映画 日記   2001年3月28日から         池田 博明 



2003年に見た 外 国 映 画 (洋画)
日時    作品      感想    (池田博明)
2003年2月28日

BS2
ベラクルス
(ヴェラクルス)

1954年
USA
 NHK・BS2で16:25から94分間放映されました。アルドリッチ製作・監督作品。
 時間をミスして録画し損なってしまいましたが、放送された記録として書いておきます。ずっと昔にTV放送されたときと、USA製のビデオは見ていますが、日本語字幕の入った記録が欲しいものです。まだDVD化されていないので、放映をきっかけに発売されることを期待しています。
 この作品は製作・主演したバート・ランカスターを一躍有名にしました。増渕健氏の名著『西部劇』(三一新書)でも高く評価されています。
2003年2月21日

ビデオ
ハリーとトント

USA
1974年
 『リア王』を下敷きにしているという紹介を目にしたことがあり、気になっていたポール・マザースキー監督・脚本作品。ハリー役のアート・カーニーがアカデミー主演男優賞受賞。ピーター・イェーツ監督の『ドレッサー』と共に中古ビデオを発見・入手できました。
 ハリー・クームズは72歳の元国語教師。トントは彼の飼い猫。ニューヨーク市のアパートから強制的な立ち退きを迫られる。椅子ごと階下まで連れ出されたハリーは『リア王』の嵐の場面を独白し、「家を追い出された老人はリアだ」と言いつつ、長男バート(フィル ・ブランズ)の家へ身を寄せます。嫁のエレン(ドリー・ジョナー)と、ときどき衝突します。次男のエディ(ラリー・ハグマン)は無言の行を行い、自然食品だけを食している青年。長男にはバカにされています。
 ハリーはシカゴに住む娘シャーリーの元へ行くことにします。しかし、空港の手荷物検査でトントの入ったカゴを係官に渡すことを拒否して、バスに乗ります。
 途中でトントに尿をさせようとバスを一時停止させますが、トントは雲隠れしてしまい、とうとうバスは先へ行ってしまいます。そこで、ハリーは中古車店へ行き、車を買ってシカゴへと向かうことになります。
 途中、家出娘ジンジャー(メラニー ・メイロン)を乗せたり、彼女の薦めで、昔の恋人ジャージー(ジェラルディン・フィッツジェラルド)がいる老人ホームに寄ったりします。ジャージーはウーマン・リヴの先駆けで、イサドラ・ダンカンとパリで踊ったという過去がありますが、もう呆けていてハリーを「アレックス」と呼び違えます。けれども、「踊りましょう」と彼を誘い、二人は情愛あふれるダンスをします。やがてジャージーはハリーに体を寄せて昔を懐かしむようにゆっくり踊ります。ここは本当にホロリとさせられる場面です。
 シカゴでは娘のシャーリー(エレン・バーンスティン)が小さな書店を経営しています。書店にはエディが来ていて、ここではエディは無言の行を行ってはいなくて、普通に話します。娘は父親を愛してはいますが、一緒に暮らせるような状況ではありません。娘「シェイクスピアを引用するのは止めて」、父「最高の作家だぞ」という会話があります。
 ハリーは家出娘ジンジャーとエディに車を与え、コロラドのコミューンへと旅立たせます。ハリーはヒッチハイク の旅。途中、ラスベガスでは立ち小便をして留置場に入れられます。出会ったインディアンの酋長に肩を治療してもらいます。
 末息子ルロイ(エイヴォ ン・ロング)の住むロスに到着。ルロイは破産状態。トントは老衰からか死亡してしまいます。
 ラストは西海岸でハリーが公園のベンチでくつろいでいると、ネコ好きの老婦人(サリー・K・マール)から一緒に暮らさないかと口説かれます。トントにそっくりのネコを追って海岸に向ったハリーは砂遊びをする子供と笑顔を交わします。
 トントを担当したアニマル・トレーナーは ルー・アンド・ベティ・シューマッハー。
 製作・監督・脚本ポール・マザースキー、脚本ジョシュ・ グリーンフェルド
 撮影マイケル・バトラー、音楽=ビル・コンティ
 老齢の父親が子供のもとを巡るという設定は『リア王』ですが、シェイクスピアの影は若干引用される程度といえましょう。
2003年2月16日

DVD
エトワール

フランス
2000年
 パリ・オペラ座バレエ団のドキュメンタリー。この作品のニルス・タベルニエ監督は劇映画のベルトラン・タヴェルニエ監督の息子。
 1999年の日本公演(ベジャール振付,第九交響曲)で幕を開けます。モダンからクラシックまで幅広いレパートリーを手がけ、年間90%の入りだという驚異的な成功を可能にしているのは、勝った者だけが残れる専属のバレエ学校と、実力主義の階級社会。
 小さい頃から、ダンサーは徹底的な自己管理が要求されます。仲間はライバルですから気を許すわけにはいきません。最高位のエトワール(星)になっても、同じ踊りを繰り返せば悩み、肉体の衰えと反比例して深まる解釈とのギャップに悩みます。体が資本のきびしい世界で生きていく人々が描かれます。
2003年2月12日

