定で仰々しい。脚本・長川千佳子、演出・五木田亮一。
 第4話のゲストは松坂慶子の黒とかげ。見逃した。
 第6話のゲストは高橋恵子。脚色・長川千佳子・丸山智子、演出・福本義人。演出は第1回の福本義人で、ソフト・フォーカスを使い、雰囲気がよく出ていました。ポルノ映画がお茶の間に来たような感じでした。
 第7話は脚色が長谷川朝二・長川千佳子、演出・池添博。透(和泉元弥)と結婚目前の愛子に脅迫状が来ます。顔に痣のある姉の美禰子が最初に観覧車で犠牲になり、愛子の親しい人々が次々に道化師に殺されていく。ミラーハウスを使ったクライマックスがまずまず。
2004年1月12日

DVD
新・座頭市物語

大映
1963年
91分
 この第3作からカラー作品になりました。記念すべきカラーを任されたのは撮影・牧浦地志、美術・太田誠一といった大映の天才技術スタッフ。監督は田中徳三。脚本の犬塚稔・梅林貴久生も協力して、傑作が出来上がりました。伊福部昭の音楽も雄弁です。後に勝新の天才的な傑作『顔役』も撮影することになる牧浦地志のカメラワークは絶品。隠れた名作。
 本作で座頭市が活躍する舞台は故郷・笠間に近い宿場町・鬼怒川。市に関係する人物は、市の剣の師匠で浪人ながら道場を経営する伴野弥十郎(河津清三郎。東宝から)とその妹・弥生(坪内ミキ子)、前作『続・座頭市物語』で兄貴分を市に斬られて市を仇と追う島吉(須賀不二男)と馬造(中村豊)、水戸天狗党の残党で弥十郎の旧知・奥村紀之助(丹羽又三郎)、市の幼な馴染み為吉とその妻おきね(真城千都世)、旅籠・油屋の女将お新(近藤美恵子)とその亭主(遠藤辰雄、のちに太津朗)。
 冒頭の伊達三郎らの三人やくざが宿場に入る後ろ姿から、市を発見するまでの流麗なカメラワークに乗せられ、たった数日間の物語が説得力あふれる形で進んでいきます。市が感覚を総動員して生きていく様子を要所要所に見せ場を作って描出した傑作です。貧乏宿の大部屋で、市が為吉の三味線を借りて、つまびきながら唄うブルースも聴けます。物語は平岡正明『座頭市・勝新太郎全体論』(河出書房新社)で詳しく解説されています(ただし、最後の人質交換場面の説明は、かなり間違っています)。特に印象深いのは、弥生に求婚された市が自分の過去を告白する場面と、その場に侵入してきた島吉との勝負の場面です。
 また、師匠が市に居合斬りを披露させる見せ場を作ったのも、隠された理由があってのことだったという脚本もよく出来ています。本作における犬塚稔の脚本は秀逸。骨子は後にTV版『新・座頭市』で丹波哲郎をゲストに再映画化されています。

【参考書】『RESPECT田中徳三』(シネ・ヌーヴォ、2006)より、田中徳三いわく、
 “会社から脚本の段階でクレームが来たんですよ。「これから売り出す清純な坪内ミキ子が、足の不自由な役とは何事か。五体満足な娘に直せ!と言うんですよ(笑)。これには、私も大塚さんも憤慨してね。これじゃ、テーマが違っちゃうんですよ。情感みたいなものがね。
 例えばね、シナリオで二人のラブシーンというか、話し合うところでね、坪内さんが《私を市さんのおかみさんにしてもらえないかしら。市さんには、私のこの醜いびっこがみえないし。これさえがまんしてもらえば、いいおかみさんになれそう》っていうような。いいでしょ、これ。片方は目が不自由で、片っ方は足が不自由。そういうお互いの傷を舐めあうようなね、そういう情感のあるシーンだったんですよ。
 僕は脚本を読んだとき、このシーンでね、「あ、これがあればいける!」と。
 それがもう、普通の男女の話になちゃったんですね。だからもうねえ、情けのうてねぇ、やってて(笑)。全体を通じて情感みたいなものがね、なんにもなくなっちゃった。そういう関係ある台詞はカットして、密度っていうか濃さがね、変わった作品でした。
 坪内ミキ子さんってのは、坪内逍遥さんのお孫さんでね、会社としては、大事にしたかったと。ほんなら最初からこんな役に使うなってね(笑)”
2003年12月27日

