ひやひや宿さがし(9月23日)

 久しぶりにゆっくりと起きた。遅い朝食の前に外出。本道へ出る小道をたどる
と右手に小学校があり、子どもらがにぎやかな声をあげて遊んでいる。昨日ジョ
リーさんの馬が上れなかった坂から、本道に出ると、左手に教会の廃屋がある。
例によって屋根が落ちて石壁ばかり、周りには数頭の牛がのんびりたたずむ。家
族なのか、だいたい同じ茶色と白のぶちである。少し先から、まだ通っていなか
った右手の小道を行く。今度は現役の教会があったが、家の造りは皆同じで、た
だ屋根があるところだけが廃屋と違っている。
 朝食は10時、アイリッシュ・スタイルで頼んだ。ベーコンに目玉焼きにソーセ
ージ、さらにブラック&ホワイト・プディングというのが全部一枚の大皿にのっ
て出てくる。プディングは、コクのある大きなあらびきソーセージを輪切りにし
てカリカリにいためたような外見で、コショウがきいている(帰国後調べたら、
腎臓の肉などを使っていて、ブラックの方は血も入っているそうだ)。他にあつ
あつの薄切りトーストと茶色いソーダパン(もろもろしている)は山盛り、ジャ
ムとバターつき、どれもホームメイドなのか、素朴で大変おいしい。他の客(背
の高い若いカップル、六人ぐらいのグループ、などがいた)もだいたい同じ時間
に食べに来て、ケイトおばさんが出来たてを次々運んでくれる。キッチンで腕を
振るっているのは旦那さんらしい。東の海の方に窓のある食堂には、朝陽がいっ
ぱいに差しこみ、並んだ料理に金色の魔法がかかっているようだった。
        †        †        †
 荷物をまとめて、ケイトさんにお金を払った。宿泊者の「一言」を書いたノー
トがあるので、夫が記入する。「日本の人? 英語お上手ね」と、ケイトさんは
お世辞を言ってくれた。「いろんな国の人がうちに泊まっていくので、私もいろ
んな言葉を覚えられたらと思うけど、難しいわね。日本語でGood-byeってどう言
うの?」「Sayonaraです」「サィヨナルラね。分かったわ。でもきっとすぐ忘れ
ちゃうでしょうね」。そこで夫がノートの最後にSayonara、と書いた。
                            ,
 ここはゲール語圏だ。私たちの泊まった部屋の扉にも、「Failte(ようこそ)」
と書いた紙が貼ってあった。私が「ゲール語ではさよならって何て言うんです
              ,
か」と尋ねると「スローン(Slan)よ。短いでしょ」「じゃあ、どうもありがと
う、ビューティフルな島でした。スローン!」。こうして私たちは宿を後にし
た。本道沿いの郵便局へ絵葉書を出しにいってから、のどかな下り道をゴロゴロ
と荷物を転がしてゆく。今日も銀青色の平原のような凪いだ海が、キラキラ、視
界いっぱいに広がっている。
 桟橋で荷物に腰かけて船を待った。どこからどこまでも快晴。陸の方を眺め渡
すと、ダン・エンガスへ続く右手から、左の湾の向こう、「最小の教会」へ至る
まで、くっきりと見える。「エア・アラン」の観光セスナ機が、白い鳥のように
やって来て、左の方へ高度を落とした(島の東端に飛行場があるらしく、昨日、
湾沿いの道で道しるべを見かけた)。波止場にはもうマイクロバスや観光馬車が
集まり出している。ジョリーさんたちの一日がまた始まるのだ。私たちのとは違
う、ゴールウェイからの船が入って来た。お客が下りたち、島に賑わいが戻る。
船から下ろされた荷の中には木のドアもあった。住人の誰かが本土で買い求めた
のだろう。やがて天辺の三色旗をひるがえして、「アラン・フライアー」号が来
た。今日の旅人が下り、泊まりの旅人たちが次々と乗りこむと、出港だ。
 海に寝そべるようなイニシュモアが少しずつ小さくなる。さよなら、アラン。
「最小の教会」も見えなくなったが出ベソのように空に輪郭を刻んだDun Eochla
はいつまでも見えていた。甲板のベンチで、夫は島で買ったポケットサイズのパ
ディ(アイリッシュ・ウイスキー)を一口。私の隣には小さな男の子が父親に連
れられて、おもちゃの電話で遊んでいる。その向こうで足を投げ出したバックパ
ッカーの若いにいちゃんが、腕組みをして髪を風になびかせている。さまざまな
旅人たちを乗せ、船は戻る。ロザヴィールの港まで、島影は消えなかった。
        ◆        ◆        ◆
 下船して近くの駐車場で待っていたら、「アラン・フライアー」と大書した赤
いバスが来た。昨日の迎えのバスよりだいぶ大きく、これが本来の送迎バスなの
だろう。本来といえば、昨日の朝、霧に包まれてこの世の物ならぬ景色だったロ
ザヴィール−ゴールウェイ間は、うってかわって、暖かな小春日を浴びた海岸道
路と田舎景色に見える。バスの中でぽかぽか日に当てられて、思わず居眠り。
 だがゴールウェイでは、思いがけない困難が待ち受けていた。だいたい、今ま
で宿をさがすのに全く苦労しなかった。今度も島から帰ってからゆっくり後の宿
(ゴールウェイとダブリン)を決めれば良いと思っていたところが、今晩はどこ
もいっぱいだ、という。今日からゴールウェイでは年に一度のオイスター・フェ