ビデオ
リスボン特急

フランス
1972年
 公開当時に一度だけ見た記憶があります。メルヴィル監督の遺作。
 原題は「刑事 (UN FLIC)」。淡々とした描写でメルヴィル・タッチが味わえますが、アラン・ドロンが中心にいて、話にふくらみがないのが欠点。
 海辺の荒磯の近くの銀行に閉店間際、四人組の襲撃犯が入る。盗った金を埋めて、銀行員に撃たれた一人を病院にかつぎこむ犯人たち。首謀者はキャバレー店の経営者シモン(リチャード・クレンナ)。仲間は、もと部長で今は失職中のポール(リカルド・クッチョーラ)、無職のルイ(マイケル・コンラッド)。シオンの情婦カティ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は看護婦に化けて、重傷のマイクを注射で殺したが、警部(ドロン)の捜査は少しずつ核心に迫っていく。
 リスボン特急のヤクの運び屋から、トランク一杯のヤクをヘリコプターを使った計画で盗み取ったまでは良かったが・・・。ほとんど台詞が無い。
 事件が解決してもちっともカタルシスがないのが特徴。
 再見して映画のテーマは「裏切り」だと気が付きました。傷ついた仲間は仲間から裏切られて薬殺される、密告屋の女は警部から「ニセ情報を流した」(つまり裏切った)と誤解される、ルイは仲間のことを自白する、女カティは警部に気があるような素振りを見せるが実際にはシモンのために働いている、信頼できる仲間は警察側にもギャング側にもいなくなってしまっている。《男の友情》や《仁義》が既に死語になってしまっている世界が描かれ、ラスト・シーンでただ前を見つめているアラン・ドロンの表情がひたすら空しいのもそのせいでしょう。70年代という時代のせいかもしれないと思いました。

【追記】2009年12月12日、古山敏幸『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』(フィルムアート社、2009年11月)という力作に、冒頭に出るテロップ「人々が刑事に対して抱く感情は、疑いと嘲りだ」というヴィドックの言葉が、DVDの日本語字幕では「警官が人に対して持つ感情は、二つしかない。疑いと嘲りだ」と誤訳されているという指摘がある。主語がまるで反対だ。ヴィドックはジャン・バルジャンのモデルとなった犯罪者であり、密告者であり、捜査官でもあった。
 古山さんは70年代にキネマ旬報の読者の映画評の常連だった。懐かしい。 
2003年2月11日

ビデオ
探偵スルース

UK
1972年
 『アマデウス』の原作者ピーター・シェイファーの名前から、そういえば『探偵スルース』も、もとはシェイファーの劇作だったなと思いだしました。しかし、こちらはアンソニー・シェイファー(原作・脚色)でした。マンキウィッツ監督、ジョン・アディスン音楽。139分。
 ミステリー作家アンドルー・ワイク(オリヴィエ)は妻の不倫の相手、美容師のマイロ・ティンドル(ケイン)を自宅に招待し、宝石の窃盗を持ちかけます。自宅には作家の趣味のたくさんの自動人形があります。侵入した泥棒を撃ち殺したという作家のシナリオ通りに事が運んだように見えましたが・・・・。
 ローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインの二人の演技合戦でじゅうぶんに面白い作品になっています。レンタル落ちの中古ビデオですが、新品同様でした。それだけ借りた人も少ないということでしょうか。
2003年2月8日


DVD
アマデウス
ディレクターズ・カット

USA
2002年
(1984年)
 上映時間は3時間もあるのに、続けて二度も見てしまいました。最初はディレクターズ・カットをそのまま。二度目はミロシュ・フォアマン監督と原作・脚色者のピーター・シェイファーの音声解説付きで。
 特典付録のメイキングも興味深く、ミロシュ監督は役者を選んだ段階で成功か失敗かはもう決まっていると言っていました。主要な役はほとんど無名の人々をオーディションで徹底的に選びました。サリエリ役のエイブラハムは最初、劇場監督の役に予定されていた由。コンスタンツェ役のエリザベス・ベリッジ(当時20歳)は、当初予定されていたメグ・ティリーが撮影直前に子供達とのサッカーで靭帯を切ったために急きょ選ばれたそうです。共産政権下のチェコでの撮影は待ったなしの状態だったと言います。最後に残った二人に選ばれた後も、ベリッジは自分が選ばれることはありえないと信じていて、もう一人に対する別れの言葉を用意していたそうです。ミロシュから「コンスタンツェはきれいじゃないから、君に決定したよ」と言われて、喜んでいいのか戸惑いましたとベリッジは語っていました。
 ディレクターズ・カットで主に付加された部分はコンスタンツェがサリエリに夫を皇帝の姪の音楽教師に取り立てて欲しいと依頼したときに、サリエリが「依頼を受けてもよいが、条件がある。今夜来なさい」と誘う場面と、それに応じてサリエリを訊ねて来てコンスタンツェが上着を脱ぐと、サリエリは鈴を鳴らして召使を呼び、裸の彼女を見せて辱めを与える場面(サリエリは神に誓ったので女は抱かない)、それに続いて帰宅したモーツアルトが泣いているコンスタンツェに抱きしめられる場面でした。これらの場面は、最後にモーツアルトのレクイエムを書き取るために部屋に居たサリエリを断るコンスタンツェの台詞、「お帰り下さい。呼べる召使はいませんけれど」の伏線になっていました。
 最初の公開当時、大劇場で見て音楽に圧倒された記憶があります。モーツアルトのオペラに親しんだいま見返しますと、『後宮からの誘拐』を始めとしてオペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』が物語のいちばん重要な骨格を作っているのが理解できます。シカネーダー一座の馬鹿騒ぎの舞台も一興です。
 ミロシュ・フォアマンとシェイファーは脚本を検討した6ケ月間、かなり衝突を繰り返したようです。ミロシュは「劇は様式化されているが、映画の台詞は平凡でなければならない」と言っていたそうです。この台詞はシェイクスピア劇を映画化する人々にも聞かせたいものです。
 脚本の二人の意見では主役はモーツアルト。それ以上の主役はモーツアルトの音楽そのもの。音楽監修・指揮のネヴィル・マリナーはコンサート指揮者が百年かかってやり遂げられなかったこと、若者をコンサートに魅きつけることを、この映画一作でやり遂げてしまったと言っていました。
2003年1月30日