DVD
天保12年のシェイクスピア

2002年4月

東京公演
 映画でなくて御免なさい。舞台を収録したDVDです。
 書下ろし新潮劇場で30年前に発刊された井上ひさしの壮大な失敗作です。シェイクスピアの劇全作品をひとつに詰め込んだもので、中にはセリフひとつしか出て来ない劇もあります。1974年の初演以来いちども上演されないどころか、新潮社の本でさえ稀少価値で、入手するのが大変でした。しかし、この大作に思い入れていた人もいるようで、化粧直しをして上演される運びとなったのです。キャストも上川隆也、熊谷真美、沢口靖子となかなか豪華です。中心になって登場する劇は、『リア王』『リチャード三世』『マクベス』『オセロ』『ハムレット』など。
 この劇のことは《シェイクスピアの劇と映画/『リア王』》という別のページに書いたので、そちらを参照して下さい。 
2003年12月20日

舞台
紙屋町さくらホテル

3時間

紀伊国屋ホール
 井上ひさしの戯曲、こまつ座第71回公演。明日が最終日ですが、その前日の午後の部を家族で見に出かけました。演出は鵜山仁。
 1997年10月、渡辺浩子演出の新国立劇場こけら落とし公演(中劇場PLAYHOUSEにて)はテレビ放送され、神宮淳子役(設定は37歳)を森光子が演じていました。長谷川清役は大滝秀治、以下、針生武夫役は小野武彦、丸山定夫役は辻萬長、園井恵子役は三田和代、熊田正子役は梅沢昌代、大島輝彦役は井川比佐志、戸倉八郎役は松本きょうじでした。浦沢玲子役は今回同様の作曲家・深沢舞。
 原子爆弾に見舞われる直前の広島。死の予感におののく女優。アメリカ生れの日系二世であるがゆえに疎外される女主人。天皇を含め軍の戦争責任を問う姿勢を縦軸に、理想を掲げて闘った先駆者・築地小劇場のリーダーたちの演技論を横軸に、舞台は展開していきます。園井恵子は稲垣浩監督の名作映画『無法松の一生』(坂東妻三郎が主演)の主役ですから、移動演劇集団「さくら隊」でも『無法松の一生』をダイジェエスト上演することになります。演じるには登場人物の解釈が重要ですが、熊田正子の吉岡未亡人ボケタレ論は笑えます。時局が本土決戦直前で戦争一色となるなかで、役者の存在意義、演劇や演技とはいったい何なのかという問題を堂々と論じた作品です。
 今回は役者が一段と若返り、それが期待の公演でした。前回の公演をテレビで見ていたのですが、こまかい内容を覚えておらず、新鮮に見ることができました。第一幕の役者たちのアンサンブルは大変素晴らしく、土居裕子(神宮)、森奈みはる(園井)、深澤舞(浦沢)などの歌やピアノなどの音楽も見事でした。栗田桃子(熊田正子)、大原康裕(戸倉)、河野洋一郎(針生)、辻萬長(長谷川)、木場勝巳(丸山)の声も役に合っていました。
 第二幕の終盤は長ゼリフが多く、劇の核心を成すとても大事なことを言っているのですが、ストレートすぎて、演説になってしまっています。特に久保酎吉(言語学者の大島役)の教え子が戦死したときの話はひと工夫欲しいところです。

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