アスローンにて(9月24日)

 朝食はパブのさらに奥の部屋で、途中、工事をしている空間があった。若いカ
ップルなど2、3組、同じ時間に朝食を取る客たちがいた。全体にこのアトラン
タ・ホテルはどこか怪しげだったが、値段の割に朝食もおいしく、まあまあの宿
だと思う。
 ツーリスト・インフォメーションでさらにお土産を買った後、すぐ近くの駅ま
で荷物を転がして行く。アイルランドに来てはや1週間、初めて鉄道に乗るの
だ。大勢がたむろして列車を待っている。切符を買い、始発駅なので列車がいっ
たん駅を出てディーゼル車両をつけかえたりするのを待ってから、11:35発に乗
り込む。これで西部ともお別れ、また東へ戻って行くのだ。ゴトゴト走る汽車の
窓からは、どんより曇った景色が見える。アスローンまで1時間ちょっと。
        ◆        ◆        ◆
 車窓の風景に緑濃い牧草地帯が戻ってきた。ところが今日は天気が悪く、小さ
な町を次々に過ぎてシャノン川のほとり、アスローンに着いた時は雨でも降りそ
うな空模様。橋を渡った所の新しい駅舎は短すぎるのか、後ろの車両で下りる準
備をしていると、乗客の一人が「前へ行かないと下りられませんよ」と教えてく
れる。なるほど、都会の駅とは思えない。「B&Bへはタクシーで行け」と言わ
れていた私たちは、荷物を傍らに、駅の玄関に突っ立って辺りを見回した。駅は
町の中心から少しはずれていて、お世辞にも賑やかとはいえない。
 どうしたものか、と不安になってきたその時、スーッと一台の車が寄ってき
た。「タクシーかね?」「ええ、この宿までお願いしたいんですが」と、予約用
紙を見せると、うなずいた頼もしいアイリッシュ・ドライバーさん、「私ら、
『アスローン・タクシー』です。御用の向きはここへどうぞ」と、名刺大のカー
ドをくれる。営業所の住所と電話番号が記してあった(この町で唯一のタクシー
会社らしい)。町を抜け、国道を走って、やがて道沿いにポツンと立った白壁に
蔦のからまる家、「The Mill」。運転手さんは車を降りてドアを叩きに行ってく
れる。やがて「向こうらしいよ」と、建物の反対側へ回って行き、ようやく出て
きたおじさんに私たちを引き渡した。
 今回案内された部屋は、入るなり花の香りがした。ポプリかしら、すてきな芳
香剤だ。こぢんまりして、真ん中にダブルベッドがあり、淡い色調のベッドカバ
ーや壁紙がかわいらしく、私はこの2軒目のB&Bもすっかり気に入ってしまっ
た。窓からは低い植え込みと砂利、生け垣、その向こうが道路である。
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 運転手さんに頼んで、荷物を置いた後もう一度、町まで乗せて行ってもらっ
た。アスローンの郊外にはクロンマクノイズの大修道院跡があるはずだが、半日
しか時間がなくては到底行くのは無理だ。せいぜい町なかを歩くつもり。
 車を降りてアスローン橋へ。数日前通った上流のキャリック・オン・シャノン
で見たのとは違って、アスローンではシャノンの流れは太く大きくなり、満々と
して豊かである。白く塗った船が釣り客らしい人々を乗せて動いて行く。これで
晴れていたら、どんなに美しい眺めだろう。だが今日は冷たい風に時折雨が混じ
り、皆は上着の襟を立てて歩いている。
 橋を渡ったところにアスローン城がある。町のシンボルらしく、ツーリスト・
インフォメーションもここにある。城といっても銃眼のある灰色の城壁と、川の
方へ突き出した見張りやぐら、真ん中に丸いがっしりした低い塔があるだけで、
この塔は博物館(というより古い道具や町の資料を置いた民芸館といった雰囲気
だ)になっている。城から見下ろすシャノンの浅瀬?は、1690年、ジャコバイト
たちが英国王ウイリアム3世軍を迎えうった「アスローンの城攻め」の古戦場だ
という。そういえば、(1688年の名誉革命で王位を追われた)ジェイムズ2世軍
とウイリアム3世軍の最初の決戦場であるボイン渓谷では、私たちは、「古戦場
はこちら」という看板を見たものの、先を急ぐあまりとうとう川岸に立つことな
く通り過ぎてしまったのだった。旅の終わりに思いがけず彼らの戦いの跡に再び
遭遇することになったのは、不思議なことだ。もっとも、この時ジェイムズ2世
はどうやらもうフランスに亡命しており、カトリックを信奉するジャコバイトた
ちはリマリックでも頑強に戦った揚げ句、翌1691年(後に英国議会に拒まれるこ
とになる)和平条約を結ぶ。
 私は近代以降のアイルランド史は全然詳しくないのだが、砲台の据えられた城
から川を見下ろすと、日本の戦国時代の城に立った時のような、ドラマチック
な思いに満たされる。それにしても、吹きつける風の冷たいこと!