NHK・BS2
博士の異常な愛情

USA
1963年
 スタンリー・キューブリック製作・脚本・監督の軍拡競争を批判した映画です。白黒作品。ピーター・セラーズが三役(英国将校・合衆国大統領・ストレンジラブ博士)を演じ、それぞれイギリス系・アメリカ系・ドイツ系の英語を使いわけますが、ぼんやりしていると同一人物と思えないほど。
 ジャック・D・リッパー将軍(切り裂きジャック将軍。俳優はスターリング・ヘイドン)が、共産主義者が水にフッ素を混入させ、体液を侵食してきたという妄想にかられて、ソ連に対するR作戦(水爆投下作戦)を命令する(R作戦は報復作戦なので、大統領でなく、下級将校でも命令可能な権限を持っていた)。ところが、ソ連は対抗措置として「皆殺し作戦」を準備していた。この作戦は攻撃されると自動的に開始するのが特徴で、誰にも止めることができないという。シンプルでオートマティックでクールな作戦こそ、ベストである。それが米ソの軍拡理論家の到達した目標であった。世界は破滅に向って一歩一歩進んでいく。テンガロン・ハットをかぶった戦闘機の機長コング少佐はスリム・ピケンズで、核爆弾に馬乗りになったまま投下されていく。
 東西の冷戦構造で緊張が高まっていた時期に、この映画は作られたわけですが、現在の世界情勢の中で見ると、奇妙にリアリスティックです。ブッシュ大統領が率いるUSAと、イラクのフセイン大統領やアルカイダの勢力との一触即発の状況は「やられる前にやり返す」方式である点では、この映画に描かれた軍拡競争と同様です。また、USAの北朝鮮の核攻撃に対する作戦5027もまるでこの映画の設定と同様です。
 たった1時間半で戦争の狂気を描ききった、まさに先見的な傑作。
 当初予定のエンディングは11分にも及ぶパイ投げ合戦でしたが、撮影されたものの結局使用されませんでした。理由は出演者が「パイ合戦ではみんな笑っている。・・・大真面目であるべきだったんだ。・・・喜劇的な場面だが、映画のほかの部分はみんなストレートに演じられているんだ」(脚本にも参加したテリー・サザーンが語る)。
 この映画に関する一級の参考資料は、ディヴィッド・ヒューズ『キューブリック全書』(フィルムアート社。2001年,原書は2000年)です。
2003年1月25日

NHK教育TV
世界名画劇場
グッドモーニング・ベトナム

USA
1988年
 ロビン・ウィリアムズ主演、バリー・レビンソン監督。サイゴンでラジオ放送のDJを担当することになったエイドリアン・クラカウアー(ロビン)は、前線を茶化したり、ロックンロールをかけたりと、上司ににらまれる放送をしますが、前線の兵士たちには大人気。町で見かけたベトナムの少女に恋をしますが、いわば敵味方の関係ですから、うまく運ぶはずがありません。少女の兄を偏見に固まった米軍人から助けたり、反対にベトコンの森から助けてもらったり・・・。
 ベトナム戦争が泥沼化する直前の時代からの、米兵とベトナム人との交流が描かれます。しかし、時代はどんどん悪くなっていくのですが。
 見始めたら、ロビン・ウィリアムズのお喋りの勢いに乗せられて、目が離せなくなってしまいました。120分。
2003年1月21日

衛星2
暗闇でドッキリ

UK
1964年
 ピーター・セラーズ主演・ブレーク・エドワーズ制作・監督のクルーゾー警部シリーズをNHK衛星2で一挙放映しました。20日『ピンクの豹』から始まって、『暗闇でドッキリ』『ピンク・パンサー』(2〜4)、セラーズ亡き後のアラン・アーキン主演のピンク・パンサーも放映されました。最後はキューブリック監督の『博士の異常な愛情』(これは、クルーゾー警部ものではありません)。
 そのなかで一番期待して見たのがこの『暗闇でドッキリ』です。昔、石上三登志氏が本格謎とき映画のパロディとして高く評価していたからです(『男たちのための寓話』)。森卓也のオールタイム・コメディ・ベスト50でも選ばれています。撮影クリストファー・チャリス、音楽ヘンリー・マンシーニ、原作劇マルセル・アシャール、舞台ハーリー・カーニッツ、脚色ブレイク・エドワーズとウィリアム・ピーター・ブラッティ。
 クルーゾー警部は自分の担当する事件が単純ではありえないという確信を持ち、大富豪バロン氏の邸宅で起こった、女中マリア(エルケ・ソマー)が恋人の運転手を射殺した事件の捜査を誤った方向に進めてしまい、とうとう事件が別の殺人事件を誘発して、釈放されたマリアの行くところ行くところに死体が出現。クルーゾーの推理はまるで的を得ていないのに、最後にはみごとな、しかし、まるで違う解決に至ってしまうという物語です。理想的探偵の前には理想的事件が現れなくてはならないという本格謎ときミステリーの約束ごとを笑いのめした作品。隠れた殺人犯は、クルーゾーの命を狙うドレフュス署長(ハーバート・ロム)。 
2003年1月17日