スティバル(牡蠣祭)、全国から集まる観光客で町じゅう満員なのだった。私た
ちはツーリスト・インフォメーションで途方に暮れ、「ならばこれから汽車でゴ
ールウェイを出て、ダブリンに宿を取りたい」と言うが、これもだめ。週末はホ
テルが取れないのだ。係のお姉さんは辛抱強く、色々あたったり電話したりして
くれたが、私たちは荷物を抱えたまま、どうなることかと青くなった。
 「今晩の宿がゴールウェイに一つだけ見つかりましたよ!」半時間余りしてや
っと、お姉さんが言った。「でも明日ダブリンに泊まるのは無理です。B&Bも
空いていないみたい」。「じゃあ、ダブリンの手前で泊まります。えっと、そう
だ、アスローン!」とっさに鉄道路線図を見て、ゴールウェイ−ダブリン間にあ
る町の名を言う。「O.K.」お姉さんはもう何十回目だろうか、宿泊情報の画面を
操作し、「B&Bが取れました。町から2マイルの所だから、タクシーで…」。
いや、何とか助かった。「で、今日の宿、連絡したのですぐ行って下さい」。
 手渡された地図を頼りに、荷物をゴロゴロいわせ、こみ合う町の通りを長いこ
と歩いて行った。コリブ川にかかる橋を渡ってすぐあたり、下町(場末っぽい)
の「アトランタ・ホテル」(『昭文社』)。名前からして何やら古きアメリカ風
だが、薄暗い窓口に、西部劇でよくホテルを経営しているような、白髪のおばあ
さんが座っており、「前払いで頼みますよ」。そそくさとお金を払って、カギを
もらう。部屋は案外きれいで、シャワーしかなかったが、洗面所も広々としてい
た。とにかく寝場所が確保できてドッと疲れ、お茶を飲みバタービスケット(ア
ランのスーパーで買ったもの)を食べて遅い昼食とした。
        ◆        ◆        ◆
 お祭り気分で賑わう通りで、眼鏡のお兄さんがユイリーン・パイプ(アイルラ
ンドのバグパイプ)を吹いている。広場には、コンサートでもするのか、舞台が
できている。イギリスへの飛行機の予約(これはインフォメーションの管轄外)
をしに町へ出た私たちは、久しぶりに人々のざわめきの中に身をおいていた。旅
行代理店で明日の午後の便を何とか押さえ、ようやく楽しい気分になって、お土
産を買いにセーター・ショップやデパートに足を向ける。
 コリブ川の上の方に架かるサーモン・ウィア橋辺りが風流がありそうだ、と私
が主張して、てくてく歩いて行く。人波が途切れ、夕刻の静かな河畔が開けてく
ると、ザザザザと流れの音がする。堰(ウィア)を通る水音だ。橋を渡るとキキ
ョウの紋のようなマークのついた、ゴールウェイ大聖堂の大きな建物がそびえて
いた。近くにあるはずのレストラン「Cellar」(『昭文社』)が見つからないの
で一度ホテルに戻り、それではと別の通りへ別の店「Busy Bees」(『昭文社』)
を捜しに行く。ところがこれも見当たらず、奇妙なことに「Cellar」がある。ど
うも昭文社の情報は変だ。結局「Fresh Fish & Chips」というファストフード店
に入って夕食(ただし私は牡蠣と相性が悪く、お祭りメニューがあったが食べな
かった)。大盛りのフライドポテト(この国では毎回お目にかかる)に満腹し
て、川辺を歩きに出かけた。
 サーモン・ウィア橋の横手、水路のほとりは、散歩するのにちょうどいい。も
うだいぶ暮れてひんやりしていたが、護岸に座って澄んだ水面の方へ足をぶらぶ
らさせていると、陽気な一人のアイリッシュマンが現れた。お酒が入っているら
しく、気がついたときには私たちの横に腰を下ろして、「どっから来たの? あ
なたいくつ? 住所教えますから手紙下さい」などと大声で話していた。体格は
いいし、何だかおっかない気がしたので、そろそろと退却しようとすると、いき
なり「私のこのサングラスをあげよう」と言う。「今日の出会いの記念にぜひも
らってくれたまえ!」 …おじさんは機嫌よく私の手に金縁のサングラスを押し
つけて、鼻歌まじりに川辺を遠ざかって行った。これも祭りのおまけだろうか。
        ◆        ◆        ◆
 夜、私たちはホテルのパブへ行ってみた。チェックインの時おばあさんがいた
窓口(今はお姉さんがいた)のすぐ横から入ると、だだっ広い暗いホールに1組
だけお客がいて、何か飲んでいた。天井の明かりは一つおきしかともっておら
ず、全体に少しカビ臭い、場末の雰囲気が満ち満ちて、幽霊でも出そうな、冷え
た静けさが沈殿している。私たちはアイリッシュ・コーヒー(アイリッシュ・ウ
イスキー+コーヒー+生クリーム)を頼んで体を暖めた。バーテン役は窓口のお
姉さんで、呼ばないとなかなか来てくれないが、この地下のアジトみたいなパブ
はそれなりにしっとりと落ち着いた(怪しげな)ムードで、印象的だった。私た
ちが引き上げる9時頃、泊まり客らしい数人が店に入って来た。この国のパブは
これからようやく活気づき始めるらしい。
 後で夫に聞いたところ、パブではルームキーを見せたらお金は取らなかったそ
うだ。ところが翌朝チェックアウトでキーを渡しても、何の請求もなかった。ど
うやらタダで飲んでしまったようである。

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