        ◆        ◆        ◆
 橋を戻って町一番のホテル「Prince of Wales」(『歩き方』)で両替をする。
ここは暖かく、ロビーも喫茶も満員だ。大きな売店でお土産にチョコレートを買
う。高級そうな陶器やウール製品の他、石でできた、古代の彫刻のようなおかし
な顔の駒が並ぶチェス盤なども売られている。
 外は寒いのでファストフード屋でコーヒーを飲んだり、本屋をぶらついたりす
る(夫はまた料理の本を買っていた)。時間がたっぷりあるのでシャノンの川岸
に行ってみた。広々とした川面は鉛色の空を映してゆるやかに地平へ流れてゆ
く。左向こうの岸辺には堂々とした木立ちがあり、夏の日には涼しい木陰をつく
るのだろう、ベンチなどが置いてある(『歩き方』によると「Bungos Park」)。
私たちは川辺の道沿いにあるベンチに腰かけて、次第にを眺め
た。白鳥にパンくずをやっている人、静かにもやうボート、背後の修道院の石造
りの門から出てきた、くすんだ僧服に荒縄のベルトの年取った修道僧。アイルラ
ンドでは多分ごく普通の小さな町の、ごく普通の日の夕暮れ。だんだん風が冷た
くなってきた。
 メイン・ストリートへ戻り、学生や家族連れの入っているファミリーレストラ
ンでハンバーグやミートパイを食べて夕食とした。ここでもお皿いっぱいに出て
来るフライドポテトが主食だ。近くの「Conlon's」(『歩き方』)というパブに
入る。入り口の立派な広い店で、止まり木の他にたくさんのテーブルがある。各
自がカウンターへ行って注文するアイルランド(や英国)のバーでは、テーブル
には何もなくて、ただ椅子の数だけコースターが置いてあるのが面白い。私たち
はギネスを飲みながら、窓からたそがれるシャノン川を飽きずに眺めた。本当
に、アスローンは夏に訪ねたい町である。川風に吹かれ白い小船の上などで、夕
涼みのギネスはどんなにおいしいだろう。
 店がようやく若者で賑わい始める頃、私たちはそこを出てアスローン・タクシ
ーの営業所へ行った。先ほどもらったカードにも記してあるし『歩き方』にも載
っている場所へ行くと、そこは通りに面した間口の狭い建物で、1階は花屋だっ
た。2階へ上る小さな階段のふもとに呼び鈴があり、「タクシーの御用は押して
下さい」。そのインタホンで車を呼んでもらい、宿へ帰った。
        ◆        ◆        ◆
 私たちの宿「The Mill」は、本来はパブである。戸口を入って左が私たちの部
屋ともう一つの部屋、右のドアをあければ雰囲気のよい広いパブ。部屋でしばら
く休んでからそちらへ行き、カウンターの端に陣取ってホット・ウイスキー(ア
                     クローブ
イリッシュ・ウイスキー+半分に切ったレモン+丁字4本――レモンに挿す)を
飲む。大変おいしい。それに酒をつくってくれる若い男の子(この家の息子だろ
うか)が細面のハンサムだ。そこで飲み物をおかわりして十分あたたまるまでゆ
っくり味わう。この店は怪しげでもなく、やかましくもなく、高級すぎもせず、
ちょうどよいほの暗さと静けさと落ち着きがあって、たいそうくつろげた。反対
側の扉からも時折客が入ってくる。昼に着いた時、タクシーの運ちゃんが最初に
近づいて行った扉は、パブのあの入り口だったようだ。こうしてアイルランド最
後の夜がふけてゆく。

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