ビデオ
オーロラの彼方へ

USA
New Line Cinema
2000年
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』以降、過去を改変することで、現在を変える「リプレイ」ものが可能になりました。しかし、「あり得たかもしれない、もうひとつの別の人生」を生きるという事は、必ずしも幸せとはいえないかもしれません。大変な災禍をよび寄せてしまう可能性もあります。
 30年前1969年に火災現場で事故死したはずの消防士フランク・サリヴァン(デニス・クェイド)は、30年後1999年の息子ジョン(ジム・カヴィーセル)から来た通信情報によって、助かります。現在と30年前にニューヨークに下りたオーロラが作る電磁波が過去との交信を可能にしたのです。しかし、それは新たな災いを呼び寄せることとなってしまいます。今度は、母親(エリザベス・ミッチェル)が“ナイチンゲール”殺人鬼に殺されてしまう予定だということが分ります。殺人者は医療事故で死亡するはずでしたのに、生き延びた父親が仕事中の看護婦・母親に会いに行ったのがきっかけで、母親は患者(実は殺人鬼)を救ってしまったのでした。
 現在のジョンは殺人課の警官。捜査記録を調べて、犠牲予定者を知らせることで、30年前の父親に犯罪を未然に防ぎ、犯人を捕える手がかりを得てもらおうとします。しかし、犯罪現場に接近した父親が重要参考人になってしまいます。そして、殺人鬼はなんと警官のジャック・シェパード(ジョーン・ドイル)。父フランクは野球の試合結果を予測することで、刑事サッチ(アンドレ・ブローハー)に事態を信用させたものの、殺人鬼は刻々と接近してきます。しかも、危険なのは過去の父親のもとだけではありません。殺人鬼は未来の息子のところにまで忍び寄って来ます。
 果たして父と息子は殺人鬼から家族を守ることができるでしょうか。驚くべき結末が見られます。
 トビー・エメリッヒの脚本が秀逸。見事な職人技でまとめた監督はグレゴリー・ホブリット、撮影はアラン・キヴィロ。
 父親は大の野球ファンという設定です。また、息子を「チビ隊長」と呼んでいますが、これがキーワードになって、父親と息子の時空間を経た交信が信じられるものになります。
 「もし明日にも自分の人生が終わってしまうとしたら」、いま自分がやり残したことが見えてきます。例えば父親にとって、それは息子と過ごす時間が十分でなかったこと、そして自分が息子に対して厳しすぎたことでした。そこで、いわば生命を拾った父親は息子への自転車の乗り方指導を換えます。最初は自分でこげと突き放し気味の指導だったのですが、やり直しの生を受けてからは、お前がいいというまでしっかり支えてあげるぞという指導法に変わります。
 主役は家族を守る父親でした。親子の絆を再考させる作品です。
 製作ビル・カラーロ&トビー・エメリッヒ。制作統括ロバート・シャイエ&リチャード・サパースタイン。118分。
2003年1月6日

ビデオ
(CNS映画チャンネルで録画)
ビンゴ

USA
1999年
 名犬もの。サーカス犬だったビンゴは幼犬だった頃、火に巻かれたトラウマから火を恐がり、芸をさせようとしても無理がありました。追い出されたビンゴは川で溺れかけた少年チャッキーを助けたことから友情が芽生えます。しかし、少年の父親はプロのアメリカン・フットボールの選手、トレードされて移住せざるをえなくなります。犬を飼うのを許さない両親の車の後を必死に追うビンゴは途中で様様な冒険に出会います。
 弟をいじめる兄、フットボールしか頭にない父親、手前勝手なところのある母親、ドジな悪人ふたり組などアメリカン・ファミリー映画の定番といった人々が登場します。ノラ犬を捕獲しては料理してしまうバーガー屋さんが出てきてビックリ。
 制作トーマス・バイア、ジム・ストレイン脚本、マシュー・ロビンス監督。
2003年1月6日

ビデオ
ナインスゲート

USA
1999年
 ポランスキー監督、ジョニー・デップ主演。デップは高価な古本を言葉巧みに横取りする古書業界の嫌われ者。書誌学者ヴァルカンの依頼で『九つめの門』の現存する3冊の写本の異同を探索する仕事に付きます。この本、16世紀に火刑になったトルキアが悪魔の身代わりで書いたとされる代物。ところが、調査に動き始めた彼の周りで不可解な殺人事件が起こり、本の持ち主も次々に殺されていく羽目に。
 そのたびに、貴重な本も焼かれてしまい、版画だけが持ち去られます。しかも「LCF」(悪魔ルシファー)の署名入りの版画が、それぞれの本に分散されていました。それらの版画がそろったとき、悪魔の力がもたらされるようです。まるで、「ドラゴン・ボール」のようです。彼を助けてくれる正体不明の女が登場しますが、この女、どうやら悪魔の使い、つまり魔女であるらしいのですが。
 『ローズマリーの赤ちゃん』を作ったポランスキーらしい魔術ものサスペンス映画。ビブリオマニア(書誌狂)を描いた微笑ましい場面もありますが、黒魔術が物語の意匠以上のものになっていませんでした。 
2003年1月4日

DVD
王は踊る

ベルギー/仏/独
2000年
 後にフランスの“太陽”王といわれたルイ14世は5歳で即位しましたが、実質的には実権を母親と長老派に握られていました。若いルイは音楽とバレエと狩りに夢中になっていたのです。ルイに寵愛された音楽家がジャン・バプティスト・リュリでした。彼は生涯にわたって王のために3000もの曲を作りました。初めはルイ自身が踊るための音楽、踊れなくなってからはモリエールの劇音楽、そして最後には不本意ながらもオペラ。ルイは宰相の死をきっかけに直接、自分が統治する親政を始め、皇太后や長老派とことごとく反目します。
 イタリア生まれのリュリは歌中心のイタリア音楽を軽蔑し、踊り中心のフランス音楽にその才能を発揮します。王に依頼してフランスに帰化し、妻をめとりながらも男色の趣味をもち、王をプラトニックに愛し続けます。
 映画ではリュリのバロック音楽とその踊りが可能な限り再現されます。音楽監修はラインハルト・ゲーベル、「舞踏譜」をもとにした振付はベアトリス・マサンが担当。『仮面の中のアリア』『カストラート』のコルピオ監督作品。
 ルイのブルボン王朝だけではありませんが、専制国家の音楽や演劇が国や王の許可がなくては演奏も上演もできなかったこと、芸術は全身全霊をあげて王に奉仕するものだったことが描かれています。リュリのように特に個人的に王を寵愛している場合もあったでしょう。
 それにしても、晩年のリュリが本意を曲げて作曲したオペラのひたすら王を賛美する歌詞と音楽は空虚なものでした。音楽界ではルイ以上の専制君主として振舞ったリュリの音楽の空疎さがこの映画のいちばんの見どころと言えましょう。
2003年1月1日

ビデオ
(ミステリー・チャンネルから録画)
 
主任警部モース

英国
ゼニス・プロ

1988年

1995年〜1999年
 ミステリー・チャンネルで2002年10月4日から21:00〜22:45の時間枠で放送していたコリン・デクスター原作、英国ゼニス・プロの制作『主任警部モース』の一部(過去にNHK・BS2でも放映したシリーズ後半の6作品。11月〜12月13日)を見ることができました(次女が録画してくれたため。有り難いことです)。コリン・デクスターやピーター・ラヴゼイの英国ミステリーは私がもっとも好きな世界です。

  主人公モース(ジョン・ソウ:声・横内正)と部長刑事ルイス(ケヴィン・ウェイトリー:声・岩崎ひろし)のコンビの捜査が描かれます。普通の(主に中産階級からアッパー・ミドルクラス)のひとびとの間に起こる、複雑な人間関係や性関係、心理の綾が引き起こす事件をモースがパズルを解くようにひも解いていきます。ホームズが正義を建前として超然としているのに比べて、自分自身が組織のなかのアウトサイダーであるモースは犯罪者に同情や共感を寄せていることがよく分かります。現在の英国でモースがホームズ以上の人気がある理由はこの辺にあるのではないでしょうか(翻訳・平田勝茂)。

  第7話「ウッドストック行き最終バス」(制作ケニー・マクベイン、脚色マイケル・ウィルコック、監督ピーター・ダッフェル)。原作はモースものの第一作です。夫の教授昇進に懸命になる妻の姿が描かれ、多くの登場人物がきちんと描き分けられます。途中のBGMでモーツアルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」序曲が流れます。この曲の使用は《偽りの恋》の暗喩かもしれません。

  第29話「森を抜ける道」制作クリス・バート、制作統括テッド・チルス、脚色ラッセル・ルイス、監督ジョン・マッデン)。弦楽四重奏のコンサートの受付で中年の女性と知り合うモースから始まります。女だてらに剛腕のホブソン監察医(クレア・ホールマン:声・二木てるみ)が登場。ジョンソン警部の捜査で捕縛された連続殺人犯パーネルが収監者どうしの争いで殺された、彼は臨終に自分の罪とされていたカレン殺しを自分の犯行ではないと告白していた、ジョンソン警部の担当に割りこんでモースの捜査が始まります。カレンのバッグを拾った庭師が射殺死体で発見され、事件は新たな様相を見せて来ます。いったいカレン殺しの犯人は誰なのか、ルイスとモースが危機一髪の目にあう、どんでん返しが見事な一編。監督は『恋におちたシェイクスピア』のジョン・マッデン。

  第30話 「カインの娘たち」(制作・制作統括「森・・」と同じ、脚色ジュリアン・ミッチェル、監督ハーバート・ワイズ)。乱暴な夫に従順な妻、脳腫瘍をもつ女性中学教師、教師が教えている「マクベス」の台詞が効果的に引用されます。女性たち(ガブリエレ・ロイド、フィリス・ローガン、アマンダ・ライアン)の演技合戦の趣きがあります。BGMとして歌劇「椿姫」第3幕の前奏曲(女主人公の死を暗示する)が流れます。

  第31話「死はわが隣人」(脚色ジュリアン・ミッチェル、制作クリス・バート、制作統括テッド・チルス&レベッカ・イートン、監督チャールズ・ビーソン)。コッテージで女性が射殺された、事件の背後には学寮長選挙が関係しているらしい。物語と直接の関係はありませんが、音楽教師アデルの生徒として、モーツアルトの歌劇『フィガロの結婚』のケルビーノのアリア「自分で自分がわからない」を練習する娘が登場します。ルイスが携帯電話を使うようになっています。現学寮長役でリチャード・ブライヤーズが出演。

  第32話「オックスフォード運河の殺人」(制作統括テッド&レベッカ、脚色マルコム・ブラッドベリー、監督ロバート・ナイツ)。冒頭で吐血して失神するモース。前回の事件で知り合った音楽教師アデルがモースの女房役となり面倒をみます。入院中にビクトリア朝時代(1859年)の最後の公開処刑となったオックスフォード運河殺人事件を安楽椅子探偵するモース。夫婦共謀の保険金詐欺だったというのがモースの結論でした。ルイスが登場しない回です。モースが部屋で聞くのがモーツアルトの「クラリネット協奏曲」。

  第33話「悔恨の日」(最終回。制作や制作統括は前回と同じ、脚色スティーヴン・チャーチェット、監督ジャック・ゴールド)。病院の中年看護婦イヴォンヌが殺され、その事件はモースの担当だったが迷宮入り。しかし、新しい投書から事件の再捜査が始まります。前回の発作から一年半後、退職2ケ月前のモースが事件を捜査します。犯人は途中で分ってしまいますが、家族の意外な関係が明らかになります。最後に心臓の発作でとうとうモースは死んでしまいます(モース役のジョン・ソウも2002年2月に食道ガンで亡くなっています)。隠退同然のモースの部屋にはヴェルディの歌劇のポスターが張られ、「ワーグナーには人生のすべてがある」とモースは発言します。ルイスがカー・ラジオでワーグナーの楽劇『パルシファル』を聞くようになります。重要人物である病院長が聖歌隊でソロを歌うフォーレの『レクィエム』の練習場面も出てきます。
主任警部モース データ 
海外ドラマ情報
→ http://www.geocities.co.jp/Hollywood/4103/eplib1/im_ep.htm

2003年に見た 日 本 映 画 (邦画)
見た日と場所 作  品        感  想     (池田博明)
2003年
3月1日
テレビ朝日

21:00〜22:45
リカ

土曜ワイド劇場
 土曜ワイド劇場25周年記念作品。第2回ホラー・サスペンス大賞受賞作品、五十嵐力原作、佐伯俊道脚本。松田秀知演出。
 本間(阿部寛)は、大手印刷会社の部長で、妻(奥貫薫)と娘あやと普通に生活していましたが、ちょっとした遊び心でインターネットの出会い系サイトで知ったリカ (浅野ゆう子)に連絡を取り、デートをすることになります。「ウィーンの森でワルツを踊りませんか」というリカの誘いはかなり魅力的だったのです。
 ところが、デートの途中に急な会議で呼び出され、リカをすっぽかす羽目になってしまいます。翌日からリカの抗議の電話とメールの攻勢が始まりました。リカは異常人格者だったのです。被害を打ち明けた探偵の旧友・原田(佐野史郎)の調査で、二年前の外科医バラバラ事件の関係者のナースが彼女だったということが分ります。家を見張ってくれたはずの原田もバラバラにされて殺されます。
 なんと、彼女は自宅のマンションの冷蔵庫に医師の首を保管していました。次第に家族にも危険が迫って来ます。それからは、映画『黒い家』のような展開になります。浅野ゆう子演ずるリカは、まるでターミネーターのような不死身さで、男を追い詰めます。
 自己中心的な愛しか見えない女のドラマでした。強い照明や美術は効果的ですが・・・ストーカーの被害者が、妻や周囲の人に事情を話さず、助けを求めないのが不自然だと思います。危険が及ぶ可能性があるのですから。主人公の二人以外の人間の状況がほとんど描かれないのも不満でした。捜査にあたる警部役に大杉漣。
2003年
2月28日

ビデオ
剣鬼

1965年
大映
 中古ビデオを入手しました。いまから30年前に池袋の文芸座の深夜特集・市川雷蔵で初めて見て驚嘆した記憶がある三隅研次監督作品。
 狂った奥方に最後まで仕えた百姓上がりの中廊と、奥方の愛犬(ぶち犬)の間に生まれたという噂の子供・斑平(市川雷蔵)という主人公の設定が奇怪です。原作は柴田錬三郎、脚本は後に直木賞を受賞した星川清司。撮影は鬼才・牧浦地志、音楽は鏑木創。
 斑平は犬っ子と蔑まれています。独特の嗅覚で良い土を選び、花作りに腕をふるい、城内の花作りを任されますが、狂女の奥方から生まれた藩主(戸浦六宏)は癇が強く、乱心気味。
 養父の遺言で他人に負けない技術を身につけたいと思っている斑平はある日、浪人者の見事な居合を見て教えを請います。しかし、この侍(内田朝雄)は居合は教えられるものではない、見て会得するしかないと言います。必死に見つめる斑平の気合を見て取った侍は、斑平に自分の剣を贈り、去っていきました。
 一方、藩は狂人同様の藩主の病状を隠して支えるか、養子を主君に迎えるかで二つに割れます。小姓頭・神部菊馬(佐藤慶)は家老の命もあり藩主派。藩主の乱心を探る公儀隠密を斬る役目を斑平に依頼します。斑平は馬より早く走ることができます!
 二人目の公儀お庭番を一刀のもとに斬ると、なんとそれは自分に居合を見せてくれた侍・醍醐弥一郎でした。「見事だ」と侍は息絶えますが、斑平は剣を折ります。
 人斬り斑平の噂が広まります。無足仲間の嫉妬や中傷はひどくなり、とうとう斑平は再び剣を選ぶことになります。滝の裏の怨霊の館に奉られている妖剣の中から斑平が選んだ剣は、伊勢神宮から大盗賊が盗んだという“あざ丸”でした。剣の来歴を話す神部に、斑平は「剣が勝つか、自分が勝つか」を賭けてみると言います。
 藩主の狂気がひどくなり、お上に訴えるしかないと判断した侍たちは、脱藩して公儀に訴えようとしますが、ことごとく斑平に斬られてしまいます。斑平は“透明な、無心の”暗殺者になってしまいます。
 五月の節句の日、お城でお祝いが行われているときも、藩境で斑平は脱藩する仲間たちを斬っていました。しかし、複数に分かれていたため、一部を斬り損なってしまったようです。そのとき、神部が駆けつけて来て、「乱心のあまり、殿が井戸に落ちて死んだ。自分は逃げる。お前も一緒に来い」と誘います。しかし、斑平は「運命に任せて、留まる」と答えます。
 新しい藩主は、双方とも藩のためを思ってのことと、斑平に対するあだ討ちの要求を認めません。しかし、それで収まらないのは斑平に斬られた侍の遺族たちです。斑平に好意を寄せているお咲(姿美千子)の投げ文を装い、斑平を山に呼び出し、斬りかかります。山にこっそりと作っていた花畑のなか、何十人もの人々を斬りながら、自分自身も深手を負い、倒れる斑平。お咲が呼ぶ斑平の名前が空しく山々に反響します。惨劇の場から姿を消した斑平は生き延びたのか、それともひっそりと死んだのか。謎を残して映画は終わります。
 馬よりも早く走ることができるという非現実的な設定が、この残酷なファンタジーのなかではちっとも浮き上がっていないのが不思議。
2003年
1月28日

レンタルDVD
犬夜叉
時代を越えた想い

2001年
東宝
 高橋留美子原作のアニメ映画。隈沢克之脚本、篠原俊哉監督。
 普通の中学3年生・日暮かごめは戦国時代へタイムスリップして、妖剣・鉄砕牙(てつさいが)をあやつる犬夜叉に出会います。今回は劇場版の1作目で、敵は瑪瑙(めのう)丸、瑪瑙丸は美女の波璃と瑠璃を従え、妖術を使うもののけです。犬夜叉は半妖半人のいわば混血児。「風の傷」跡を見つけて、鉄砕牙で斬るという戦法で危機を切り抜けてきました。
 多様なもののけが登場します。「ドラゴン・ボール」や「ポケット・モンスター」が幼少年版だとすると、「犬夜叉」は登場人物の名前も漢字名で難しいので、中学生版の感があります。伝奇的なヒーロー一騎打ちものパターンですから、「複雑系」趣味の中年の私にはのれませんでした。 
2003年
1月27日

NHK総合TV
緋色の記憶

2003年
NHK
 トーマス・H・クック原作、野沢尚脚色、渡邊孝好監督の5回連続のサスペンス・ドラマ(1月6日第1回・第2回、以降毎週月曜日放映)。主人公の美術教師・吉澤薫に鈴木京香。いまいちばん素晴らしい、華のある女優さんです。映画もテレビも彼女が出ているだけで素晴らしい。この作品も鈴木京香を見ているだけで十分でした。40分ずつ5回、合計200分もあるため、やや展開が遅くなっています。しかし、薫と惚れあう教師・国村準、その妻・室井滋、校長の妻・倍賞美津子などの力演もあって、見ごたえのあるサスペンス・ドラマになっていました。
 田舎町に夏の終わり、美人の美術教師・薫が赴任してきたところからドラマは始まります。湖のほとりに借りた一軒家の、湖を隔てた向うがわに住む藤枝先生と惚れあうようになりますが、ふさぎがちで欲求不満を抱えた妻が嫉妬の炎を燃やし始めます。絵の好きな校長の息子が三人の間に関わって、まったく悪意はないものの、悲劇の独楽が回り始めます。田舎町から、そして現在の境遇から脱出しようという意志をもってあがいている主人公たち(校長の息子、お手伝いさんの孤児・舞子、薫先生、藤枝先生など)の気持ちがドラマの背景になっていました。 
2003年
1月25日

東映ビデオ
県警対組織暴力

1975年
東映
 昨年12月に脚本家・笠原和夫が、今年1月に監督・深作欣ニが亡くなりました。二人で東映の『仁義なき戦い』を、深作監督はその前身の『現代やくざ・人斬り与太』を撮り上げて、大学時代に私を映画にのめりこませてくれました。
 深作さんの1970年代の映画の素晴らしいカメラワークは、撮影者・仲沢半次郎に依るところも多いと思いますし、津島利章の音楽も効果を挙げていたと思います。
 『人斬り与太』と『仁義の墓場』は何度か見返しているのですが、『県警対組織暴力』は劇場で一度見ただけでしたので、笠原和夫と深作欣ニの追悼の意味をこめて、見返しました。撮影は赤塚滋。120分。
 前半は背景設定の説明もあって、勢いのない『仁義なき戦い』の様で不調ですが、後半、梅宮辰夫の県警からの警部が乗り込んで来るところから面白くなってきます。警察官も極道も、戦後食いつめた者がなったということでは一緒だという認識が辛口です。
 笠原和夫いわく、「この前に彼が撮った『仁義の墓場』。あれはメチャクチャでしょ。深作はホンが気にくわなくてしょうがなくて、とうとう最後はクランクインしてから自分でホンを書いたんでしょ? 撮影当日にその日の分を書いているから、もうバランバランで、つながりが悪いんだよ。悪いんだけど、その迫力たるやね・・・あれは凄い迫力だった。僕はそれを期待して『県警対組織暴力』を書いたんだけど、台本どおりに律儀に撮ってるんだよ。テーマとしてはこちらの狙いどおりになっていて、意図も通じていたわけだけど、映画の魅力としては『仁義の墓場』のほうがありましたね」(『昭和の劇』より)。さすが笠原さん、よく分っていますね。
2003年
1月25日
東宝ビデオ
大誘拐

1990年
東宝
 岡本喜八脚色・監督作品。紀伊の大富豪・柳川とし(北林谷栄)を誘拐した三人の若者(風間トオルほか)を利用して、計画を練ったのはとし本人だった。天藤真のユーモア・ミステリーを映画化した作品です。
 最初に誘拐を企む若者たちが、あまりにも先の展開を読んでいない無計画さなのでリアリティが無くなってしまっています。現代の情報戦争のなかで、これほどの大誘拐がうまくいくとも思えません。身代金を払ったのが結局、国ということになるというアイデァは面白いのですが。
2003年
1月11日

大映ビデオ
座頭市物語

1962
大映
 勝新太郎の座頭市第一作(白黒作品)。脚本は『不知火検校』と同じ犬塚稔。監督は三隅研次、撮影は鬼才・牧浦地志。音楽は『ゴジラ』の伊福部昭。
 飯岡の助五郎(柳永二郎)のもとにワラジをぬいだ市は丁半博打で、壷外に賽を転がして賭け金をつりあげ、二度目に懐から賽をこぼして賭け金を巻き上げる。仕返しだと早まる子分たち。しかし、助五郎が帰ってきて市を丁重に扱うので手下たちは呆気にとられる。市の世話役についた鉄は「正直もの」とは名ばかりで、女はだます、金はかすめる、けなげな妹・おタネ(万里昌代)を兄貴分にさしだす、といったケチなヤクザでした。
 大利根の河原で、釣りが縁で知り合った浪人(天地茂)は笹川の重蔵のもとにワラジをぬいだ平手造酒でした。平手は市の居合斬りの腕を見て、不治の病気で死ぬ前に一度、手合わせをしたいものと念じます。
 この第一作では市はほとんど仕込みを抜くことがありません。彼が斬る人間も、闇夜に襲撃に来た笹川の子分二人と一騎打ちとなった平手造酒だけです。どちらも、ふりかかった火の粉を払った結果といえます。最後には「いやな思い出がある」と仕込みを土に埋めてくれるように小坊主に頼んでさえいます。結局、助っ人にと依頼されても市はヤクザの喧嘩の手助けを断っており、ヤクザ批判に徹した作品です。しかし、重要な点は座頭市自身も決して善人には描かれていないところです。座頭市に嫌われるヤクザと同じくらい、いやらしいところがある、こすっからい、生き恥をさらしている男なのです。
 大映ビデオ作品は、タイトルが出る冒頭とラストをネガ反転処理した原版を、ポジ修正しているため、ここだけ突然ザラついた画面になっています。原版を見た評論家・飯島哲夫は「<裏があるんだ、裏を見てくれ>という三隅研次の必死の叫び」を感じたといいますが、ビデオでは、そのネガ反転効果は修正されていました。
 西脇英夫氏は『日本のアクション映画』(教養文庫)で監督・三隅研次に寄せて『座頭市物語』を記述しています。1962年に三隅は41歳。“三隅研次はリアリストではない。耽美派といわれるほど象徴主義に徹した作家である。・・・しかし、鈴木清順がそうであるように、三隅研次もまた人間を見つめる目は常に現実的である。・・・<シベリヤへ行き、人間がけだものと化していくのを見ましたね。・・・任侠ヤクザ映画が大嫌いですね。本物を見てきているだけに生理的に受けつけません。人間てこんなにもいやな生き方ができるものかいなあ、というヤクザ映画ならまだしも、エエカッコシイのヤクザ映画はやりたくないですね。・・・『座頭市物語』は、最初、池広一夫君のところに持ち込まれた企画だったんですが、彼が市川昆監督の『破戒』(1962)で、応援に出てしまったので、ついに僕がやるようになったんです。すでに本ができていましたけど、いろいろとひねくり回しましてね。こうしたら面白くなるんじゃないか、てなことで撮り始めました>(三隅談)。・・・三隅が長年抱いていた<立ち回りの必然><本当にいやらしく、ぶざまなヤクザもん><本格的なシリアス時代劇>の定型が作られたのである。・・・三隅研次の必死の叫び、それは死をみつめ、死を覚悟した男と男の出会いの美しさではなかったか。・・・それまでになく長いワンシーンと望遠レンズを多用した・・・死のイメージ・・・ひねくれたいやらしい男のイメージで始まった前半から、・・・おたねの顔に手をふれながら人間的暖かさをとりもどしていく後半まで、座頭市の人間像は実に魅力的である。ドラマを様式の中にはめながらも、三隅研次の人間を見る目の確かさがここにある。”
 予告編は本篇とは別に作られていて、桜の下でのおタネの告白(本篇では長屋の前)、野外での助五郎の市の解雇(本篇では部屋の中)、林内での平手との一騎打ち(本篇では橋の上)など、背景の違いが際立っていました。
2003年
1月6日

大映ビデオ
不知火検校

1960年
大映
 勝新太郎が悪役に挑戦した記念すべき第一作。この白黒作品がきっかけとなって、後に『座頭市物語』(1962)が誕生することになります。
 宇野信夫の原作を犬塚稔が脚本化し、森一生が監督しました。撮影は相坂操一、音楽は斎藤一郎。
 盲人・七之助としての子供時代の悪知恵から始まって、困っている人間をさらに騙していく杉の市の悪業が描かれていきます。廊下をまがるときにすばやくきちっと次々と直角にまがるなど、勝は座頭役が初めてとは思えないほどの入魂ぶりでした。この作品では検校は剣を使わずに、悪だくみだけで世の中をわたっていきます。
 杉の市の悪業はいま見てもじゅうぶんに非道なものです。師匠の検校を殺して検校になってから、5年後に話はとんでしまいますが、中途の5年間になにも悪業がなかったというのは信じられないほどの徹底したワルぶりです。盗賊役の安部徹や須賀不次男が気弱に見えるほどの演出でした。
 最後は将軍家へ参上する途中に町方の御用で捕縛されます。大八車にしばりつけられ、検校の顔が上下逆になって引き立てられていく様子が映し出されます。
 西脇英夫は『日本のアクション映画』(教養文庫)で『不知火検校』を高く評価しています。“主人公(杉の市)の論理によれば、弱い者は弱いがゆえに殺されなければならず、強い者はその権力がゆえに抹殺されなければならない。・・・邪悪な陰謀に弱きも強きも、善も悪も、見境いなく巻き込み、相手の欲とかすかな信頼をたてに、毒舌と頭脳によって次つぎと犯していく背徳的な行動しかない、という被圧制者の論理がみごとに熱気をもって描写されている。・・・彼が体制の中で上昇していくことが、そのまま体制をあざ笑うことであり、あらゆる偽善を否定し、永遠に非転向のままでありたいとする庶民的ニヒリズムの姿である。
 こうした一般大衆の内部から発生する敵の姿は、権力側からもたらされる暴力的なイメージよりもはるかに強烈に、スピードをもって下層まで到達し、一人の不知火検校が、百人に、千人になる時、下層社会における実体のない共同体意識は根底からゆらぎ、一人一人がそれぞれの得意とする武器をもって闘わなければならないことを自覚させる。”
 貧乏人だから根性まで曲がってしまったんだと断じてしまえば、見ている方の小市民は安閑としていられるのですが、そういい捨てきれないほど、ワル知恵がまかり通って階級社会のトップに上昇してしまうような社会に対する批判が感じられるところが、この作品の強みでしょう。手段を選ばぬ下人のパワーは、階級社会の枠が強く自覚されるほど強く感じられるものとなります。現代の若者が『不知火検校』を見たらどんな感想を抱くでしょうか。  

シェイクスピア作品の映画化やその関連の映画は除く。
それらは別ファイルになっている。→ 『シェイクスピアの劇と映画


  BACK TO 私の名画座       映画日記データベース


 森崎東監督 全作品データ